【後嵯峨法皇の死】
『御心に仕うまつり、いささかも、いでやとうち思さるる一ふしもなく』(増鏡)
“後嵯峨院の御心のままに振舞い、異を唱える様子は、いささかも見えない”
一体どの貴族の事だと思う記述だが、後深草上皇の事である。
退位後の後深草は、ひたすら影のごとく父に従った。隠忍自重。弟の亀山が天皇で、その子が皇太子になろうとも、その姿勢は変わらなかった。
このような姿は、周囲から見れば奇妙に映ったかもしれない。なぜなら後深草は、その気になれば、政治的立場を強硬に主張できる力を持っていたからである。
後深草は、一二六七年に後鳥羽上皇の娘、宣陽門院から、大荘園「長講堂領」を相続している。宣陽門院は、後嵯峨政権にあって、その経済力を背景に第三勢力を形成した女性である。従って、彼女の「猶子」(その人の財産を相続するが、実の親との関係も変えない養子のこと)となった後深草も、それができた筈なのだ。
強硬策をとらなかったのは、父への畏れのためだけではなかったと思われる。
『御腰などのあやしくわたらせ給ふ』
“腰が奇妙に曲がっておられた”
後深草は、幼少期には腰が曲がり、室内で女官達と大人しく遊ぶ事が多かった。
そのため、長じて温厚な人物に育った。側近くに仕え、子供も産んだ女官“二条”の著作『とはずがたり』によると、言葉遣いも女性的だったという。
但し、ただのお人好しではなく、政治感覚に富み、執念深かったともいう。
なお、成長後は腰もある程度治ったのか、時折蹴鞠などの運動に興じている。
しかし、深酒に及んだ宴席の後や、精神的に疲れた時には、二条に腰を揉んでもらっている。どうやら、完治はしていなかったようだ。
(余談となるが、弟の亀山天皇は、この時点で鳥羽法皇の遺産「八条院領」を受け継ぐ予定だった。しかし、荘園を管理する安嘉門院が、姪の室町院に譲り状を書いたため、彼女と分割するはめになり、後に政治問題となった。)
一二七二年二月十七日、後深草が影のごとく仕える父後嵯峨が崩御した(五十三歳)。
朝廷に君臨すること三十年。幕府との協調に努め、一時代を築いた人物の死だった。
『なき御後まで、人のなびき仕うまつれる様、来し方もためしなき程なり』
“お亡くなりになった後も、廷臣達がなびき従う様子は、前例のない程だった”
おそらく、朝廷にとって、最後の幸福な時代が終わりを遂げた。