【建治年間の幕府】
一二七六年、高麗への出兵計画が中止となった。他にやるべき事が山ほどあったからである。各領主に軍役を課し、兵糧・兵船を確保し、「文永の役」の戦功者に恩賞を与えなければならない。安達泰盛(時宗妻の養父)が御恩奉行として活躍したのも、この頃である。
建治年間、幕府には源氏将軍が君臨する。これは惟康王(【新たな時代】参照)が、源氏姓を賜り臣下となったためである。安達・足利ら、源氏一門の御家人は、これを喜んだ。
執権北条時宗の狙いも、まさにそこにあった。
この頃、幕府には連署(副執権)が置かれていない。
一門衆が連署を巡って対立し、遂には前連署塩田義政が、領地に引っ込んでしまったか
らである。期せずして、時宗の手には、全ての権力が集まった。
だが、時宗はこれを喜ばなかった。強大すぎる権力は、却って大きな災いを招く。
政村に叱責された記憶の残る二月騒動を、時宗は忘れていなかった。
自分は、父時頼のように、将軍を敬い、一門・御家人からも慕われる執権になりたい。
“鎌倉時代で最も生真面目な独裁者”の誕生であった。
海外からは、蒙古が南宋を滅ぼしつつあるという情報が、流れてくる。
モンゴル高原の遊牧民。中央アジアの交易商。イスラム商人の造船技術。そして、世界経済を牽引した南宋。それらを一手に集めつつある蒙古に対して、どう対処するのか。
ユーラシア大陸統一のために従うか。それとも高麗、南宋、東南アジア諸国、琉球、カラフト・アイヌのように抗うか。それは、執権一人の手で、扱える問題ではなかった。
だから時宗は、自らの政権を、国を纏める政権に育て、蒙古に対処しようとした。
そのためには皆の団結が要る。「源氏将軍」を奉じる必要があったのである。
時宗は、安達泰盛と平頼綱(内管領・直臣筆頭)の対立をよく抑え、次々と蒙古に対する布石を打った。一二七七年には、北条時村(故政村の子・父譲りの手腕)を六波羅に赴任させている。これは、六波羅を蒙古対策の司令塔として成長させる事が目的だった。
時宗の努力は、まもなく実を結んだ。
『異国警護の間要害石築地の事。高麗発向の輩の他、奉行の国中に課し』
(〔深江文書〕建治二年三月十日少弐経資石築地役催促状i)
“異国の襲来に備えて石築地(防壁)を整備し、また高麗を攻めるため、軍役を課す”
即ち、北九州・関門海峡に、大軍勢が集められたのである。
一二七九年二月、厓山の戦いで、南宋が遂に、「蒙古」こと、大元帝国に滅ぼされた。