朝比奈かぼすの芸術
「うん、わかった。じゃあ、美術部に今から案内するね。」
鴨川さんはわたしの突然の入部希望に対して、一切の質問をすることなく笑顔でそう答えた。
わたしは鴨川さんに連れられて3階の美術室へ向かった。
その頃にはようやくわたしの心臓の鼓動回数はやや早い位の正常値へ落ち着いていた。
3階についた途端、鴨川さんはある女子生徒に話しかけられた。どうやら生徒会がらみの用件らしい。
「ごめん朝比奈さん、急で生徒会の集まりがあるからこれで失礼するね。はい、これ。美術部の部長の子には話しを通してあるから。名前は吾妻屋りんごさん。じゃあ、頑張ってね!」
わたしに入部届け用紙を渡し、かけあしで女子生徒と生徒会室へ向かった。それにしてもいつ話なんて通す時間があったのだろうか。まあ、ラインでもしたのかな。
それよりもわたし一人か・・・人望ある親友の鴨川さんが一緒のほうが良かったのかもしれない。そのほうが、部員もああ、鴨川さんの紹介なら真面目な人なんだろうと警戒心を解いてくれたはずだ。
まあいいや、人見知りするような性格ではないし・・わたしは、ノックも挨拶もせずに美術部の扉を開けた。
日陰側に配置されている教室のようで電灯がついてはいるが中は薄暗かった。
絵の具の匂いがする。ん、煙の匂いも。誰か顧問が煙草の匂いのついた服で出入りしてるのか?
教室の中には、10名ほどの生徒のみが絵画や彫刻の制作活動に勤しんでいた。
しばらくわたしは扉の前で部員の様子を伺った。
誰も話しかけてこない。元、全知全能のこのわたしに対して。地球破壊の根源に対して紅茶と茶菓子とゴマすりひとつしてこない。
わたしは一番近くで必死に鉛筆デッサンをしている少し暗そうな、めがねの男子生徒に目をやる。
「パースが、、陰影が、、鉛筆が、、」
頭を抱えながら独り言をブツブツと唱えている。
なるほど、ほうほう。少なくとも、この人が部長ではなさそうだ。
わたしは、無言で男子生徒に近づき
「よいしょっと。」
と、無理やり男子生徒の上に座り、無理やり席を奪い取った。男子生徒は急な女子生徒の侵略に驚きを隠せずしどろもどろしている。
「ちょ、ちょっといきなり誰なんですか!!?」
わたしは慌てふためく男子生徒を無視し、乱雑に散乱している道具をかき集める。
「ちぇ、筆が悪いな。あの、別の筆ありませんか?」
筆先を触りながら男子生徒に注文する。
「は!?え?!」
あせる男子生徒を尻目にわたしは白いキャンバスを眺めながら、油絵の具を溶き油で溶く。無言のやりとりがしばらく続いた。
「それよりも僕の膝の上からどいてくれーー!」
しばらくそうしていると、教室の隅から声が聞こえた。
「貸して上げたらー?」
わたしのいる場所と最も離れた対角線上の教室の隅で、こちらを一瞥することなく気怠い姿勢で絵を描いている女子生徒。
肩くらいまで伸びたミディアムパーマの赤髪。横顔しか見えないが、やや大人びたようなきれいな顔立ち。眠そうな猫目。化粧も今風な感じ。りんごのような丸いピアス。口元にはラッキーストライク。着崩した制服から見える巨乳。だけど細長いモデルのようなスタイル。
なんだあの人・・・・一人で校則を何個破ったら気が済むんだ・・・。鴨川さん、、さすがにあの人は校則違反だよね???生徒会長の鴨川さんがあんな赤髪 不良娘を放置してるって事は何かのっぴきならない事情があるはず。例えば、生徒会を脅しているとか、、いや、そもそも部外者が勝手に美術室を占領していると説明された方が鵜呑みに出来るかもしれない。
しかし、彼女もまた生徒会長とは違う種類の威風堂々とした雰囲気を感じる。
わたしは、美術室で不釣合いな孤高の重鎮から目が離せなかった。
「え!??いいんですか、だって部長・・。」
席をとられためがねの部員が驚いた様子で返事をする。
彼女が美術部部長!?
まじか、てことは彼女が吾妻屋りんごか。部外者でもなく、部内者。しかも部長。
しかしわたしはよくよく思い出して見ると納得せざるを得なかった。絵は人を表す。あの一階の絵は紛れもなく彼女の作品だ。
あんな絵をかけるのは、この部室内では彼女くらいしかいない。それだけで十分に合点がいく。
ついでに髪の色もりんごカラー!
「新入部員の頼みなんだもん。先輩なんだから優しく聞いてあげなきゃダメだよー。」
タバコを咥えながら、左手はパレット、右手は筆。
画家に珍しい三刀流派のようだ。
男性部員は驚いた表情をした。
他の部員もさすがにこちらの騒動、いや、やりとりに気づいたのかチラチラと興味を示している。
「あーー。言ってなかったね、今日から入った美術部新入部員。転校生の朝比奈かぼすさんだよーん。鴨川さんの友達だから失礼のないようにねー。みんなかぼすちゃんって呼んであげてねーん。」
なぜあなたがわたしの呼び名を決めるのだろうか・・
まあ、別にいいけど・・・
「え、新入部員、、鴨川生徒会長のご友人、、いや!そんな話ではなく私の席が・・。」
わたしはおどおどし続ける男子部員に入部届けを渡す、ついでにポケットにあまっていた飴も。
「朝比奈かぼすです。あ、席とっちゃったから変わりにかぼす飴あげる。美味しいよ。」
笑顔で男性部員に無理やり受け取らせる。これで、いいだろう。しょば代と飴、十分な等価交換だ。
そんなことよりもわたしは吾妻屋部長に言いたいことがあった。
「一階の廊下の絵見ました。」
「そうなんだー。それでぇー?」
「純粋に感動しました。」
「ありがとー。実はね、わたしが描いたんだよー。なるほど、もしかして君がいまここにいてその席にいるのは、わたしの絵のおかげかなー?」
「はい、その通りです。あの絵を見てわたしは思い出したんです。」
「なにをだあーい?」
「やっぱり、一番になりたいって。」
吾妻屋部長は意に介さない眠そうな表情のまま答える。
「なるほどー。やっぱり人間誰でも一番になりたいよねー。でも、かぼすちゃんあなたは違うんじゃないのー?」
吾妻屋部長はキャンバスを見たまま、にやりと笑い話を続ける。
「あなたは、一番にはならなーい。なれないんじゃない。なろうとしなーい。」
「飽きるんじゃない、諦めてしまうのー。」
「•••何も知らないのに決めつけないでください。」
「決めつけてるのははかぼすちゃんだよー?知らないことはないと決めつけて、出来ないことはないと決めつけて、
そして、自分の限界を決めつけて。。
まるで酸っぱいブドウとキツネの話のようだねー。」
吾妻屋部長はわたしの過去を知っているかのように薄ら笑う。
しかし、わたしはその通りだと思った。全知全能になれても一番にはなれなかった。何一つとして。
それでも、何かのきっかけで神さまになってしまった。この世の頂点になってしまった。
まるで意図せずチートが発動してしまったかのように。
「吾妻屋部長の言うとおりです。だから、わたしはとても、とーっても退屈でした。それで私の物語が成り立ってしまっていたから。」
「でも、だからこそ期待しています。わたしの今から描く絵が万が一、一番じゃないって事を。」
朝比奈かぼすは無邪気な笑みを浮かべた。
「おやおやーどうやらかぼすちゃんの中には傲慢と謙虚という矛盾が同時に存在しているようだねー。」
吾妻屋部長はこちらをようやく振り返る。今度は眠そうではなく、澄んだ猫眼がわたしを見つめた。
「いーよー。わたしが見てあげる。かぼすちゃんの絵がこの世界で一番なのかどうかをねー。」
吾妻屋部長の煙草の灰が床にぽとりと落ちた。
朝比奈かぼすはもらった筆を一旦置いて、目を閉じ深呼吸した。肺に全身の血液を送り込み、体中に新鮮な血液を流し込む。換気し喚起する。自分のこれまでの考えと今の想いについて。
自分が幼い頃は負けず嫌いだったということ。同時に勝つことも嫌いだったということ。
だから今からする事はただの神への「挑戦」で、ただの無意味な行動に過ぎない。
その純粋な行動に抱く今の感情は、「わくわくする。」
ただそれだけであった。
60秒間の沈黙
その後、朝比奈かぼすは勢いよく白いキャンパスに色を塗りたくる。塗りたくる。塗りたくる。塗りたくる。
下書きなどの基本を一切無視し、いきなりひたすらに色を塗りたくる。
突然の豹変ぶりに、凍りついたように見守る男子生徒。同じく温度差に圧倒される美術部員たち。
飄々と現れたかと思えば、今度は汲々と狂った様に筆を塗りたくっている。まるで本当に狂っている。
部員たちは朝比奈かぼすをそんな目で見つめていた。
一人を除いて。
飄々とし続け煙草の煙を吐く吾妻屋部長を除いて。
「おー、初日からやる気があって感心観心だねー。」
朝比奈かぼすは白いキャンパスに全集中している。その声が耳に届いているのかはもう分からない。
狂った筆先から飛散した油絵の具の返り血は、固唾を呑んで見守る男子生徒のめがねを彩った。