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第八話 霧の向こうに虹を探して

「ここ、何だか変じゃない……?」


 それはある週末、山菜採りをしている最中の出来事。

 香月はふと異変に気づいて、今日も行動を共にしてくれているパスカルとヨイチに尋ねた。

 変な場所に迷い込んでしまったと気づいたのは、やたらと濃い霧が出ているのに視界が悪くないと感じたからだった。

 霧が出れば、普通なら前も後ろもわからなくなるだろうに、見えないのは少し先だけなのだ。自分の姿も、足元にいる使い魔たちの姿も、きちんと見える。


「変と言えば、変だね」

「だが、これが森や山の常と言えば、常だな」

「……これ、普通なのかあ」


 使い魔たちの返事に、香月は腕組みして考え込んだ。

 そして、以前エンジュから聞いた、魔法が使える場所と自然界の“気”についての話を思い出していた。

 魔法を発動させるには、そのための適正が必要なのはもちろんなのだけれど、使う場所に気が満ちていなければ使えないのだという。

 気とは魔法を発動させるために使われる、自然界にあふれている力のことで、ファンタジー小説やゲームの中だとエーテルなどと呼ばれているものらしい。その気やエーテルと呼ばれるものが枯れ果てている場所では、どんなに偉大な魔女や魔法使いであっても、魔法を使うことができないそうだ。


「森や山っていうのは、エーテルがあふれた場所よね。魔法という、不思議な力を使うためのものがあふれた場所でなら、不思議なことが起こっても仕方ないってこと……?」


 頭の中を整理しながら、香月はそう自分なりの答えを導き出した。というより、取り乱さないためには無理やりにでも論理的思考をしているふりをしたかったのだ。


「まあ、そうといえばそうだな。昔の人間は、山でこういった目に遭うのなんてよくあることだったから、もっとシンプルに名をつけ、割り切って受け止めていたでござる」


 小難しいことを言おうとする香月を、ヨイチは優しく受け止める。今そばにいるのがコウだったら、間違いなく「あー、香月の話ってマジでよくわかんないよなー」などと言い出しただろう。

 

「狐につままれるとか、狸に化かされるとかってこと?」


 ヨイチに言われ、香月は人間を化かす生き物について考えた。すると視線を感じたのか、パスカルが毛を逆立てる。


「ひどいー! 香月ちゃん、今ボクに化かされてないかとか考えたんでしょ? ボクをそこらへんにいる妖怪と一緒にしないでよ!」

「ご、ごめん」


 温厚なパスカルがプンスカと怒っているのを見て、使い魔には使い魔のプライドがあるのだと知った。それとも、アライグマとしてのプライドだろうか。


「さて、これからどうしようね……」


 気持ちが落ち着いたところで、香月は改めてこれからの行動について考えた。

 霧に囲まれてしまう前は、山に自生する薬になる植物や山菜について使い魔たちに教わっていたのだ。

 朝食後の体力作りのかけっこに代わる新たな試みだったため、コースも日頃通る道とは違う。だから、即座には自分の位置とロッジへの帰り方がわからない。


「家を出てからまだそんなに時間は経ってないから、今は十時前くらいかな? ……夕方までには、エンジュさんが帰ってくるか、コウが遊びに来るよね?」


 いつもと違うルートで山歩きしていたという不運に加え、今日は朝からエンジュは常連さんのところに配達に行っていない。昼食は香月の採ってきた山菜で天ぷらにしようなどと言っていたから、昼時には帰ってくるのだろうけれど。


「それって、二人が香月ちゃんの不在に気づいて探しに来てくれるかもしれないってこと?」

「うん。それに、霧に気づくかなって。コウくんは無理でも、エンジュさんなら何とかしてくれるんじゃないかって」

「それはどうだろうね」


 エンジュの存在を思い出して楽観的になった香月に、パスカルがめずらしく水を差すようなことを言った。


「……どういうこと?」

「いつもの山ならエンジュが見つけてくれるかもしれないけど、ここは霧の中だよ。しかも、普通の霧じゃない。こういうときはね、異界に一歩、足を踏み入れてるって考えたほうがいいよ」

「つまり、自分で頑張って帰るしかないってこと?」


 恐る恐る尋ねる香月に、パスカルはコクコク頷いた。無邪気に見える顔で見上げられているだけに、より不安にかられた。


「そう心細そうにするでない。香月はひとりではないでござる」


 慰めるように、ヨイチが肩まで登ってきた。あるかないかの重さと割り箸でできた小さな足の感触に、香月は少しだけほっとした。


「そうだよ。香月ちゃんはひとりじゃない。今忘れちゃいけないのは、香月ちゃんは魔女で、ボクちは使い魔ってことだよ」


 パスカルも元気づけようとしているのか、前足で香月の脚にキュッとしがみついた。

 気持ちをもう一度落ち着けるために、香月はしゃがみこんで肩と脚の使い魔たちに触れた。


(私は、魔女。……魔女らしくしなくちゃ。私がしっかりしなくちゃ、きっと使い魔たちも力をふるえない)


 深呼吸をして、思考を整理した。すると、胸焼けのように渦巻いていた不安がいくらか薄らいだ。


「前にタイムカプセルを掘り出したときに思ったけど、あなたちは鼻がきくよね? だったらその鼻を使って、私を家まで連れて帰ってくれる?」


 魔女としてこの場で使い魔たちにどう振る舞うべきなのか考え、香月はそう言った。パスカルとヨイチのことは使い魔というより友達だと思っているから、命じるというよりお願い口調になってしまったけれど。


「もちろん!」

「お安い御用でござる」


 香月の頼みに、使い魔たちは快く応じてくれた。張り切ったパスカルが先陣を切って歩きだす。

 一寸先しか見えない霧の中を、パスカルは自信満々で進んでいく。時折後ろ足で立ち上がってキョロキョロと周囲を確認するとまた黙々と進んでいくから、迷いなどないように見えた。肩の上のヨイチも何も言わないから、程なく家に帰りつけるのではないだろうかと、香月は思わず期待したほどだ。


「……はあ、困った」


 しばらく歩いてから、立ち止まったパスカルが唐突に呟いた。順調に家に近づいているとばかり思っていた香月は、その言葉に驚いた。


「困ったって、どうしたの?」

「んーとね、誰かの迷子に巻き込まれたみたい」

「つまりな、拙者たちが迷っているのではなく、この山で別の者が迷子になっておるから、それをどうにかするまで拙者たちも帰れぬということでござる」

「霧の発生源を見つけるまで、ずっと山の中を歩かされるってことだね!」


 ヨイチの丁寧な説明と合わせても、香月はすぐに事態を飲み込むことができなかった。おまけに、元気よく言うパスカルの言葉がさらに惑わせる。


「え? 何それ? 誰かの個人的事情に巻き込まれて迷子になってるってこと? ……迷子になってるのって、人間?」


 本当はそんなことが聞きたかったわけではないのに、混乱のあまり尋ねていた。聞けばそれだけさらに混乱することもわかっていたのに。


「人間か人間じゃないかって言えば、まあ人間じゃない可能性が高いよね」


 あたりを見回していたパスカルが、香月を振り返って答える。

 こんな事態を招くのが人間じゃないことくらいわかっていたはずなのに、はっきり言われて香月はうなだれた。

 でも、取り乱すことはなかった。


「あー……こういうのは、初めてだなあ」


 深く呼吸を整えながら、誰に言うでもなく呟いた。

 そうして深呼吸ができる程度に落ち着いているのは、この手の現象にまったくの不慣れではないからだ。


 香月は昔から、変なものが見えていた。

 幼いときは、それをいわゆるオバケとか幽霊だとかいう怖いものだと思っていたのだけれど、成長するにつれてどうにも違うものだと気がついた。

 香月が見ているのは、黒いもやのようなものだ。それは大概、場所に漂っているのではなく、人間にまとわりついている。

 ものすごく不機嫌を撒き散らす人や意地悪な子にまとわりついているのを見て、それが人間の悪感情に由来するものだということも、物心ついた頃には何となくわかるようになっていた。

 小学校に入ってから自称霊感少女と出会って、その子の言っていることを信じるならば、香月には霊感がないということもわかった。彼女が何かを見たと言ったり過剰に怖がる場所に、香月は何も感じなかったから。

 そういうわけで幽霊でもオバケでもない、人間の悪感情に由来する黒いもやを見る香月は、自然と世渡りがうまくなっていった。

 学校ではなるべく、黒いもやをまとった子には近づかないようにする。友達や家族がもやをまとい始めたら、気分がよくなるように振る舞ってできる限りもやを晴らすようにする。自分自身も、悪感情を溜め込まないようにする。

 そうやって徹底しなければ、自分自身を守れなかったから、良い子に振る舞うのが自然に身についていってしまったのだ。

 

 黒いもやが見えることによって、霊感のある人間たちが言っていることもだんだんと理解できるようになっていった。

 霊感のある人が「ここには悪いものがいる」「この場所ではよく事故があって」などと言う場所には、不思議なことに黒いもやをまとった人間が吸い寄せられるように集まっているのを目撃していたからだ。

 そういうものを見て、肌で感じて知っていたから、普通の人よりも奇怪なものとは縁がある人生だったように思う。

 スミヱのところに行くまで、それが魔女ゆえのことだったとは知らなかったけれど。

 コウがやたらと雨男なのと同じように、黒いもやを見てしまうのは香月の立派な能力だったのだ。


「それなりに変なものを見てきたと思ってたけど、こういう怪奇現象は初めてだなあ。どうしよう……」


 空元気のように言ってはみたけれど、それで事態が好転するわけでない。言いながらうなだれた香月を、パスカルが励ます。


「こういうときは、魔女らしく乗り越えるしかないんだよ」

「魔女らしく……?」

「魔女だったら、こういうときに使える便利な力があるでしょ?」

「あ……」


 パスカルに言われ、香月は思い至った。

 こんなときこそ、魔法の出番だと。


「でも、杖がないよ」

「これを代わりに使って。クルミの枝、ヒイラギの枝、イチイの枝、あとクリの木の枝。どれも杖の材料になる木だから、ないよりマシだよ。相性があるから、どれがいいか試してみてね」


 そう言って、パスカルは落ちていた枝を集めて香月に渡した。

 香月にはどれも、それほど違いがないように見える。それに、杖とするには少し頼りない。それでも、今はそれでどうにかするしかない。


「……って言っても、まだ私、ひとつしか魔法使えないけど」


 そんな魔法でもないよりマシだろうと思い、香月は呪文を唱えながら小枝を振った。


「……あ!」


 ある枝は塵のような光しか出ず、ある枝はなんの反応もなく、ある枝はプスプスと煙を上げた。けれど最後の一本を振ったとき、大きな光の玉がポンポンと飛び出し、周囲を明るく照らし出した。


「ヒイラギの枝がこの中で一番相性がよかったんだね」

「よし。それでは、杖に命じて迷い子を探すでござる」


 見守っていたパスカルとヨイチに期待の眼差しを向けられ、香月は困ってしまった。でも、この流れで何を求められているのかはわかった。


「……光よ、迷子へ導け」


 ものすごく恥じらいながら、何とか香月は呪文っぽいものを唱えた。すると、光はふよふよと意思を持ったかのように動き出した。


「別に、普通に命じればよかったのだぞ」

「え……」

「でも、魔法少女みたいでかっこよかったよ!」


 恥じらっているところへ追い打ちをかけるように言われ、香月は少しの間、両手で顔をおおって歩いた。でも、光について歩くうちに、そんな恥ずかしさも吹き飛ぶようなものと遭遇することになる。


「……誰?」


 しばらく歩いていくと、霧の向こうに光に照らされ何か見えた。それは人影のように見えて、香月は思わず立ち止まって声をかけていた。


「その声はもしかして、香月さんか?」

「……田畑先生?」


 霧の向こうから現れたのは、何と田畑だった。まさかと思って訝ったけれど、目の前に姿を現したのは間違いなく熱血とお節介オーラを放つ田畑だった。こればかりはオバケでも妖怪でも真似できないのではないかと考え、本物だと判断した。


「魔法屋に用があって来たのに、途中で霧が出てきたから往生してたんだ」

「……で、その子は一体誰なんですか?」


 状況を説明しようとする田畑のすぐ隣を見て、香月は身構えた。そこには田畑に手を引かれ、ひとりの小さな女の子がいた。五、六歳だろうか。そのくせ、あまり子供らしさを感じられないような雰囲気をしている。


「この子はな、途中で会ったんだ。こんな小さな女の子を放っておくわけにはいかないから、とりあえず一緒に連れていって、霧が晴れたら家に送ってやろうと思ってな」


 熱血でお節介でお人好しを絵に描いたような田畑は、この霧の中で突然子供が現れても不審には思わないらしい。


「香月、おそらくこの子供が迷い子でござる。この子をどうにかすれば、霧は晴れるだろう」


 ヨイチに耳打ちされ、香月は頷いた。幽霊なのか怪異なのか山の気が見せた幻なのかわからないけれど、とにかくこの子供さえ迷うのをやめてくれたら帰れるのだ。


「ねえ、あなたは迷子なの? 何をしにこの山に来たの?」


 女の子の目線に合わせるようにかがんで、香月は尋ねた。


「……虹が見たいの」


 妙に黒々とした瞳で見つめ返しながら、女の子はポツリと答えた。


「虹?」

「あー、そうだった! 虹が見たいって言ってたんだけど、この霧じゃ難しいって言ってたんだ。でも、魔法屋なら何とかしてくれるかもしれないって言い聞かせてたんだよ」


 田畑が補足するように言うと、女の子は目を輝かせた。子供らしくないと感じたのは、表情の変化が乏しかっただけだと香月は気がついた。


「虹を見たいの? 虹を見たらお家に帰れる?」


 香月が尋ねると、女の子は頷いた。その目に浮かんでいるのは、期待の眼差しだ。どうやら悪いものではないみたいだと感じて、少し安心する。


「じゃあ、一緒に魔法屋まで行こうか。でも、この霧で私も迷ってたんだよね。……もしかしてあなたなら、案内できる?」


 ダメ元で香月が問うと、少し悩んでから女の子が頷いた。霧の発生がこの子が迷っているせいなら、それを何とかするためにだったらこちらに協力するのではないかと思ったのだ。


「なんだなんだ? 急に元気になったな」


 田畑の手を引いて歩きだしたため、香月たちも後を追うことにする。

 心なしか霧が晴れてきたなと思っていたら、それからほどなくして、あっけないほど簡単にロッジへと帰り着いた。


「さて、あとは虹を作るだけなんだけど……」


 ロッジに帰り着きさえすれば何とかなると思っていたのに、頼みの綱のエンジュはまだ外出していた。つまり、この問題を自分で解決しなければならないということだ。


「……虹の作り方って知ってる?」


 香月はコソッと、使い魔たちに尋ねてみた。この場で頼りになるのは、この子たちだけだ。けれども、「知らない」「知らぬ」とアライグマもナスも首を振った。


「香月さん、ひとり言じゃなくて俺に聞いてくれたらいいだろ。俺、虹の作り方知ってるぞ。これでも教師だからな!」


 使い魔たちとのやりとりをばっちり見ていたのに、田畑はそれをひとり言と解釈したらしい。そういえば、魔女でなければこの子たちの声は聞こえないのだった。


「……じゃあ、教えてください」

「よし。それなら外の水場に案内してくれ」


 意気揚々と言われ、香月はハーブ畑のそばの水道まで連れていった。


「よしよし。虹を作ろうと思ったら、太陽が高すぎない午前中や夕方のほうがいいんだよ。それで水の粒が細かくなるように放出して、それを太陽に背を向けて見ると……」


 田畑は解説しながら蛇口を上に向け、指で抵抗をつけて勢いよく水を上方に噴き上げさせた。

 すると、水飛沫に重なるように、小さな虹が出現した。うっすらとしていて、見る角度を変えるとすぐに消えてしまうけれど、それは立派な虹だった。


「虹だよ。よかったね、見られて」


 食い入るように見つめている女の子にそう声をかけると、女の子は微笑んで、それから満足そうに頷いた。


「これで家に帰れる?」

「うん。ありがとう」


 香月の問いかけに、女の子は元気よく答えた。それから、パタパタと駆け出した。その姿はあっという間に、霧の向こうにかき消えてしまった。


「え? あれ? ……いなくなった?」


 突然消えた女の子に、田畑がうろたえた。でも、そんな彼以上に動揺しているのは香月だ。


「……何で霧が晴れないの?」


 無事にロッジに帰り着いているからいいものの、問題が解決したと思ったのに霧が晴れないのは気分のいいものではない。


「迷子は、あのおじさんもだったんだね」


 狐につままれたような顔をしている田畑を見て、パスカルが冷静に言った。


「俺、疲れてるのかなあ……これは、夢だな。女の子が消えたりとか、タヌキが人間みたいな仕草と口の動きしてる……そんなことあるわけないもんな」


 今度こそばっちりパスカルの口が動いているのを見た田畑は、そんなことを言って乾いた声で笑った。

 一度は魔法屋に依頼に来たこともあったくせに、非科学的なことは信じていないらしい。


「これって、どうしたらいいの? どうにかすべき?」

「どうにかしたほうがいいだろう。エンジュは平気にしても、コウのやつがこの霧に巻き込まれたら気の毒でござる。今日は学校が休みなのだから、いつ来てもおかしくない」


 香月とヨイチが会話するのを見て、田畑は目頭をもんでた。ナスを相手にしゃべるのを、疲れ目のせいにしようとしている。


「……田畑先生ってもしかして、人生の迷子的な感じなんですか?」


 面倒くさいと思いつつも、香月は尋ねた。元々、なぜか田畑は魔法屋オカマジョに来るために山に入って霧で迷ったと言っていたのだから、おそらく何か困りごとを抱えていたのは間違いないのだろう。


「ああ、そうだった。ちょっと香月さんの意見が聞きたくて来たんだった」

「上がってください。お茶くらい出しますから」


 霧が晴れるまで追い返すこともできないから、仕方なしに田畑を招くことにした。エンジュが不在のときにお客さんを入れるのはどうなのかと迷うけれど、こういう非常時ならきっと何も言わないに違いない。


「応接室にまで持っていくの面倒なので、ここにいてください」

「わかった」


 勝手口から台所を通ってリビングに案内して、香月はお茶を用意しに戻った。

 ここが本当に魔法屋であるロッジなのか、それとも異界の中のよく似た建物なのか自信がなかったけれど、ティーカップの位置も茶葉を収納してある抽斗も、すべて香月の記憶通りだった。


「それで、私の意見を聞きたいことって何ですか?」


 緑茶を淹れて運ぶと、単刀直入に尋ねた。

 本当なら軽い世間話を挟むべきなのだろうけれど、今はそういうまどろっこしいことをしたくなかった。その上、そういうことをする対人スキルもまだ、取り戻せていないままだ。


「その、な……どうやったら学校に来たくなるだろうかと、聞きたかったんだ」


 まっすぐ尋ねられ、歯切れ悪く田畑は答えた。

 気まずそうにするならなぜ聞きに来たのかと、香月は少し苛立った。聞きづらいのは当然だ。休学中の人間に、普通の神経をしていたらそんな質問しない。


「受け待ちのクラスに不登校の生徒でもいるんですか?」

「まあ……新学期が始まってまだひと月ちょっとだから、不登校とは断言できないが、学校から足が遠のいてるんじゃないかと感じる生徒がいるんだ」


 ズバッと聞かれたことで思いきりがついたのか、お茶を飲み干すと、田畑はポツポツと抱えた事情について語りだした。

 休みがちな生徒がいること。問題なく周囲に馴染めている様子なこと。部活には熱心に顔を出している様子なこと。ただ、授業中はぼーっとしていることが多い。などなど。

 とはいえ、どれだけ詳しく語られても、そこから香月ができるのは単なる推測だけだった。


「それ、ただ単に学校がダルい……面倒なだけじゃないですか? 学校に来て勉強したり同級生と顔合わせたりよりも面白いことがあれば、面倒になることもあるんじゃないですかね」

「そういうこと、なんだろうか」

「いえ、わかりませんけど。人それぞれ事情があるように、学校に行きたくない理由なんてそれぞれでしょ。それは、当人にしかわからないことです」

「そうだよなあ……」


 香月の答えを聞いて、田畑はがっくりとうなだれた。何か画期的な答えでも得られると思っていたのか、悩みすぎて誰かに話を聞いてほしかったのか。

 わからないけれど、田畑は落ち込んでいる。それを見て、このまま帰らせるのは気が引けると香月は思ってしまった。

 田畑のことは正直苦手だけれど、せっかく魔法屋に足を運んだ人を悩みを抱えたまま帰すのは、店の方針に反する気がしたのだ。


「田畑先生にアドバイスするとしたら、過剰な反応しないこと……ですかね。周りの反応のせいで些細なことがこじれるって、この手のことで多いと思うんです」


 自分なら何をしてほしくないか――そのことを考えながら香月は言葉を紡いだ。

 この場合はきっと、してほしいことよりしてほしくないことの知識のほうが役に立つ。そう思って、あまり触れたくない自分の心の部分にも触れながら考えた。


「休みがちが完全な不登校になるきっかけになんてなりたくないでしょう? ただの風邪と持病を併発して運悪く二週間くらい休んでしまっただけなのに、千羽鶴とクラスメイトからの寄せ書きをもらったせいで不登校になった中学生の話を聞いたことありますもん。過保護とか過干渉って、結局は周りの自己満足です。当事者としては欲しい助けが得られないままなのに、周囲は勝手にやった気になって納得してるって、すごく迷惑なんですよ」


 香月の話すことにほとんど相槌を打たず、田畑は真剣な様子で聞いていた。困惑はしているようだったけれど、反発も否定もしてこなかった。

 それを香月は少し意外に思う。


「熱血とか熱心と、うざいのって違いますよ。冷静と無関心も違う。きちんと距離を取って静かに見ててもらえることが、何より助かることもあります。……本当に必要になって手を伸ばしたときにその手を掴めるところにいてくれるのが、困っている側の求めていることだってわかってないんですよね、お節介な人って」

「辛辣だなあ……でも、確かにそうだな」


 思い当たる節があったらしく、田畑は苦笑いを浮かべて頭をかいた。けれども、気を悪くしている様子が一切ないことで、香月は彼への評価を改めることにした。


「辛辣ですみません。でも、これ田畑先生の夢の中なので、現実よりも辛辣さ増し増しってことで。代わりに、アライグマとナスが優しくしてくれますよ」


 パスカルとヨイチが、お茶菓子を運んできているのを見て香月は笑った。香月があまりにもストレートに物を言うから、二人は気が気ではなかったらしい。慰めるつもりなのか、エンジュが誰かからもらったと言っていた、ちょっと高そうなチョコレートを選んで持ってきていた。


「そうか……これは夢だったな」

「受け止めきれないなら、そう思っておくのがいいと思いますよ」

「そうだな……」

 

 パスカルの熱心な視線に負けて、田畑はチョコレートをひとつ摘んで、口に運んだ。それから、その視線の意味がキラキラの包み紙を欲してのものだとわかって、それを差し出した。


「あれ、寝ちゃったね」

「何で?」


 しばらくすると、田畑はソファに深く腰かけ、うつらうつらしていると思ったら眠ってしまった。


「これ、お酒入りのチョコレートだったから……」

「ああ……」


 パスカルの手には、田畑にもらった色とりどりの包み紙があった。つまり、田畑は包み紙をあげようとお酒入りの何個も食べて、酔っ払ってしまったということだ。


「酒に弱いとか、こやつ、苦労するでござる」

「良い人だから、人柄でカバーできないの?」

「良い奴だから、苦労するのだよ」

「大人の世界って、面倒だね」


 疲れた顔で眠っている田畑を見て、ヨイチと香月は言い合った。

 これだけ熱心な人間だと、きっと抱え込むものも人より多いに違いない。休みの日にわざわざ生徒のことで相談に来るあたり、その苦労性な性格がよくわかる。


「目が冷めたら、少しは悩みが軽くなってるといいね」


 いつの間にか二階から毛布を引っ張ってきていたパスカルが、心配そうに田畑を覗き込んだ。それを一緒にかけてやりながら、香月も頷いた。

 そして、田畑の相談内容の生徒を、少し羨ましく思った。本当の意味で気にかけてくれる人がいるというのは、すごく恵まれたことだ。

 あのとき、田畑のような教師が香月にもいてくれたなら――そんなことを考えて、塞がっていない胸の傷が疼いたのだった。


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