【両統迭立】
一二七三年五月、連署北条政村が、六十九歳で亡くなった。
政村の政治歴は長い。若い頃は、北条泰時と執権の座を巡って対立した事もある。
しかし、泰時に許された後は、歴代執権を支え、北条一門の柱となっていた。
京の貴族すら、政村を「東方遺老」と呼び、畏れ敬ったという。
政村の死後、次の連署塩田義政が選ばれるまで、二ヵ月の時間が掛かった。これは、政村を失った政権で動揺が起きた事を示す。その結果、政権内で二つの勢力が台頭した。
安達泰盛(時宗の妻の養父)と内管領(御内人筆頭)平頼綱である。
一二七四年一月、京では、後宇多天皇が即位し、父亀山上皇が院政を開始した。
十月、蒙古が九州に侵攻している(文永の役)。
翌十一月、蒙古の脅威を実感した幕府は、安芸の武田信時に重大な指令を発した。
『国中の地頭御家人ならびに本所領家一円地の住人等を相催し、禦戦せしむべし』
(東寺百合文書・ヨ函・文永十一年十一月一日関東御教書i)
“国中の地頭・御家人・本所領家一円の住人達を動員し、防戦せよ”
蒙古が攻めてきた際には、幕府の治めない本所一円地(貴族・寺社の土地)からも武士を動員せよというのである。これは、朝廷側から見れば、支配圏の浸食であった。
亀山は、敢えてこれらを容認した。国防のための、“高度な政治的判断”である。
しかし、荘園領主である貴族達は、亀山の対応に不満を持った。
一二七五年秋頃、趨勢を見極めた後深草上皇が、側近らと共に出家の準備を始めた。
『とりわけむつましゅう仕まつる人、三、四人ばかり御供仕まつるべき用意す』(増鏡)
皇子煕仁親王を皇太子にしないなら、御所全員で一度に出家するという抗議行動だった。後深草は、弟亀山のように、政務に堪能な指導者ではない。
しかし、その時々の政治情勢を読み、都合のよい結果を導き出す手腕に関しては、天才的なものがあった。今回の騒ぎで後深草が利用したのは、①「本所一円地からの動員」を認めた亀山に対する廷臣達の不満、②安達派(亀山と懇意)と御内人の緊張、である。
京の騒ぎを聞いた時宗は、強硬策を避け、煕仁を皇太子にするよう亀山に上奏した。
『いかでか忽ちに名残なくはものし給うべき。いと怠々しきわざなり』
“後深草院の子孫が皇統から離れていくなど、あってはなりません”
幕府の意向に鷹司兼平らが賛同する中、十一月煕仁親王が皇太子となった。
後深草の持明院統、亀山の大覚寺統。いわゆる「両統迭立」のはじまりであった。