【脱線一・粥杖事件】
宮中では、毎年一月十五日は「粥杖の日」である。この日に“粥を煮た木”で尻を打たれた女官は男子を産むとされ、当日には粥杖から逃げ回る女官の姿が見られた。
一二七五年一月十五日、後深草上皇の御所でも、この行事は行われた。通常、女官の尻を打つ役は、上皇である。しかし、この年の上皇は、戯れに公卿達に女官を打たせた。
女官らが逃げる様子に上皇はご満悦だった。しかし、女官達はこの屈辱を忘れなかった。
三日後の十八日、朝食を終えて御所の廊下を歩く上皇は異変に気付いた。
『など、これほど常の御所には人影もせぬぞ』(とはずがたり)
“どうして、今日の御所には女官の姿が見えんのだ”
すると、「末の間」から声がする。あの声は、東の御方と二条か(共に後宮を彩った)。
しかし、上皇が部屋に足を踏み入れても、二人の姿は見えない。
その時。背後で息を殺していた東の御方が、突恕上皇をはがい締めにした。
驚く上皇に対し、更に、“粥杖”を手にした二条が立塞がった。
『あなかなしや、人やある、人やある』
“ああ何てことを、誰かおらんか、誰かおらんか”
その声に、北畠師親が馳せ参じようとした。しかし、渡り廊下は女官真清水に塞がれ、その手にも粥杖が握られている。これを見とめるや、師親はそそくさと逃げて行った。
『思ふさまに打ち参らせぬ』
“(その後、)気が済むまで院を打って差し上げました”
かくして、師親に見捨てられた上皇は、二条に気が済むまで打ちすえられた。
『昔の朝敵の人々も、これほどの不思議は現ぜず候』
夕食時、上皇に恨み言を言われた師親らは、そう応じた。
「この罪をどうするか協議しましょう」「罪は親類にも及びましょうか」「しかし、新年早々、流罪にするのも面倒だ」公卿らは面白がり、冗談半分で勝手な事を口々に言った。
結局、二条の縁者らが「贖い」をする事になった。二十日、祖父四条隆親が太刀・小袖を周囲に配った。翌日は、叔父四条隆顕と親類隆へん僧正が。更に、久我の尼が…。
しかし、尼曰く、「あの子は御所で育ちました。悪戯者に育ったのは院の御不覚です」。
『とは何ごとぞ。わが御身の訴訟にて贖はせられて、また御所に御贖ひあるべきか』
“とは何じゃ。わしの訴訟で償いをさせたのに、今度はわし自身が償いをするのか”
しばらくぼやき続けた上皇は、しぶしぶ、公卿らに太刀を、女官らに衣を下した。