【後嵯峨天皇の即位―北条泰時の置き土産―】
四条天皇が亡くなった後の十数日間、朝廷には「天皇」がいなくなった。
君臨すべき人物がいなくなったからである。
承久の乱後に、幕府が奉じた皇統は、ここに断絶した。
幕府は、後鳥羽上皇の子孫に縋るしか、なくなったのである。
報せは、鎌倉の執権北条泰時の下にも届けられた。まさか、幼帝が急死するとは。
『三日三夜寝食を忘れて案じける』(五代帝王物語)
“泰時は、三日三夜、寝食を忘れて対策を考えた”
こうなった以上、後鳥羽上皇の子孫を奉じるほかない。
候補には二人の人物がいた。土御門院の皇子と順徳院の皇子である。
土御門院も順徳院も、承久の乱後、幕府が京から追放した上皇である。
だが泰時は、順徳院の皇子だけは天皇にしたくなかった。
順徳院が乱の首謀者だったからである。
何よりも、九条道家が、早速この皇子を奉じようと画策している事が気に掛かった。
幼帝の死は、本当に事故死だったのか。
順徳院を京に呼び戻し、幕府に復讐するための“力”が働いたのではないか。
それは、後鳥羽上皇の怨霊なのかもしれないし、暗殺者の手なのかもしれない。
だとすれば、なおさら順徳院の皇子は奉じられぬ。
泰時は土御門院の皇子を奉じる事を決意した。
そして、東使(使者)として京に派遣する安達義景に、こう言い含めたという。
―順徳院の皇子が既に天皇となっていた場合は、皇位から降ろし申し上げよ―
一二四二年一月十九日、義景は京に到着した。この時、廷臣の多くは順徳院の皇子 に東使が来ると考え、その邸に集まっていた。しかし、東使は別の方角に向かっていく。
『みな驚きあわてて、おし返しこなたに参り集ふ。』(増鏡)
“貴族達は、みな驚き慌てて、邦仁王のいる土御門殿に参集した”
身の危険を感じた貴族達の行動は素早かった。
『異域蛮類の身をもって、この事を計らい申すの条、宗廟の冥慮いかん』(平戸記i)
“異域蛮類の身で、天皇の即位を強行するとは。泉下の帝らがどう思われることか”
朝廷の故実に詳しい民部卿平経高は、幕府に対する憤りをそう記した。
かくして、土御門院の皇子が即位した。後嵯峨天皇である。