第二章:蒙古襲来【二月騒動―北条政村の威―】
一二六九年九月、高麗から再び蒙古の国書が届いた。この時、朝廷は返事を用意したが、幕府に差し止められた。幕府は「外交権は朝廷のもの」という前言を翻したのである。
しかし、その幕府も、この頃は「新将軍の元服」や「蜂起した比叡山への対応」などに追われ、高麗の密使や蒙古の三度目の使者が来るまで、国防は後回しにされた。
一二七二年二月頃、幕府に不満を持つ公卿達を抑えていた後嵯峨法皇が危篤に陥った。余命いくばくもない。鎌倉の執権北条時宗は、この事態に焦った。
法皇が崩御すれば、朝廷が動揺し、幕府内の不穏分子と結託する恐れがある。
・北条時宗派:北条政村(連署)・金沢実時・安達泰盛(妻の養父・義景の子)
・北条時輔派(異母兄、六波羅南方):名越時章・教時兄弟、中御門実隆ら
二月十一日、御内人(得宗家直臣)らに焚きつけられた時宗は、鎌倉で名越時章・教時兄弟を討ち取り、続いて十五日、六波羅北方の北条義宗に時輔を討ち取らせた。
しかし、当初、名越兄弟は「捕縛」する予定でありi、時宗の行動は独断であった。
『今自以後、有蒙御勘当輩之時、追討使蒙仰不相向之外、無左右於馳向之輩者、可被処重科之由、普可令相触御家人等給之状、依仰執達如件』
(『追加法』第四四八条・『中世法制史料集』第一巻「鎌倉幕府法」二三一頁)
“以後、謀反人が現れた際、将軍の命令もなく動いた者は、「例外なく」厳罰に処す”
時宗が暴発した十一日に、連署政村が時宗に突きつけた法令である。老人の睨みに、鎌
倉は震え上がった。当時、鎌倉の人々は、時宗以上に連署政村を恐れた。
軽はずみな行動が生んだ動揺を抑えた政村は、騒動の処分を、安達泰盛に任せた。
『尾張入道見西(時章)、遠江守敎時誅せらる。但し、見西その咎無』(鎌倉年代記裏書)
“名越時章と教時は誅殺された。しかし、時章には何の罪もなかった”
事件の背後関係を洗った泰盛は、時章の誅殺は誤りだったと結論づけた。そのうえで、時章を討った御内人らを斬首にし、教時を討った者には何の恩賞も与えなかった。
しかし、時章がつとめた筑後・肥後・大隈の守護職は、何故か分配され、大友・少弐(間もなく泰盛)・三浦葦名頼連(安達派)に与えられる事が決まった。
結果として、蒙古侵攻時の最前線は、御家人達が担う事になったのである。
この二月騒動で、若き日の時宗は、貴重な事を学んだ。一つ、政治とは流血を防ぐために存在する。二つ、一方で、意に染まぬ流血すらも利用し尽くすのが政治である。
それを教えたのは、一族長老の北条政村であった。