時のうねり(2019i)
個人的にタイムトラベルものが好きです。ただ、好きだからこそ読み終わった後や見終わった後に不満が残ります。モヤモヤします。
タイムトラベルを単に異質な場面設定の道具として使っている作品が多いですね。行った先でのドタバタより、時間を越えるそのことの方が大きく重要ではないか、と思ってしまいます。まあ、どれも創作の物語ですから矛盾や都合の良い展開があって当然。それを承知したうえでストーリーを楽しまないといけないのでしょうが、細かな点が気になってしまい、話に集中できないこともあります。
そうしたことを避けようとジタバタ藻掻いたのが、このお話です。タイムトラベルをした後の活躍ではなく、時の無限ループの中にいる人類の悲哀を描こうとしたのですが、理屈っぽくならないよう気を配った結果でしょうか、表現が弱くなってしまいます。力量不足、なのでしょう。少々話が大きくなり、持て余し気味です。唯一の救いは“なんだこれは”“詰まらない”などと感じ始める頃に話が終わる短編、ということでしょうか。
エピローグはポンと飛んで、ストンと終わることにしましたが、その間の出来事はテーマをかえて続編として描けたらな……と思っています。
●登場人物
■河瀬 靖雄(60過ぎ)世捨て人
■イミル(30前後?)未来からのタイムトラベラー
□木島 隆平()東亜国際大学物理学部の学生
プロローグ
左右へ何度もうねる夜の田舎道。
月明かりはなく、山間に点在する小さな集落にいくつか街灯はあったが、その間の道は真っ暗だった。そこをヘッドライトの灯りを頼りに一台の乗用車が走っている。六〇過ぎの男性がハンドルを握っていた。彼にとって走り慣れた道だった。
突然、路肩の暗がりからヘッドライトを反射する白いモノが飛び出してきた。
人だ!
ハンドルを切り、ブレーキを踏む。甲高い音が辺りの静寂を裂く。道路を塞ぐように車が止まり、男は息を吐いた。当ててはいない。その衝撃はなかった。確信がある。窓を開け背後を見たが道路に人影は見当たらなかった。
もう一度息を吐き、車を路肩に移動させた。ダッシュボードからハンドライトを取り出して車を降り、人が飛び出てきた場所に向かう。
「おい、大丈夫か」
路肩の草むらに上半身を突っ込み、人が倒れていた。ハンドライトの光りを当てて男が近寄る。
「ケガをしたのか」
出血はないようだ。しかし、身体が動くことはない。若い男性、日本人ではない顔立ちをしている。言葉が通じないのか、意識を失っているのか。
「どうした? 一人なのか? どうしてこんなところにいるんだ……」
頭に浮かんだ疑問を口にする。その大声が耳障りだったのか、若い男の身体がピクリと動いた。
「どこか痛いのか? 心配ない、今すぐ救急車を呼ぶから」
その言葉に若い男が反応した。
「ダメ」
「ダメ? 何がダメなんだ?」
「問題ない。少し休みたい」
確かにそう言った。それを聞き、六〇過ぎの男は困惑する。
一
片田舎の明かりが消えている古びた一軒家。一台の車が近付き、玄関の前に止まった。
河瀬靖雄は車を降り、玄関のカギを開け照明を点けてから車に戻る。
「ここは何です?」
助手席のドアを開けると、道に飛び出してきた若い男が尋ねた。
「心配ない。私の家だよ。古い家で申し訳ないが、独り暮らしで訪ねてくる人もいないから身を潜めるには打って付けだ」
河瀬の不審は強まっていた。何かをしでかし、逃げてきたのだろうか。外国人のようだが日本語は通じる。ケガはない、病気でもない、休みたいと繰り返す。何も無い田舎道に放置するわけにもいかないので仕方なく車に乗せた。少し休ませてから事情を聞くことにする。
彼は車の中でも病院へ行くことや警察への通報を頑なに拒む。しかし、河瀬の問い掛けには答えようとしなかった。そうした話しができないほど具合が悪いのか、隠しておきたいのか。ただ名前を尋ねたら、イミルと答えた。どこの国の名前なのかは見当がつかない。日本人離れした顔立ちだが、三〇歳前後だと思う。
河瀬は肩を貸し、家の中へ入った。重い。イミルの足取りは不安定で寄りかかってきたが、背の高い彼の身体は異様に重く、六〇を過ぎた河瀬はしっかり支えることができない。二人ともよろめく。なんとかリビングのソファーに彼を寝かせた。
何か食べるか? 水を飲むか? そうした問い掛けに首を振り、少し眠ると言ってイミルは目を閉じた。
河瀬は大きな息を吐く。
成り行きとはいえ、不審な男を家に入れてしまった。不安から後悔の念が広がる。ただ、何がどうなろうと問題ではない。長生きする理由など、何一つない身の上だ。将来を気に病むことはない……
肩を揺らして河瀬は玄関へ歩く。外に止めた車を車庫へ入れることにした。
二
イミルはピクリとも動かなかった。
死んだのか? と思ったが、微かな呼吸をしている。熱はない。彼の額はむしろ冷たかった。苦痛に顔を歪めることもなく深く眠っているようだ。
イミルはここに来てから眠り続け、朝がきても、昼になっても起きなかった。河瀬靖雄は気を揉むが、夕方近くにようやく目を覚ました。横になったままの彼と話しをする。
「大丈夫か?」
「随分よくなりました」
「何があったんだ?」
「……」
「誰かに連絡をしないといけないだろう。家族とか、友人とか。心配しているはずだ」
イミルは首を横に振る。河瀬は溜め息をついた。
「食欲がないのかもしれないが、何か食べないといけない。とりあえず、パンと飲み物を用意したよ」とソファーの前に置いたテーブルの上を指さす。
イミルはそれをチラリと見ただけだった。
「食べたくなくても食べたほうがいい」
そう言っても彼は寝そべったままだ。手を伸ばそうともしない。
「好みもあるからな。何か食べたいモノはないのか。ミカンとかリンゴのほうがいいのかな。バナナがあるから、それを持ってくるよ」
台所へ身体を向けた河瀬にイミルが声を発した。
「大丈夫です。食事は必要ありません」
足を止めた河瀬は、彼を見て怪訝な顔をする。
「必要ない? それは、どういう意味なんだ?」
「食べる必要がない、ということです」
河瀬は表情を崩した。バカなことを言う。
「とにかく、バナナを持ってくるよ。食べたくなったら食べればいい」
そう言い放ち、台所へ歩いた。バナナを持ってリビングに戻ると、イミルは目を閉じている。再び眠ったようだ。河瀬は小さな溜め息をつき、それをテーブルの上に置いた。
翌朝、河瀬が起きた時、イミルは既に目を覚ましていた。上体を起こし、ソファーに座っている。
「調子は悪くない、ということかな?」
「ええ、楽になりました。お世話を掛けて申し訳ありませんでした」
「へぇ~、お礼を言う常識は持っているようだね」と笑う。
河瀬はテーブルの上を指さした。
「食べないのか。口に合わない、ということか」
「いいえ、食事の必要はありません」
「悪い冗談だな。本当にいらないのなら、私が食べることにするが……」
「どうぞ、お食べ下さい」
顔を歪めた河瀬は、イミルの対面、テーブルの前の床に大儀そうに唸り声をあげ腰を下ろした。おもむろに袋を破り、ロールパンにかぶりつく。ペットボトルの蓋を開け、ガブ飲みしてからバナナの皮を剥いて口へと運んだ。目の前でムシャムシャと食べる。それで食べたくなるかもしれない。
「食事が必要ない、というのは、どういうことなんだ?」
と改めて尋ねてみる。しかし、答えはなかった。すまし顔でこちらを見ている。
「食事はいらない、で、この後どうするんだ? また眠るのか」
「移動手段がありません。できれば、車を貸していただきたいのですが……」
「車? 運転できるのか」
「経験はありませんが、何とかなるでしょう。基本を教えてもらえませんか」
「基本……。免許を持っていないのか」
「ええ、持っていません」
河瀬は動かしていた口を止め、唖然とした。
「冗談ばかりだな」
「貸してもらえませんか」
「免許を持っていない男に貸すほどバカじゃない。私が送ってやるよ。どこへ行きたいんだ?」
「……」
答えようとしないイミルに河瀬は眉を顰める。
「話しにならないな。あんた、何者なんだ?」
イミルは、その質問にも答えなかった。河瀬は矢継ぎ早に疑問をぶつける。
「そもそも、どうやってこんな田舎に来たんだ……。なぜ、あんな寂しい場所にいたんだ……。何が目的なんだ……。一人で来たのか」
その最後の質問にイミルが頷く。河瀬は長い息を吐いてからパンを口に入れた。
「まったく、訳がわからんな。なぜ、質問に答えないんだ?」
「お話ししても理解できないでしょう。混乱するだけです」
「理解できない、か……。しかし、少しぐらい話してくれないと協力する気にならないな。一人で来たのなら、私のような老いぼれであっても手助けが欲しいだろう」
イミルは河瀬のその話を吟味し、ゆっくりと頷いた。
「仕事はしていないのですか」と質問をしてきた。
「ああ、退職したよ。世捨て人だ。後は、死ぬのを待つだけだ……」
河瀬は頬を緩める。深刻ではなく、開き直っていると伝えたかった。
「この家に一人で住んでいるそうですね」
「そうだが、なぜそれを知っているんだ?」
「ここに来たとき、言っていましたよ」
河瀬は小さく頷いた。具合が悪かったのに細かいことを覚えているようだ。
「私の実家だからね。母親が死んでからは空き家状態だったんだが、仕事を辞めたのを機に戻ってきたんだ。結婚歴のない独身男だから、ここで老後を過ごすのが一番だと思った。終の住み処だよ」河瀬はここで溜め息をした。
「……長生きしても仕方ない。どうやって死ぬのがいいのか毎日のように考えているが、決断ができない。ズルズルと生きている間に、昔の仲間が先に逝ってしまった。その葬儀に行っていたんだ。遠方だったから帰りが遅くなり、真夜中の道であんたが飛び出てきた。びっくりしたよ。轢くところだった」
「ご迷惑を掛けました。この部屋を使うことができませんでしたね」
「それは問題ないよ。普段から奥の部屋に引き籠もっているからね。もとはここも畳敷きの部屋だったんだが、母が生きている時にひどい雨漏りがしてね。屋根を修繕する際に、ここを板の間にしようと母が言い出したんだ。どういう理由だか知らないが、母が一人で住んでいたから、その希望通りにした。でも、古い造りの日本家屋には不釣り合いだと思うよ。仕事を辞めて戻ってくる時に、そのソファーを置いてリビングにしたんだが、この部屋を使うことは殆どなかった。だから、ここであんたが寝ていても支障はない」
どうでもよい話だと河瀬は思ったが、下らないことであっても沢山話すことで、その分量の何割かは向こうの話が聞けるのではないか、そんな期待があった。
「先ほど、長生きしても仕方ないと言いましたね」
「ああ、そう思うよ。人間はいずれ死ぬ。何の目的もなく生きるのは辛い。私の役目は終わっているんだ。結婚できず、子どももいない。生き物は子孫を残すことが一番の命題だと、今になって思うよ。その点において私の人生は無意味といえる。さっさと死んだほうがいい」
イミルは表情を変えることなく聞いていた。
「まだ若いあんたには、わからないだろうな。あんたがどんな人生を歩んでいるのか知らないが、早く結婚して子どもをつくることが後々の後悔を避けることになると思う」
「子孫を残せなかったことを後悔しているのですか」
「そうだな。生物としての大失態だ。そのチャンスはあったのに潰してしまった。後悔だらけだよ」
「失意が長生きしたくない理由ですか」
「そうなるな。自分なりに頑張ってきたが、これといった成果は残せなかった。空しいだけだ。もし、人生をやり直せるなら、子どものいる明るい家庭を築きたいものだ。そう思うよ」と河瀬は乾いた笑いをする。
「やり直す、ですか……」
イミルが微かに表情を変えた。河瀬には思案顔のように見えた。
「私の目的は、ソレです」
「ソレ?」河瀬は驚き、その言葉を口にした。
「やり直すことです」
「人生をやり直す、ということなのか」
「私の人生というよりは、人類の将来でしょうか」
「人類の……?」
河瀬は眉間に深い皺を寄せた。事情を話そうとしている。ただ、迂闊な質問をするとその気持ちを壊してしまうような気がした。
「もう少し詳しく話してくれないかな」
イミルは先ほどの思案顔をもう一度見せた。一つ頷く。
「私は、未来の世界から時間を越えてここに来ました……」
河瀬は唖然とする。何とか言葉を絞り出した。
「タイムトラベル、ということか……」
そう言う河瀬の顔に疑念の影が滲んだ。
「信じられないでしょうね」
「にわかには難しいね。正直をいえば、疑ってしまう」
「当然でしょう」
「あんたは未来の日本人というわけか」
「先祖のどこかで日本人の血が混じったかもしれません。その可能性はゼロではありませんが、実質的には日本人とはいえませんね」
「でも、流暢に日本語を話しているじゃないか。未来では日本語が世界の標準語なのか」
「いえ、違います。日本語に限らず、言語は廃れています。日常において言葉を使って話すことはありません」
「それじゃ、どうやって意思の疎通を行っているのかな」
「私たちは思念そのものをやり取りしています」
「思念……。テレパシーというやつか」
「そうですね。そうした技術が確立しています」
「技術? 未来の世界なら、それも当然か。科学の進歩だな」
と河瀬は一人で納得していた。
「日本語は、事前に古い記録を参考にして学習したものです。ただ、言葉というのは時代によって変化しています。時空跳躍でこの時代に来てから学習し直しました」
「時空跳躍ですか……。日本語を学習し直したといったが、この時代の滞在は長いのかな?」
「いえ、来て間もないです。正確にいえば、学習したのは私ではなく内蔵するコンピューターです」
「内蔵? 身体の中にコンピューターを仕込んでいるのか」
「そうなりますが、その表現では少し意味が違いますね。見た目からはわからないかもしれませんが、この身体は人工物でできています。サイボーグといえば、おわかりになるでしょうか」
河瀬は驚き、イミルの身体をまじまじと見た。
「サイボーグ……。どこからどこまでがサイボーグなんだ?」
「この身体の中で私本来の生体組織といえるのは、脳だけです。他は全て作り物。機械仕掛けの身体の中に私の脳を仕込んだ、ということになります」
「脳以外は作り物……」
「この身体には無線通信機も装備しています。本来の使用目的は別にあるのですが、それを用いてこの時代のラジオを聴くことができます。私が眠っていたときも休むことなく、コンピューターがラジオからこの時代の日本語を学習しました。つまり私は、コンピューターを介してあなたと話しをしていることになります」
河瀬は戸惑っていた。この話を鵜呑みにしてよいのか。疑念が付きまとう。
「サイボーグか、凄いな……」
イミルをこの家に入れる際に肩を貸した。彼の身体が異様に重いと感じた。あれは背が高いだけではなく、その身体が作り物の機械仕掛けだったからか。河瀬はそれを思い、まんざらウソではないのかもしれないと考えていた。それに彼がサイボーグなら病院へ連れていかれることを拒むだろう。診察すると生身の人間でないことがバレてしまい大騒ぎになってしまう。それは避けたいに違いない。
河瀬は軽い対応をとった。
「肉体を魂の入れ物に過ぎないという人がいるが、まさにソレだな。取っ替え引っ替え身体を選ぶことができる」
「確かにこの身体は作り物ですが、顔立ちや身体つきなどは私の遺伝情報から造形したものです。若い頃の私に似ています」
「若い頃?」
「ええ、脳の年齢をいえば、あなたよりずっと年上になります」
「ずっと年上……。それは失礼しました。見た目に惑わされていたようですね」
「構いませんよ。あなたが遠い祖先の大先輩であることは間違いないですから」
「遠い祖先ですか……。未来の世界では、みんなサイボーグになるのですか」
「ここまで徹底することはありません。実は、これには別の事情があります」
「別の事情?」
「時空跳躍……。時間と空間を跳び越すというのは相当の荒技です。生身の身体には耐えられないほどの苦痛が襲います。場合によっては死に至ることもあります。それを避けるため、機械仕掛けの身体が必要になります。痛みは一つの情報として知ることができますが、それに耐える必要はありません」
「なるほど。でも脳だけは生身だから、あんなに眠ったわけですか」
「随分眠りましたが、それにはまた別の事由があります」
「別の……。複雑ですね」
「お話しするのを控えましょうか」
河瀬は首を横に振る。
「いえ、この際ですから聞かせてください」
イミルが小さく頷く。隠し立てをする気はないようだ。実直な男だと思う。
「未来の人類は絶滅の淵にいます。非常に切迫した状況です」
「絶滅…危惧種……」
河瀬は呟く。ニュースなどで耳にする言葉だが、それが人類に当てはまることを考えてはいなかった。日本の人口は減少しているが、だからといって絶滅するとは考えない。それに世界の人口は増え続けている。
「どうして?」
「この後の時代に大きな戦争が起こります。そこで人類は強力な兵器を使用します」
「核兵器か……」
「いえ、核ではありません。新たな理論の応用によって生み出された新兵器です」
「新兵器……」
「はい。時空を直接揺るがす兵器。星を根底から破壊します」
「星の根底……。それを使ったのか」
その問いに、イミルは静かに頷いた。
「愚かな……」
「その超兵器は時空に多大な悪影響を及ぼしました。時空跳躍で超兵器が使われた時代を跳び越す時も強い衝撃を受け、不安定になり、様々な影響を受けることになります。そのため、私の脳に通常の時空跳躍とは異なる負荷が掛かり、過大な疲労から激しい眠気に襲われたようです。実は、大戦の時代を越えて過去へ跳ぶのは初めての試みでした。何らかの影響があることは予想できましたが、具体的にどうなるかは、やってみるまでわかりませんでした」
「初めての試み……。危険を伴う冒険だったのか」
「そうなりますね。この程度で済んだのは幸運だったのでしょう」
イミルは他人事のように平然と言った。
「驚いたな。そこには、危険を冒すほどの目的がある、ということか」
「大戦により、この星は壊滅的な打撃を受けます。その後の環境は大きく変化し、多くの生物が根絶します。地球の歴史上、最も大きな絶滅期といえるでしょう。人類の存続が危ぶまれるのも当然のことです」
「大絶滅……」
「地表は暮らせる状態にありません。天候は荒れ、激しい自然災害が絶えない状況が続いています。変化した環境に適応した微生物やウイルスは、人間にとって危険な存在です。迂闊に外を出歩くと、たちまち攻撃的な病原菌を体内に取り込み、集団感染に至り、多くの死者を出すことになります。これまでにいくつものコロニーが消滅しました。私たち生き延びた少数の人類は、浄化した環境の密閉空間で暮らし、施設の外に出る場合は気密服を着用して病原菌を持ち込まないよう注意しています。月や火星など、宇宙で暮らすのと変わらない状況ですね。私たちは故郷を失ったことになります」
「酷いな……」
「人類の絶滅を回避するには、過去への干渉を行うしかない、という考えがあります。愚かな戦争を防ぎ、超兵器を使わせない。そうすることが人類存続の唯一の手段になります……」
「なるほど。そう考えるのも無理のないことだろうな。その目的のために、この時代に来たのか」
「私は最初の試みです。従って基本的な調査が目的になります。大戦によって生じる時空のうねりを無難に越すことができるのか。大戦前の世界はどういう状況なのか。大戦に至り、超兵器を使うことになった経緯はどういうものなのか。そうした情報や手掛かりを入手し、元の時代に持ち帰ることになります」
「それは……、大変な仕事だな……」
河瀬は言葉を選んで応えた。だが実際は、何がどう大変なのかピンときていない。さっき協力すると言ったが、世捨て人の年寄りに何ができるのか、安請け合いするものではないと思う。
溜め息が出た。溜め息ばかりだ。
「ただ、長生きしても仕方ないのかもしれません」
さっき河瀬が投げ遣りに言ったことをイミルが口にした。彼は一つ頷き、話を続ける。
「人それぞれに寿命があるように、人類にも寿命はあるのでしょう。どう足掻いても絶滅する定めなのかもしれません」
その話に河瀬は低く唸った。何と言えばいいのかわからない。
「時空曲線の観測において、大戦前後の時代にいくつもの特異点がみられます」
「特異点?」
「ええ、それは外的要因によって変化が起こった痕跡ではないかという考えがあります。つまり、未来からの干渉により時代が変えられた。それがこの時代の近辺に集中して、いくつも存在しています」
「よくわからない。何を言っているんだ?」
「時の無限ループです」
「無限ループ?」
「未来から過去に干渉して歴史を変える。しかし、歴史が変えられてもその先で、やはり行き詰まってしまう。そして再び過去に干渉して歴史を変える……。人類は、これを無限に繰り返しているのではないかという懸念です」
「無限ループ……」
「種としての寿命を迎えている。何をどう足掻いても無駄、絶滅は避けられない。長生きはできない……」
イミルの冷淡な声が河瀬の心に染み渡る。言葉にできない不安と恐怖に襲われ、身を震わせた。
「未来に行って、人類の絶滅を確かめたのか?」
「いえ、それを確かめることはできません。未来は揺れ動いています。確定している状況を掴むことができないので、未来に向かって跳ぶことはできません。過去の時空のみ、確実なものを捕捉して、跳び越し、着地することが可能になります」
「過去にしかいけない、ということか。でもそれだと、元の時代に戻ることができないじゃないか」
「大丈夫です。この身体の中にある時空跳躍装置は、常に私がいた時代と繋がっています。その繋がりが未来を確定したものにしていますので、それを辿って戻ることができます。その未来の世界でこの時空跳躍を観察している人の目には、私は微動だもしていないように見えます。向こうでは瞬時に終わる現象です。時空跳躍をした人間は過去の時代で長い時間を過ごして戻ってきたことになります……。おわかりですか?」
イミルは、不可解な顔をする河瀬にそう尋ねた。六〇歳を過ぎた男はぎこちなく頷く。
「何となく……だけどね」
「そうですか。ともかく、人類の未来は非常に危うい状況です。この危機を回避するには、過去へ行き、絶滅への引き金となった出来事を阻止するしかない。過去への介入しか手段はないと考えます。もしかすると無駄な悪足掻きなのかもしれませんが、何もしないわけにはいきません。それで私がこの時代に来ることになりました。目的は調査です」
「この時代に、人類絶滅の根本原因があるのか?」
その問いにイミルが静かに頷く。河瀬は背筋に冷たいものを感じる。話が大きく、緊迫したものになったため、戸惑うことしかできなかった。
三
「木島隆平……。天才と呼ばれることになる人物に会ってみたいものですね」
時空理論の基礎を構築したのが日本人と聞き、河瀬靖雄はそれを誇らしく感じた。もっともその結果、この星は壊滅的事態に陥ることになる。素直に喜べない話だ。
河瀬は未来から来たイミルの衝撃的な話を受け入れることにした。
信じる、信じないということではなく、隠遁生活をする独居老人に舞い込んだ希有な出来事と捉えた。先に逝った旧友が苦心して仕組んだ巡り合わせではないか、とも思う。それもあって、バカな話だと打ち捨てる気にはならなかった。人類の絶望的な将来を睨みつつ、何とか足掻こうとする彼の手伝いをしようと思う。ただ、これといった特技のない世捨て人に出来ることといえば、運転手ぐらいだ。河瀬はイミルを車に乗せ、一日を掛けてとある街へとやってきた。ここにある大学に天才物理学者として大きな功績を残すことになる学生がいるという。
助手席に座ったイミルは、まだ本調子ではない様子だが、ずっと窓からの景色に見入っていた。彼は、このように外を自由に移動することは新鮮な経験だと言う。車の多さにも驚いていた。
「大戦前の記録の多くが消失しています。時空理論の起源についても僅かな情報しかなく、信憑性も低い。私たちが最初の目的地にこの時代の日本を選んだのは、時空理論の起源を調査の起点にしようと考えたからです。木島博士は学生時代に時空理論の基礎をつくりあげたそうです。それを調査、確認して、ここから時代を追いながら時空超兵器の使用を阻止することになります」
「大変そうですね。時間が掛かりそうだ」
「そうですね。しかし時を跳躍できますから、過去での調査に費やす時間が長くなっても支障はありません。むしろ時間を掛け、綿密に調査を行うべきだと考えます」
「なるほど、時間はいくらでもある、ということですか」
「はい。それより気になるのは着地点の誤差になります」
「着地点?」
「ええ、時空跳躍の着地点です。本当は、この街の近くに再出現する予定でしたが、大戦の時期を越える際に時空のうねりに巻き込まれ、着地点のズレが大きくなったようです。河瀬さんの家の近くの森の中に着地できたのも幸運だったのでしょう。場合によっては、もっと遠くに弾き飛ばされていたかもしれません。このズレを小さくする術を確立しないと、大戦を越える時空跳躍の成功率が低くなってしまいます」
「それは厄介な問題になるのですか」
「どうでしょう。いずれにしても、未来に戻って今回の跳躍データを詳細に分析しなければなりません。上手く元の場所に戻れるかが気がかりになりますが、まずはこの場の調査に専念したいと思います」
「そうですか……」
と河瀬は素っ気なく応えた。変な作り話をするな、と笑い飛ばしたい気分になる。
二人が乗った車は夕刻の街中を走った後で路肩に止まった。
「東亜国際大学、ここですね」
道の反対側に広い敷地の大学があった。郊外の自然豊かなキャンパスだ。
「どうします? 中に入って、物理学部に木島隆平という学生がいるか尋ねますか」
「ええ、まずはそこから始めましょう」
「でも、教えてくれるかな。近頃は物騒な事件も起きていて個人情報を外部に漏らすことには慎重になってるようです。妙な騒ぎにならなければいいのですが……」
「騒ぎは困ります。その心配があるのなら別の方法を検討しましょう」
「何かアイデアがあるのですか」
「いいえ、残念ながら。私はまだ、この時代の事情を把握できていません」
そう言われ、河瀬は顔を顰めた。その後で険しい表情を見せる。
「一つ聞きたいのですが、木島隆平という学生を見つけたらどうするつもりです? まさか、彼を抹殺するつもりですか」
「抹殺! なぜ?」
「兵器の使用を防ぐために時空理論そのものを抹殺する……」
イミルは口元を緩めた。
「それはありません。彼の動向を観察します。それに学生時代の木島博士の命を奪っても時空理論は生まれるでしょう。天才は他にもいますし、機は熟しています。木島博士がいないのなら他の誰かが時空理論に取り組むでしょう。確かに木島博士はキーマンですが、それはちょっとしたタイミングや巡り合わせによるものが大きいと思います」
「巡り合わせですか……」
「時空理論は超兵器をつくるために取り組んだものではありません。理論の応用、一例として兵器をつくることもできる、ということです。本来の目的は別にあります」
「本来の目的とは?」
「目的の一つは、人類の宇宙進出です」
「宇宙進出……」
「宇宙は広大です。通常のロケットを用いると月まで四日、火星に至っては、二年二ヵ月の会合周期に合わせて九ヵ月間の片道飛行をするのが燃料効率の良い手段になります。しかし、これでは些か不便です。思うように地球と火星を行き来できません」
「確かに不便ですね」
「それに、更に遠くの惑星や近隣の恒星系へと宇宙進出の野望は広がります。しかし、他の恒星系に出向くのなら光年単位の距離を旅しなくてはなりません。そうなるとロケットは現実的ではありません。そこで空間を瞬時に跳躍する手段を模索することになります」
「ワープ、ですね」
「ええ、時空理論がそれを現実のものとします。さらに木島博士は、時間と空間が密接に絡んでいることを論じています。空間を瞬時に移動するだけではなく、時間を越える跳躍も可能だと示唆します」
「タイムトラベルですか」
「もっとも時空跳躍を立証できたのは、大戦が終わったずっと後のことです」
「なるほど、壮大な話だ」
「時空理論は科学の進歩に多大な貢献をします。超兵器を開発し、それを使用したのは一部の不届き者の仕業です。それを阻止することが目的です」
河瀬はイミルの話を聞き、低く唸った。
「どうやって、それを阻止するのですか。超兵器の起動ボタンを押す人を抹殺する、とか……」
「その人物の命を奪ったところで、他の誰かがボタンを押すことになります。そうした手段は意味がありません」
「では、どうするのですか」
「未来からの干渉です」
「???」
「未来から過去の特定の時空へ干渉波をぶつける、といえば、いくらかおわかりになるでしょうか」
「干渉波をぶつける?」
「それは、その時代にいる人を直接的に攻撃するものではありません。時の流れの中にいる人たちは、何かの干渉があったことに気付くこともないでしょう。未来からの干渉は時空、時の流れに変化をもたらします。具体的にわかりやすくいえば、人々の運命に影響を与えます」
「運命……」
「たとえば、成功者が些細なミスから転落人生に陥る……。結婚するはずの相手とちょっとしたタイミングのズレから親しくなるチャンスを逃す……。干渉によりそうした変化が頻発し、結果として時代が変わることになります。干渉波を照射する時代を適切に絞り込めば、超兵器を使用することになる時の流れが変わり、異なる未来へと進むことになります」
「……。よくわからないが、未来で生活するあなたたちの存在はどうなるのですか」
「消失します。まったく別の未来を造ることになりますので、過去への干渉は慎重に行わなくてはなりません」
河瀬は長く唸った。
「そんな大それたことをするつもりなのか。人々の運命を変え、未来を造り替える……。それは正しい行為なのかな?」
「少なくとも超兵器を使用してしまい、この星が壊滅することより正しい行動だと考えます。一〇〇億という人々の命が失われるわけですから」
「一〇〇億……」
その命の重さに河瀬の心は押し潰された。何が正しく、何が間違いなのか、わからなくなる。その時、一つの可能性が脳裏に浮かんだ。
「宇宙進出は? それが時空理論の本来の目的でしょう。どこかの星に定住することはできなかったのですか」
イミルは首を横に振ってからそれに答えた。
「例えば、火星のような星に定住することを考えると、密閉した施設を造り、その中で生活することになります。外へ出るときは気密服を着用する……それでは環境が破壊された地球に住むのと変わりありません。そうなると、広大な宇宙の中で昔の地球と似た星を探すことになりますが、そうした星を見つけたとしてもそこには土着した数多くの生物がいるはずです。空気中には異星の細菌が浮遊しているでしょう。見た目が似ているからとヘルメットを脱ぎ捨て、裸足になって異星の草原を走り回ったりしたら、どういうことになるのか……」
「ただではすまないでしょうね」と河瀬が言う。
イミルは頷き、話しを続ける。
「人間が棲めるように惑星改造する考えもありますが、その星の土着生物にしてみれば、それは環境破壊、侵略行為に他なりません。自身の故郷を破壊した人間が、他の星に行って同じことを繰り返すのか……。その負い目もありますから他の星への定住にはためらいがあります」
「確かに……」
河瀬は眉間に皺を寄せ、頷く。
「やはり、過去の行いを正すしかありません」
イミルが結論を口にする。河瀬は沈思した後、絶望したように長い息を吐いた。
「ともかく駐車スペースを探します。大学に入って木島隆平くんがいるのか確かめましょう。でも、中にいる学生に尋ねて回るのは大変ですし、こちらの事情を正直に話すこともできません」
「ええ、そうですね。どうしますか」
「ここは小芝居を打つことにしましょう」
「小芝居?」
戸惑うイミルに笑みを投げ、河瀬は車を出した。少し離れた裏通りに車を止め、二人は大学へ向かう。構内に入り学生課の場所を探し出し、河瀬はカウンター越しに女性職員へ話し掛けた。
「すみません。こちらの学生さんを探しているのですが……」
「どういうことですか」
女性職員は年配の河瀬と外国人の容姿をしたイミルを交互に見た。イミルは河瀬の指示通り、言葉がわからないふりをする。
「先日、我が社が主催したセミナーに参加してくれた学生なんですが、非常にユニークな考えを持っていましたので、こちらの彼が帰国する前にもう一度会って話したいと思います。ですが、上手く連絡がとれませんでした。この大学の物理学部の学生だということを聞いていましたので、訪ねてきた次第です」
「そうでしたか。学生の名前はわかりますか」
「木島隆平くん、です」
「物理学部ですね。ちょっと待ってください……」
女性職員はデスクに戻り、パソコンを操作した。
「変ですね。そのような学生は在籍していませんよ」
「卒業生だったかもしれません」
その河瀬の言葉を耳にして女性職員はもう一度パソコンを使う。
「卒業生にも、その名前の人はいませんね」
「そうですか、変ですね。何かの手違いがあったのかもしれません。もう一度、確認してみます。どうもお手数をお掛けしました」
そう言うと、そそくさとその場を後にした。イミルもそれに続く。事務棟を出たところで河瀬が口を開いた。
「いないようですね。どういうことでしょうか」
「大戦前の情報は当てになりません。ズレたのかもしれませんね」
「ズレ?」
「木島博士については生誕年や没年の記録もありません。博士が学生だった頃の年代は推定なんです。一〇年、二〇年のズレがあるかもしれません。二〇年ズレていると、彼はまだ生まれていないことになってしまいます」
「まだ生まれていない、か……」
河瀬は消沈した。のっけから躓いたことになる。
「他に信頼できる情報はありません。木島博士がこの大学に入るのを年を追って調べるしかないようです」
「この大学に入学するのは確かなんですか」
「それは間違いないでしょう。東亜国際大学は時空理論の構築に対し中心的な役割をした場所です。それには木島博士の存在が欠かせない。彼がこの大学と深い関係にあることは確かです。この大学に注意を払うことで木島博士の功績を確認することができます」
河瀬は無言のまま頷いた。時空理論の起源を調査の起点にするという方針は揺るぎないようだ。
「長期戦になるな。どうするつもりかな?」
「そうですね……。大学の近くで、その時が来るのを待つことにします」
「一度、元の時代に帰ったりしないのかな」
「この時代で、時間を惜しむことはありません。少なくとも、木島博士の存在と時空理論が生まれることを確認したいと思います」
それを聞き、河瀬は眉を顰めた。のんびりした話だ。
「そうなると、この近くにアジトを構えたほうが良さそうですね」
「アジト、ですか」
「街中をプラプラしていたら不審者として警察に捕まるかもしれませんよ」
「それは困りますね」
「だったらどこかに拠点をつくらないといけない。そうじゃないかな?」
「そうですね……」
河瀬は呆れ顔をした。そんなことも考えず、この時代に来たのかと。
「イヤ、この時代に馴染むことが先かもしれないな」
「この時代に馴染む……」
「馴染んで上手く立ち振る舞うことができないと、調査もままならない。違いますか」
「なるほど、どうしたら馴染むことができるでしょうか」
「そうだなぁ……」
河瀬は思案した。二人は大学の敷地を出て車を止めた場所へ向かった。
「一つ言えるのは、食事は必要ないと食べることを拒むことはやめたほうがいい」
「必要ないのに食べろと言うのですか」
イミルは何も食べていない。水さえ飲んでいなかった。彼の話はとんでもない作り話に聞こえ、疑念を持つこともあったが、少なくとも食事が不必要というのは事実のようだ。彼の実直な対応もあり、河瀬の疑念は薄まっていた。
「この先、調査をするうえで、どこかの誰かと食事をすることになるかもしれない。そんなときに、食事は必要ないなんていったら場の雰囲気が悪くなるし、変に怪しまれ警戒する。それでは重要な情報を得ることができない……」
河瀬の話を聞きながらイミルは何度か頷いていた。
「食べることはできるのかな?」と河瀬が尋ねる。
「食べ物を口の中に入れることはできるでしょう」
「それを呑み込んだら?」
「食物を処理する機能はありません。呑み込んだら吐き出すことになります」
「だったら、しばらくお腹の中に入れておくことはできるわけだ」
「しばらく? 何のためにですか」
「食事をしたふりだよ。頃合いをみて席を立ち、トイレに行って吐き出す。ファッションモデルが太らないように社交する術だよ。若い頃に聞いたことがある」
「食事のふり、ですか」
「ああ、それくらいの芸当ができないと、この時代ではやっていけない」
「そうですね。やってみます。他にも立ち振る舞い方を教えてもらえませんか」
「教えるのは構わないが、結局は実践して身につけることだと思うな」
「実践、ですか」
「ともかく、私の家に帰ることにしよう。あそこなら人目につかないから、この時代に馴染む練習も気兼ねなくできると思う。自信がついたら街に出て実践する。どうかな?」
「ご厄介になってもいいのですか」
「もちろん。仕事もせずプラプラ過ごしているだけだから、ちょうどいい暇潰しになる」と河瀬は笑った。
車に到着し、二人は乗り込んだ。
「どうやら、考えが足りなかったようですね」
と助手席に座ったイミルが言う。
「仕方がない。異なる時代だからな。実際に出向いてみなければ勝手はわからないと思うよ。もし私が未来に行ったら、戸惑うことになるんだろうな……。どうだろう、協力したご褒美に、私を未来に連れてってくれないかな」
「残念ですが、それはできません。時空跳躍に多大な苦痛が伴うことはお話ししました。それに跳ぶことができるのは装置を仕込んだこの身体だけなんです。他の誰かと一緒に跳ぶことはできません」
「できない、か。それはガッカリだな」
そう言って笑った後、河瀬は車を走らせた。近くで宿をとり老体を休め、明日になってから自宅へ向かうことにした。そこで奇っ怪な人物との共同生活が始まる。河瀬は久しぶりにワクワクしていた。
エピローグ
イミルは古いアパートの狭い部屋を出た。
昔は学生が借りていたようだが、近頃は便利でおしゃれなワンルームマンションが建ち並び、学生はみんなそっちを借りている。古いアパートは空室が目に付く。だから借りることができた。
イミルは一五分ほど歩き大学の通用門へ入った。構内の清掃員として働き始めて三年が経つ。周囲の人たちは、最近見掛けるようになった外国人労働者の一人だと思っているのかもしれない。もっとも、大学の職員として採用されたわけではない。清掃を請け負い、人手を都合する小さな会社に入っただけだ。こうした仕事は人手不足が深刻で、多少の不備には目を瞑るから潜り込むことができた。少しばかり浮いた存在のイミルだったが興味をもたれることがないよう注意している。仕事は単純、単調。もちろん、目的は別にあった。常日頃から些細なことも逃さないよう周囲に気を配っている。
この時代に来て一番感激したのは、破棄する書類の中に木島隆平の名を見つけた時だった。ようやくスタートラインに立てたのだ。苦労が報われる。
ただ一つ残念なのは、それを伝えるべき恩人が、もうこの世にはいないということだった。