【弘安の役】
一二八一年、蒙古軍が再び九州に攻めてきた。時機は悪くない。文永の役から数年を経て、防衛体制は整っている。北九州に武士が集う中、朝廷も慌しくなった。
『本院・新院は東に御下りあるべし。内・春宮は京にわたらせ給ひて、東武士ども上りてさぶらふべし』(増鏡)
“いざとなれば、後深草院と亀山院は関東に下っていただく。帝と皇太子は京に踏み止まり、関東武士がこれをお守りするべし”
戦闘的で、それでいて持明院統も大覚寺統も生き残る策が考案された。
この時期に、亀山上皇は各地の寺院に参詣して、蒙古の殲滅を祈っている。
『まことにこの日本のそこなはるべくは、御命を召すべき』
“日本が滅びるようなことがあれば、この命を召し上げて下さい”
日本にとって幸いだったのは、この「弘安の役」でも、元が本腰でなかった事である。元軍十四万のうち、実戦に耐えうるのは、元・高麗軍の混成部隊である「東路軍」四万だけであった。残り十万の「江南軍」は、旧南宋の軍隊のうち、どこにも配属できなかった弱兵である。その大半は、日本に移住させるための屯田兵であり、一部に見られるイスラム教徒兵も、おそらく戦後に造船や交易に従事させるための連中だった。
酷な話だが、フビライ・ハンにとって「江南軍」は捨石だった。全滅して帰って来ない方が、江南の治安が良くなるくらいである。そのため、フビライが「江南軍」の将に任命したアタガイは中級モンゴル人指揮官であり、凡そ十万の軍勢を率いる格ではなかった。ただ一人、副将の范文虎だけが遠征に意欲的だった。范文虎は南宋の降将である。この遠征を成功させて、帝国内における江南人の地位を改善したいという願いがあった。
このように、元側から見て、この遠征は精々「南宋併合の後始末の一環」だった。
とはいえ、大魚にとっては小戦でも、小魚にとっては決戦である。実働部隊である「東路軍」四万のうち、半分が水夫だとしても、戦闘員二万である。かつて、「未曾有の大軍」と称された富士川の戦いでの“平家軍四千”の五倍であったi。
しかし、北九州・関門海峡に集結した日本の軍勢が、当初からこの危機を認識できていたのかは疑問である。例えば、御家人の中には所領を過少に申告し、最低限の兵しか出さない連中もいた。また、御家人でない(幕府の支配下でない)武士も参加していたが、半ば強制的に動員された連中だった。戦意旺盛なのは、恩賞獲得を期待する無足の浪人と庶子(相続する土地もない御家人の子弟)くらいであろう。
しかし、今日に伝わる「弘安の役」関係の史料は、高麗側・日本側、いずれの記録にも「日本勢の好戦的な様子」が記されている。武士達に、一体何が起きたのか。
本格的な戦いが始まったのは六月六日。「東路軍」が博多湾に出現した時である。
「東路軍」は、その途上で対馬・壱岐に侵攻し、島民を虐殺していた。
博多湾を大船団が埋め尽くす。その数、六百隻。「文永の役」をはるかに上回る数だった。武士達は、これからいかなる戦いが始まるのかを肌で知った。
―敵はこの地を奪おうとしている―
石築地(防壁)を突破されれば、領地が蹂躙され、妻子・一族が殺される。
今日、「弘安の役」に参加した武士の多くが、九州に領地を持っていた事が指摘されている。戦場に立つ武士達が、蒙古の大軍勢を目の当たりにした瞬間、この戦いは、“存亡をかけた戦い”へと様相を一変した。武士達は「日本人」に覚醒したのであるii。
武士達は、震えを抑え、矢をつがえていく。
最初の矢が放たれた。
夜になって、敵の攻撃は止んだ。しかし、武士達は小船を用意し、次々と蒙古軍に夜襲をかけていく。七日夜には、伊予の河野通有(九州に領地)が、敵船に乗り移り、指揮官を生け捕った。犠牲を厭わず、捨て身の攻撃に出る者が後を絶たない。
「東路軍」は志賀島にも上陸した。八日、豊後の大友頼泰率いる軍勢がこれに喰らい付いた。更に、安達盛宗(泰盛の子、現地で代官)率いる肥後の軍勢もこれに加勢した。
『日本兵突進し、官軍潰え、茶丘馬を棄てて走ぐ』(「高麗史」・巻一百四・金方慶伝iii)
“日本兵が突撃し、高麗軍は崩れ、将軍洪茶丘は馬を棄てて逃げた”
『王万戸復たこれを横激し、五十余級を斬る。日本兵すなわち退き』
“将軍王万戸はこれを横撃し、五十余の首を取った。これによって日本兵を退けた”
『翌日また戦いて敗績す』
“翌日また戦ったが、今度は元・高麗側が敗れた”
「東路軍」の狙いは、石築地(博多湾の防壁)を迂回して志賀島を突破し、一気に大宰府を突く事にあった。しかし、その意図は挫かれ、ここに「東路軍」は博多湾周辺での立ち往生を余儀なくされた。「東路軍」は体制を立て直すため、やむなく壱岐に後退した。
「東路軍」は、壱岐で「江南軍」の到着を待ち、数に物を言わせて勝負を決めるつもりだった。しかし、合流予定日である十五日を過ぎても、「江南軍」は到着しない。
『今南軍至らず、我軍先に至りて数戦す。船腐り糧尽く。それ将に如何せんとす』
“今、江南軍は到着せず、我々は先に戦場に着き、戦端を開いてしまった。
船は腐り、兵糧も残り少ない。この事態をどうすればよい”
しかし、高麗の将軍金方慶は答えなかった。
十日後、また同様の意見が出た。しかし、金方慶はこう言い放ったという。
『今一月の糧尚在り。南軍の来るを俟ち、合に攻めて必ず之を滅ぼすべし』
“まだ一ヵ月分の兵糧が残っている。江南軍の到着を待ち、合流して敵を滅ぼすのだ”
おそらく撤退を示唆したのは、洪茶丘ら元の将軍である。
洪茶丘は、現在の瀋陽(中国の東北地方)に割拠する高麗降民の指導者であった。
遠征前、洪茶丘は「金方慶らに叛意あり」とフビライに讒言し、高麗を窮地に陥れていた。高麗が、今回の遠征で先鋒を買って出ざるを得なかったのは、この事情による。
金方慶は退けなかった。退けば、フビライが高麗への疑念を強める。
七月初旬、ようやく、「東路軍」と「江南軍」は平戸付近の沖で合流した。規模としては、兵力十四万・軍船五千隻の大軍勢となったわけである。しかし、金方慶は「江南軍」の実態を知り愕然とした。これが、援軍だというのか。烏合の衆ではないか。
「元軍」は再編成に手間取り、東進を再開する頃には、七月の下旬となっていた。
そして、ここで、「元軍」の船団は暴雨風に出くわす。
『大風に値い、蛮軍皆溺死す』
閏七月一日、「元軍」は大打撃を受けた。博多湾は、溺死者の屍で埋め尽くされたとい
う。こうして、「日本」は残った。
敗走する蒙古軍への追撃が重ねられる九日、執権北条時宗は、朝廷に「高麗まで追撃する可能性もあるので、今後も、貴族・寺社領の住人を動員したい」と申し入れた。
これを受けて、蔵人弁経俊は宣旨の手続きをした。しかし二十一日、京に蒙古軍壊滅の報が伝わった。そのため、幕府の要請で、宣旨の日付が閏七月“九日”に修正された。
幕府は、宣旨が「有事の際に」発行された事にして、後日の反発に備えたのである。
一方、遠征軍壊滅の報に触れたフビライは、ようやく事態の深刻さを認識した。帝国の威信をかけ、三度目の遠征を企画する。今度こそ、日本存亡の危機であった。
しかし、一二八七年に東方三王家の反乱が起こる。モンゴル帝国は分裂し、対応に追われた高齢のフビライは、一二九三年に自らの余命を使い果たした。