【御素意】
後嵯峨法皇の死を乗り越えた貴族達は、改めて深刻な問題に向き合わざるを得なくなった。法皇は、後継者を指名していない。後継者は後深草上皇か、亀山天皇か。
この問題は、法皇の生前から取沙汰されており、廷臣は既に二派に別れつつあった。
『院方・内方と人の心々もひき分かるる』(増鏡)
“院方・帝方と、廷臣達がひき別れていった”
亀山を支持する者は、現政権の維持を唱えた。
そして、後深草を支持する者は、その皇子を皇太子にせよと主張した。
困った朝廷は、幕府に判断を仰いだ。しかし、その幕府も、二月騒動の後始末に掛かりきりである。それどころではなかった。朝廷の事は、朝廷が決めるべし。
亡き法皇への信頼もあり、幕府は、“この時”朝廷に介入するのを控えた。
そして、このような時、日本では女性が表に引っ張り出される。幕府は、後深草と亀山の母親である、大宮院にその判断を委ねた。これに対して、大宮院曰く。
『先院の御素意は当今にまします』(神皇正統記)
“亡き後嵯峨院の御素意は、亀山天皇にありました”
“御素意”。この良く分からない一言で、亀山政権の存続が決まった。そもそも、そんなものがあったのだろうか。亡くなる前の後嵯峨法皇の行動を列挙すると。
①生前に後継者の指名は行なっていない。幕府への友好姿勢を最期まで貫いて、皇位に下手な意思を示さない事が朝廷の利益になると考えたようである。
②『十三日の夜よりは、物など仰せらるることもいたくなかりし』(とはずがたり)
“二月十三日夜から、昏睡していらした(二月騒動を認識できる状態ではなかった)”
③『御かくれの折、構えて御覧じはぐくみ参らせられよと申され』
“亡くなる前に、構えて息子後深草をよく後見してくれと鷹司兼平に言った”
一方で、昏睡する前に、鷹司兼平に後深草の後見を頼んでいたようである。
兼平は、藤原の氏長者で、既に摂政・関白・太政大臣を歴任している。
兼平は、この遺言に応え、後深草と親密な関係を築いた。
兼平のような重要人物に、③の言動をとっている後嵯峨が、後深草をただ冷遇していたとは考え難い。後深草にも「御素意は自分にあった」と言い張る余地があった。
こうした曖昧さが亀山政権の致命的な弱点となった。
そして、これが百年以上も尾を引いた。