【七月宣旨】
後醍醐天皇は、「朝敵の所領は没収する」と宣言し、所領の安堵に臨んでいる。
しかし、朝敵とは誰を指すのだろうか。土壇場で、宮方についた者はどうなる。
これらについて、諸国の武士は一様に不安を覚えた。そのため、武士達は、足利高氏が催促した事も手伝って、一三三三年六月半ばから、続々と京に集まり始めた。
六月二十日、後醍醐はこれに対応するため、「政所始め」を行なった。記録所を再興し、そこで安堵を行なっていくというのである。この時期、後醍醐は忙しい。幕府を倒した直後だからこそ、政治空白は政権に傷を与える。後醍醐は、その事をよく理解していた。
七月、薩摩・奥州からも武士が上京した。
二十五日、安堵に関して方針が示された。これを七月宣旨(諸国平均安堵法)という。
『右大納言藤原朝臣宣房、奉勅』
(国分文書元弘三年七月二十五日官宣旨(史料編纂所架蔵影写本)「建武政権試論」二四~二五頁)
“大納言万理小路宣房、勅を奉る”
『兵革之後、士卒民庶未安堵、仍降糸綸被救牢籠』
“倒幕の後、士卒や民は、未だ安堵を得ていない。そこで、帝は先日綸旨を下された”
『而万機事繁、施行有煩』
“しかるに、万事政治案件が多く、帝一人で安堵を個別に行なうのは困難である”
『加之、諸国之輩不論遠近悉以京上、徒妨農業之条、還背撫民之義』
“これに加えて、諸国の者が遠国・近国を問わず、ことごとく上京してくるため、国元の農業が疎かになり、かえって民の安寧が妨げられている”
『自分以後、所被閣此法也』
“今後、先の法を差し置く事にする”
『然而除高時法師党類以下朝敵与同輩之外、当時知行之地不可有依違之由』
“即ち、北条高時に与した朝敵を除き、当時知行した所領に、変更は加えない事とする”
『宜仰五畿七道諸国、勿敢違失』
“帝は、この法を諸国で施行すると仰せである。違反は許さない”
『但於臨時勅断者非此限者、国宜承知、依宣行之』
“但し、帝から特に恩賞を賜った者はこの限りではない。諸国はこれを承知し、実行せよ”
事態は、早くも後醍醐の事務処理能力を超えつつあった。
そこで、諸国に安堵の仕事が任されたのである。