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短編集『桜歩道』

寂静への灯火

作者: 宮本颯太

 姉さんは7年前に自殺した。僕が17歳の時だった。


 冬の神奈川県。登山列車のクロスシートで缶コーヒーを一服しながら、僕は雪の積もった山道の景色を車窓から眺めていた。普段は東京でバスの運転手をしている僕にとっては久々の帰省で見る懐かしい風景だった。

 ふと思い立って、羽織っているコートのポケットから手帳型のフォトフレームを取り出して開き、そこで微笑む姉さんの遺影を確かめた。

 窓の縁に外の方へ向けて立て掛けようとしたが揺れのせいで中々うまくいかずに手こずっていると、

「大丈夫。ちゃんと見てるよ」

 と言う姉さんの声が聴こえた。

 向かい側の座席を見ると姉さんがちょこんと座って、悪戯っぽく笑っていた。透けてる訳でもぼやけてる訳でもなく、ただそこにいた。

 姉さんはいつもこうして目の前に現れる。

 僕は写真をコートのポケットにしまい込んだ。


「お弁当、食べなよ」

 姉さんは僕が膝の上に置いたままにしていた駅弁を指差した。

「お昼ご飯なんでしょ?私に気を遣わなくていいから」

「……うん」

 僕は弁当の箱を開けて、袋の中に入っていた割り箸を割った。

「ほお、焼肉弁当か」

「美味しそうでしょ」

 今日は他の乗客もまばらだったので僕は姉さんに返事をした。

 姉さんは嬉しそうに話し出す。

「相変わらず偏食ですなあ。野菜も食べなきゃダメだよ」

「偏食は姉さんも同じだったでしょ」

「いや、君ほどじゃあない。ていうか私はそもそもあまり食べなかった。いや食べれなかった。オエーッてしちゃうからさ」

「ああ、そっか」

 僕は焼肉弁当を食べながら、もうこの世のものではない姉さんの姿をそれとなく観察した。

 僕の方には目もくれず静かに外の雪景色を眺めている。生前と変わらず暗い視線だ。まるで深い虚無の様な……。


「ねえ」と姉さんが声を掛けてきた。

「ん?」と僕は弁当から視線を上げた。

「今なんの仕事してるの?ほら、私はもうここから離れられないから」

 そう。姉さんは死後、故郷の神奈川から外に出れなくなったらしい。

 そうなった原理はよく分からないが、それが不自然な死を遂げた報いであるのは察しがつく。

 つまり僕に付いて東京まで来る事は出来ず、よって帰省しなければ姿を見る事はない。


「変わってないよ。バスの運転手」

「おっ、続いてるんだ。凄いじゃん」

「まあね……あ、」

 思わず「姉さんはどうしてたの?」と聞きそうになって、やめた。僕が帰ってくるまでの間は誰にもその存在に気づかれる事もなく、或いは見て見ぬふりをされながら孤独の中を彷徨っている姿が浮かんで、どうにも心が痛んだのだった。

 姉さんはそんな僕のまごつきを知ってか知らずか、

「そっか……」と溜息混じりに僕を見つめて、

「社会人になったスーツ姿の君と、記念撮影の一つもしてみたかったな」

 と呟いた。

 その言葉に、僕は外を吹く冷たい風が身体の奥に流れた気がして、胸を押さえたい衝動に駆られてしまう。

 この衝動はいつも、生前の姉さんの思い出を蘇らせる――。


 ◆


 僕よりも4つ歳上であった姉さんはギターが好きで、腕前も中々だった。ただ、いつまでも幼さを残していた容姿とは裏腹に気性が激しく、僕はいつも尻に敷かれていた。

 一度逆鱗に触れれば瞬時に理性を失って掴みかかって来るさまは正に狂犬病に罹った野犬の如し。僕はいつもビクビクしていた記憶がある。


 そんな恐怖の対象であった姉さんだったが、高校に上がってしばらくしてから部屋に引き篭もる様になった。それまでは軽音部でギターを思いっきり弾いて楽しそうにしていたのに……。

 きっと姉さんは生来の苛烈さと、協調と社会性を強制される学校生活との折り合いにずっと苦労してたに違いない。それが何かの拍子に全て弾け飛んでしまったんだと思う。

 姉さんは何度もパニックを起こしてリストカットを繰り返したため、精神科に通う様になった。病院に行く際に泣き叫びながら抵抗して暴れる姉さんを両親が二人がかりで車に押し込むのを見るのが辛かった。

 でも僕は何もしなかった。

 放ったらかしにするのを負い目に感じてはいたけれど、正直そんな姉さんに近づきたくなかった。


 姉さんはその後高校を辞めて療養に専念し、何とかアルバイトを始めるまでに回復した。この時は少しだけ落ち着いて、姉弟仲もいくらか良くなって、当時中学生だった僕を遊びに連れ出してくれる日もあった。

 でも時折、長袖から覗くえぐった様な手首の傷に何度も目を背けた。


 それから……あれは僕が中学校を卒業した日の夜だった。

 姉さんは僕の部屋のドアをそっと開けて、

「いいかね?」

 と顔を覗かせた。

 僕はベッドの上で寝そべりながら漫画を読んでいたので少し煩わしく感じたけれど、すぐに姉さんがギターを抱えているのに気がついた。

「あ、これ……。ほれ、今日は君の卒業式だったでしょ?一曲聴かせてやろうかと思って」

 ぎこちない上から目線でそう言って、部屋に上がり込んでドアを閉めた。

「座り直せオラ」

 ベッドの前で厳命された僕はもう反射的に素早く体を起こした。

「うむ」姉さんはそう頷いて僕の隣にちょこんと座った。

「えっ、何を歌うの?」

「うっせぇ。気色悪いから手早くやるぞ」

(いやいや、なら来なきゃいいのに。頼んだわけでもないし!)

 こういう傍若無人さは相変わらず抜けていなかった。

「あ、あのさ……」姉さんはセミロングの髪に顔を隠す様に俯いた。

「う、うん。なに?」

「んと、卒業……」

「はい」

「卒業おめでとう。よくがんばったね」

 姉さんが力を振り絞る様にして僕の方に顔を向けた。恥ずかしさに頬を紅らめて、焦点も微妙に合ってないのが少し笑えたけど、

「えっ……ありがとう」

 姉さんが『よくがんばったね』と褒めてくれたのが素直に嬉しくて、泣きそうになってしまった。


「よし、聴け」

 二度目の下命かめいと共に姉さんはギターを鳴らし、一呼吸してから歌い始めた。

 昔リリースされて流行ってからずっと人気の続く卒業ソングだ。

 流れる様なギターの音に乗せて歌い上げる姉さんを見て照れ臭くなったが、やっぱりこの人はギターが好きなんだなと思った。

 それくらい活き活きしてた。


 弾き語りを終えた後は姉さんはやはり恥ずかしそうにしてたが僕は自分でも予想外な程に感動してしまい、

「ありがとう」と姉さんに体を寄せると、

「うん。ほんとにがんばったね……」

 もう一度そう言って、そっと肩を抱いてくれた。その時とうとう泣いてしまったのを覚えている。

 その時の柔らかで暖かい感触が今も忘れられない。多分これからも、生涯ずっと……。


 思えば姉さんに甘えたのはそれが最後だった。

 高校に進学してから、僕は新しい友達を作って、部活にも打ち込んで、代わりに姉さんの存在がどんどん薄れていった。


 その間も姉さんはずっと苦しんでた。


 部屋に独り閉じこもって、自分が忘れられていくのを感じて、それでも自分の殻を破れなくて……。

 それでも姉さんは間違いなく生きようとしてた。


 自殺する数日前。つまり僕が17歳の時だ。

 姉さんが僕の部屋のドアをノックもせずに開けた。


 この時にはもうアルバイトにも行けなくなっていて、抗精神病薬の副作用である怠さに体を引きずりながらすぐ隣の僕の部屋にもやっとの思いで来たのだった。

「話がある」と言ったその手にはクッキーの箱を持っていた。

 僕は課題をやっていて、机に向かい合ったまま「何?」と無機質に返した。

 姉さんは無言で僕の肩口を掴み、ベッドに座る様に目配せしてくる。

 嫌々それに従い、久々に隣り合った姉さんはクッキーの箱を開けて、

「あげる」と一つだけ僕に渡した後、

「高校辞めて欲しい」と言った。

 意味が分からずクッキーを手にしたまま、

「なんで?」と聞いても

「高校辞めて欲しい」と凄んで繰り返すばかり。

 僕は怒り狂った時の姉さんがフラッシュバックして怖くなったのと、高校生活を邪魔されそうな気がして、

「ごめん。今忙しい」

 と冷めた態度で、すっかり弱っていた姉さんの体を抱える様にして部屋の外に出した。


 それから暫くして、姉さんの部屋からギターの音が聴こえてきた。

 あの卒業ソングの曲だった。

 当て付けの様に思えてしまって、苛立ちながら無視を決め込んだ僕は急ぎ目に課題を仕上げてさっさと寝てしまったのだった。


 今思えば、あれは姉さんなりに助けを求めてたんじゃないだろうか。

 どう考えても身勝手で傍迷惑はためいわくな要求だったけど、姉さんなりに自分の殻を破りたくて、でも独りじゃそれが叶わなくて、焦って、戸惑って、混乱して、僕に手を貸してくれと言ってたんじゃないだろうか。


 生きようとする心と、死に向かって走ってしまう体との間で揺れる葛藤に、僕は気づいてあげられなかった。


 ◆


「……ねえ、姉さん」

 クロスシートで向かい合う姉の幽霊に僕は初めて自分から語りかけた。

「うん?」と姉さんはホワッとした声で返した。

 僕の眼からボロボロと涙が溢れて滲む視界に、姉さんの姿だけハッキリと浮かび上がっている。


「僕はどうすればよかったのかな?」

 ずっと心に迷っていて、言葉にできなかった想いだった。

 少し困った感じの姉さんを見て僕は想いの(かせ)が外れた。

 最後の最後で姉さんの命を繋ぎ止めてやれなかったのは僕の責任だ。たとえまだ子供だったとしても、それは僕の役目だったんだ。

 でも……でもさ、

「どうしてもっとちゃんと伝えてくれなかったの?どうやって分かれって言うんだよ。あんなの……」

「ギターだってあんなに上手かったのに、また聴きたいなって、思ってたのに……」


 震える小声で姉さんに弟としての無念を吐露した僕は遂に嗚咽が抑えきれなくなった。多分、近くにいる他の乗客に聞こえてたと思う。

 座席の間にある通路を歩く人が泣いてる僕に気付いてギョッとするのが横目に見えたので慌てて袖で目元を拭いた。

 目的地への到着を予告する車内アナウンスが聞こえて前に向き直ると、姉さんは気怠そうにしながら、

「何で責めるの?」

 と冷ややかに虚無の視線で僕を貫く。

 童顔は硬く無表情になり、声は死ぬ直前に僕の部屋に来て高校中退を要求した時の、凄みのある低さになっていた。

 亡霊を怒らせた恐怖に僕の涙は渇き、全身が蛇に睨まれた蛙の様に硬直した。

 やがて電車が停まり、僕の目的地である駅の名がアナウンスされると、

「早く降りろや!」

 一気に不機嫌になった姉さんが怒鳴った。よほど気が立っていたのだろう、その声は大音量のラップ音となって列車の車内に響き渡る。

 その場の乗客全員に聞こえるほど強烈だった怪音に車内はちょっとした騒ぎとなってしまった。


 ◆


 白昼の怪奇現象にザワつく列車を僕は足早に降りた。姉さんもしっかりついて来て、(そば)でむくれている。

 気まずくしてしまった後悔と共に襲い来る痛みさえ伴う外の寒さにコートの無力を悟った。

「姉さん、寒いからタクシーに乗りたい。いいかな」

「好きにしなよ。どうせ私には関係ないし。もう何もかも」

 つっけんどんに吐き捨てる姉さんの気配に心臓を縮み上がらせつつ、僕は駅の外に停留していたタクシーに向かった。

(運転手さん、視える人じゃないといいな……)

 そう思いながらタクシーに乗り込むと、

「こんちはー、寒いね!」

 初老の運転手さんが気さくに挨拶して来た。姉さんも自分が視えてないか気になるらしく、運転手さんの顔を鼻先を突き合わせる様にして覗き込むが、全く無反応。どうやらこの人は視えてなさそうだ。

 その動向にヒヤヒヤしていた僕はホッとした。

「チッ、つまんねぇじじいグズ、オラ」

 姉さんの不機嫌さは秒刻みで増してたけど。


(視える人だったら嫌がる癖に……)

 悪態は聞かなかったことにして、僕は運転手さんに行き先を伝えた。


 ◆


 駅から更にタクシーで山を少し上っていく。

「雪、滑るなあ……。毎年のことなんだけどね」

 運転手さんがしみじみと言った。

 僕は適当に相槌を打ち、姉さんは無言で座っていた。

 しばらくすると、大きなお寺が見えてくる。

「あ、ここで……」

 僕は寺の門の前で停まってもらい運賃を払うと、山道を降りて行くタクシーを姉さんと肩を並べて見送った。


「つーかよぉ!」

 僕の喉元に苛立ちの宿った白い人差し指が突きつけられた。

「お前ぇはよぉ!毎年墓参りに来て何なんだよ!?本人の目の前で墓石に手ェ合わせてよお!何かの当てつけかよ腹立つ!!」

 姉さんは眉間に皺を寄せて僕に迫ってくる。

「違うよ。当てつけなんかじゃなくて……」

「んあ!?あんだよじゃあ?」

「僕は……」

 また言いかけて、やめた。

「嫌な思いさせたのは謝る。ごめん」

 代わりにそう謝って、僕は寺の門をくぐった。


 姉さんは「チッ」と舌打ちをしながらそれでも一緒に来てくれるのだった。


 ◆


 姉さんのお墓の前で僕は持参した蝋燭に火を灯した。

 穏やかに降り始めた雪の白さの中、石でできた蝋燭立てがその身に宿した光明を護っている。小さな灯りが(こご)えて消えてしまわぬ様に。

 僕は姉さんの冷ややかな視線を背中に感じたが、それでも眼を閉じてお墓に手を合わせた。


 姉さんの死によって苦しみ傷ついた人は多い。

 皆んな姉さんの『生』をギリギリのところで支えた人達だ。姉さんの同級生や、仲の良かった近所の幼馴染み。マンツーマンで姉さんをカウンセリングしてくれた臨床心理士の先生。

 そして父さんと母さん。

 二人は姉さんの死が受け入れ切れず、未だに墓参りに行けない。

 肉親としてここに来るのは僕だけだ。


 そっと眼を開くと、墓石に姉さんの姿が反射している。(あかり)の慈悲に心を鎮められて、自分に供えられた灯明に目を奪われている。

 まるで自分の死と向き合って瞑想している様だった。

 もう普通に話ができそうだ、そう思って僕は、

「姉さん」

 と呼び掛けた。

「うん?」

 瞑想の解かれた姉さんと墓石を通して目が合う。声からはやはりトゲが無くなっていたので安心した。

「さっきはごめん。何か……取り乱した」

「ほんとっすよ〜。何なんすか急にって思ったっすよ」

 ダラダラと文句を言う姉さんだったが、緊迫感がすっかり和らいでいてホッとする。

 石の蝋燭立ての中からは灯明の包み込む様な輝きが放たれている。周囲に降る雪も溶けていく様だ。

 灯火(ともしび)からふと、姉さんの弾き語りが聴こえる気がした。振り返ればあの時の心の暖かさは、たった一度だけ授けてくれた(あかり)であった。そしてそれは今も僕の中で小さく輝いている。

 それに対して僕は、姉さんが生きてる間に何をしてあげられたかな?


 いつもそんな事を考えては呼吸が詰まりそうになる。僕は深く溜め息を()いた。


 そう。僕は何もしてやれなかった。


 姉さんが成仏できずに彷徨うのは、周囲の人を悲しませた代償だ。自死を遂げるのはそれまで支えてくれた人たちの優しさも愛も、一緒に死なせてしまうのと同じなのかな、とこの頃思う。


 一方で僕が姉さんの彷徨う姿をこんなにも鮮明に見るのは、僕が姉さんの『生』を突き放した代償だ。救いを求めて握られた手を振り解いた過ちは僕を故郷に引き戻し、姉さんの魂にも影を落として地上に抑留している。


 姉さんはもう誰にも寄り添う事が出来ない。人の身体を流れる生命の温もりに触れる事も、もう出来ない。


 僕がここに来て灯明を供えるのは、そうさせてしまった埋め合わせをする為だ。

 小さな光ではあるけれど、この(あかり)を灯した時の僕と姉さんは安らぎを共有できた。

 そしてその安らぎは姉さんの暗闇を少しずつ洗い落として、僕の悔恨を慰めてくれるのだった。


「なあ弟よ」

 姉さんがボソっと言った。

「えっ?あ、はい」

 虚を突かれ、慌てて振り向くと、

「いつもありがとう。ムカつくけど本当に綺麗であったかいぜ、お前さんのローソク」

 姉さんの頬が紅くなってる。僕の卒業を祝ってくれた日の、あの姉さんの顔だった。

 僕は姉さんに「ありがとう」と言うべきか「ごめん」と謝るべきか迷っていると、


「大好きだよ、お前のこと!今までも今も……これからも!!」


 と抱きつかれた。

 生身の様な感触と温もりが僕の身体に伝わる。それほどまでに強い想いだった。

 驚いて固まる僕に姉さんは、

「だからさあ、いつまでもウジウジすんなよ。確かに今となっては後悔する事も多いけどさ。いつかちゃんと、空から君を見守ってやるから。だから……」

 姉さんの声が震えた。

「だからさ、もういいんだ。もういいから……」

「……何?姉さん」


 僕を抱き締める姉さんの腕に、心地よく力が込もった。

「今の私らをさ、大事に過ごそうぜ」


 ◆


 墓参りを終えた僕は実家に顔を出して少しだけ両親と話をした後、

「これからすぐに東京に戻るから」

 と言いつつ、家の外で待っていた姉さんを伴って実家近くのちょっとだけいい温泉旅館に泊まった。

 部屋に設置されたテーブルで浴衣に着替えた僕と姉さんは一緒にテレビを見たり、窓の外の雪景色に胸を踊らせてそのまま露天風呂に行ったりした。

 雪見風呂を満喫している最中、姉さんは温泉の中から顔を半分だけ出して僕を怖がらせては楽しんでいた。


 部屋に戻ってから敷いた布団の中にも、姉さんは潜り込んできて、

「漫画が読めりゃあ夜更かしすんのに。ていうかお前、持って来とけよ」

 と無邪気に文句を言う。

「そんなに物足りないなら隣の部屋のお客さん脅かしてくれば?」

 と僕も返してやった。

「は!?お前ぇ寝れなくしてやっぞオイ!!」

 こんな応酬も楽しくて、新鮮だった。

 笑ってしまう様な姉さんの悪態を聞きながら、次にどう揶揄(からか)ってやろうか考えているうちに僕は寝てしまった。


 ◆


 翌日。

「あー、楽しかった!ありがとう弟よ!」

 神奈川から東京に帰る僕と一緒に新幹線に乗った姉さんは体を伸ばしながらハツラツと叫んだ。

 今度はラップ音がしなかったのでホッとした。


 新幹線はそろそろ神奈川を出る。

「姉さん、また行こうよ、来年。今度は紅葉風呂に入ろう」

 僕が寂しさを誤魔化して言うと、姉さんは

「おう!もう一度ビビらせてやんよ!ははは!!」

 と爆笑した。


 楽しそうな姉さん。置いて行かなきゃならないのが切なくて、僕は俯いた。


「……綾人(あやと)

 姉さんが珍しく僕を名前で呼んだので、「えっ?」となりながら顔を上げると、

「いってらっしゃい。また来いよ」

 と、小さな手がぽんと僕の頭に乗せられた。

「私はまだもう少しこっちにいるだろうからさ」

 微笑みながらウィンクした姉さんの目にも涙が光っている。


 ハッとして瞬きをすると、姉さんの姿は消えていた。

 きっと電車を降りて、またしばらく彷徨うのだろう。

 僕が帰ってくるまで……。それを想うとやはり心が痛んだ。


 でも僕たちは少しずつ、本当に少しずつだけど、それぞれの抱えてしまった闇を照らし合っていける気がした。

 姉さんも近いうちに必ず旅立てると思う。


 僕たちがいつか全ての迷いを脱ぎ去って、二人で前に進めたなら、僕はこう言って姉さんを送ってやりたい。


「よくがんばったね」って。

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