【新たな時代】
一二五九年、後深草天皇が譲位し、亀山天皇が即位した。共に後嵯峨上皇の子である。この頃も、朝廷は、後嵯峨上皇の時代が続いていた。
しかし、後深草は持明院統の祖で、亀山は大覚寺統の祖である。役者はそろった。
一二六五年、後嵯峨上皇は、“神社や寺の領地を返還する”という院宣を発した。寺社は、これを「徳政だ」と喜んだ。しかし、徳政とは、本来なら九条道家や北条時頼が行なったような「有能な人材の登用と、公正な裁判によって民を救う政治」の事を指す。
“今回の徳政令”は、それとは違う。その目的は、「荘園領主を保護するため、土地の売買や質入れを禁止する」事であり、民の経済活動の否定であった。
日本列島が変わろうとしていた。天災や戦乱にも負けず、民は一所に定住し、まばらで消滅の多かった集落に代わり、安定した集落が誕生しつつあった。これが、現代の「市町村」の原型である。人々は、やがて荘園領主や地頭とも、渡り合うようになった。
集落で生産された作物・特産品は市で取引され、有力寺社と結び付いた商人が、遠隔地との商いを盛んにしていく。今や、京を中心とした一大商業網が完成し、南宋からは次々と貨幣が輸入されていた。時流に乗った者が銭を貯め、落ちぶれた領主達から土地を買い上げていく。奈良・平安の御世とは明らかに違う、何かが誕生しようとしていた。
この物語の背景となる「現代につながる日本の誕生」である。
上皇も、この動きを黙視できなくなり、『徳政令』の乱発が始まった。
一二六六年、幕府では将軍宗尊親王(後嵯峨の皇子)が廃され、京に送り返された。
北条時頼と長時を相次いで失った鎌倉では、北条一族長老の政村が、自ら執権に就任し、御曹子時宗を守り抜く事を決意していた。その政村が「宮騒動」の再現を恐れ、先手を打ったのである。親王の子惟康王が、僅か三歳で将軍となった。
一二六八年、津軽で蝦夷が蜂起し、蝦夷管領安藤五郎を討ち取った。
閏一月、高麗王経由で蒙古からの国書が幕府に届いた。
評議の結果、「古来遣唐使などを派遣している朝廷が外交権を持つのだから、幕府がこの問題を扱うべきではない」という意見が出て、二月朝廷に国書が回送された。
『古より小国の君、境土相接すれば』(調伏異朝怨敵抄・至元三年八月日蒙古国書i)
“いにしえより、小国の君(日本)は我が国の隣に位置するのだから…”
国書を読んだ朝廷は、「小国の君とは何事か」と、国書を黙殺する方針を決定した。
三月、政村は時宗を執権に就け、自らは連署(副執権)に退いた。