【脱線二・仏光国師は一喝が好き】
祖元の回答を聞いた北条時宗は、思わず師を見つめた。
通詞が、通訳を間違えたのかと思ったのである。
しかし、祖元はいつもと変わらぬ様子で、言葉を続ける。
『須らく當に放下すべし』(仏光国師語録・巻七「太守道を問うに答える法語」)
“その公案を捨てて下さい”
祖元が鎌倉に来て間もない頃の、某日の出来事である。
祖元は、日本からの要請を受け、「蒙古」から来日した僧である。
臨済宗の僧として、日本での、禅宗の興隆を期待されていた。
だが、この祖元。わざわざ荒海を越えて来たというのに、終世日本語を話さなかった。やむなく、時宗は、通詞を介して、祖元と会話をしている。
そのためか、座禅を組んだ際、祖元が喝を入れる相手は「通詞」であった。
時宗は首をかしげる。何故、自分を叩かない。遠慮をしているのか。
しかし、祖元は、誰よりも厳しい師であった。
蒙古兵に切られそうになった経験を持つ祖元は(本人は一喝して追い払ったと言っている)、時宗の心にある蒙古への恐れを見ぬき、しばしば、時宗を一喝した。
そして今回は、『公案』に悩む自分に対し、あろう事か「捨てろ」と言った。
「公案」とは、悟りの境地に辿り着くため、師から与えられる「問い」である。
これを一つ解けば、一歩悟りに近付く事ができた。
ただし、この公案。拘泥し過ぎれば他が疎かになるという弊害がある。
鎌倉時代の禅宗はこの弊に陥りがちだったという。
特に、時宗のような真面目な人物は、その見本となっていた。
『反て毒薬』
“(解けない公案に捉われると)却って、毒薬となります”
捨てる。それは、父時頼を失って以来、ずっと、一身に重圧を引き受けてきた時宗にと
って、天地が引っ繰り返るような視点だった。そんな考え方もあったのか。
こうした遣り取りが続くうち、いつしか時宗は祖元を師父と慕うようになった。
時宗は、幕府内には見出せなかった知己をここに得たのである。
この祖元の仏光派が、のちに夢窓疎石を排出し、室町時代に五山の主流派となる。
元の侵略が生んだ、出会いであった。