第一話 魔法屋 オカマジョ
長いこと電車に揺られてたどりついたのは、小さくて寂れた駅だった。
単線のホームなんて初めて見た香月は、その殺風景さに驚いた。
それより香月を驚かせたのは、その場所の寒さだ。
三月も中旬といえば、香月の地元ではすっかり春めいてくる。しかし、ここは冬とは違うものの、まだ空気がきゅっと張りつめていて、春の気配は遠い。
暖かくしてくるようにと言われていたけれど、まさかここまでとは思っていなかった。だから、裏地付きのトレンチコートを着てマフラーを巻いただけだった。ほんのりと暖房のきいた電車から降りてすぐだからかもしれないが、その程度の防寒具では防げない寒さに感じる。
それでもずっとここで震えているわけにはいかないから、マフラーを巻きなおし、気を引き締めて香月は歩きだした。
ここから、さらに山を登らなければならない。目的地は、山の上だ。送ってもらった手描きの地図によれば、駅を出てバス停を目指して道なりに歩いて、そこの近くから山道に入るらしい。
「あんたが、川村香月?」
「……っ」
改札を出たところで声をかけられ、香月は心底驚いた。
かろうじて改札が自動化されているだけの無人駅で、他に利用者の姿もなかったから油断していた。そのせいで、すぐに返事ができなかった。
「川村香月なの? どうなの?」
声をかけてきたのは、高校生くらいの男子だった。しかも、長めの髪をオレンジがかった金色に染めている、見るからにヤンキーだ。
同年代の人間が嫌で怖い今の香月にとっては、それにさらにヤンキー要素が加わっているなんて最低だ。関わりたくない人種ナンバーワンといっても過言ではない。
「……そ、そう、です」
鋭い視線に急かされるようにやっとのことで返事をすると、ヤンキー少年はあからさまにがっかりした様子だ。
「あんたを迎えにいくよう言われたんだ。俺と歳が変わらない女子がいるって聞かされたから来たんだけどさ……」
「す、すみません……」
がっかりした理由がわかって、香月は消えてしまいたくなった。
彼はきっと、ちょっと可愛い子がいたらいいなという気持ちでここへ来たのだろう。年頃の男子がそのくらいのことを期待したとしても、誰にも責められないはずだ。
それがわかるから、香月は消えてしまいたくなった。申し訳ないとは、思わないけれど。
「んじゃ、行くぞ。エンジュさんの家、山の上だから時間かかるし」
「は、はい」
「コウ、待つでござる。その娘の荷物を持ってやれ」
ヤンキー少年に急かされ香月が歩きだそうとすると、またどこからか声をかけられた。
あたりを見回すと、駅舎を出たところにタヌキがいた。それから、お盆に見かけるナスでできた送り牛も。
他に人間の姿はない。ということは、このどちらかが声を発したということだろう。
「ヨイチとパスカル、お前らも来たのか」
コウと呼ばれたヤンキー少年は、平然とナス牛とタヌキに声をかけている。
「コウくんだけじゃ、きっとその女の子が困るだろうからってエンジュに言われて」
「拙者が言わねば荷物も持たんくらいだからな」
「うっせ」
タヌキのほうは、可愛らしい声でまったりと話す。ナス牛は低く渋い声で、まるで侍のような話し方をする。不思議な光景だ。コウはその不思議な二匹に馴染んでいるのか、普通に会話している。
「……な、何、これ?」
あまりのことに、香月は軽く目眩がした。動物と野菜がしゃべるなんて、普通のことではない。それを平然と受け止めているヤンキーも変だ。
「何って、エンジュさんの使い魔だよ。何でアライグマとナスの組み合わせなのかは、わかんねえけど」
「使い魔……」
「あんた、エンジュさんが魔女だって知ってて居候するんだろ? それなら、このくらいのことでびっくりしてたらキリないぞ」
言いながら、コウは香月からボストンバッグをひったくってスタスタと歩きだす。迎えにきたといっても、道案内する気も隣を歩く気もないらしい。香月が可愛い女の子だったら、きっと違っただろうけれど。
「おぬしが香月か。拙者はヨイチ。ナスのヨイチだ」
「ボクはパスカルだよ。アライグマのパスカル。よろしくね」
「よ、よろしく。川本香月です」
香月を見上げて、ナス牛とアライグマが自己紹介をしてきた。
どちらの名前も、際どい感じだ。オヤジギャグというか、何というか。でも、ヤンキー少年のコウよりも親しみやすそうだ。今は人間を相手にするよりも、不思議な存在でも動物や野菜と向き合うほうがよほどマシだと思えてしまう。
「すまんが、香月。拙者を手にでも乗せて歩いてくれんか? 拙者のようなナスが歩いているのは、他の者には奇異に映るからな」
「は、はい」
「では、コウの後ろに続こうか」
先を歩いていたコウが、立ち止まってこちらを睨んでいた。一応は待ってくれていて、早くしろということなのだろう。
「さっさと来ないとおいてくからな」
「は、はい……」
再び歩きだしたコウの後ろに、香月も続いた。コウは遠慮することなくどんどん歩いていくから、香月はそれについていくのがやっとだった。ただでさえ歩幅がコウのほうが大きいのに、加えて香月は運動不足だ。長く歩くこと、おまけに早歩きは身体にこたえる。
それでも香月は、歩き続けなくてはならない。
香月はこれから、魔女のいる家へ行くのだから。
他に行く場所はないし、自身も魔女になって成さねばならぬことがあるのだ。
学校へ行けなくなって、香月がまず最初に預けられたのは父方の曾祖母のところだった。
両親は共働き。父方の祖父母宅は遠すぎる。母方の祖父母は叔父家族と同居中。そのため、曾祖母のところより他に適当な場所がなかったのだ。
それに、曾祖母のスミヱは香月を気に入っている。香月が家に閉じこもりきりと聞いて、自分の元へ呼び寄せるとスミヱ自ら言い出した。
齢九十に手が届こうかというのに#矍鑠_かくしゃく_#としていてきれいでおちゃめなスミヱのことが、香月も大好きだった。
大好きなスミヱのそばで、ゆったりした田舎暮らし。料理を教わったり、小さな畑を手伝ったり、時折勉強したり、おだやかな時間を過ごしていた。
ここでなら生きていけるかもしれない――そんなことを、香月は思っていた。スミヱも、いつまでもここにいていいと言ってくれた。
だが、香月はスミヱを悲しませることをしてしまった。そんなつもりはなかったけれど、香月の行動はスミヱをひどく悲しませてしまった。
それで今度は、これまで会ったことも名前を聞いたこともない遠縁の親戚に預けられることになったのだ。
その人について知っているのは、魔女ということだけ。
スミヱがそう言っていたから、間違いないのだろう。だからこそ、香月はこんなど田舎までやってきた。
「あんたさ、警察に補導されてひいばあちゃんのところからエンジュさんのところに預けられることになったんだろ? 見かけ地味なのに、意外とワルなんだな」
それまでずっと五歩くらい先を黙々と歩いていたコウが、ふいに振り返ってそう言った。
面白がるようなその口調に、香月は身体中の血液が一瞬にして沸騰するような心地がした。
面白がっているのは、香月を自分と同程度――素行の悪い#不良_ヤンキー_#だとみなしたからか。
それとも、自分より下だと思ったのか。
わからないけれど、どちらだって香月にとっては面白くなかった。
「別に、不良じゃありませんから」
再び歩きだしたコウの背中に、ポイと投げつけるように香月は言った。言ってもどうにもならないことはわかっている。それでも言いたかった。
「なんだよ。別に不良とか言ってないだろ。ただ、見かけによらず悪いことするやつなんだなって言っただけじゃん。悪いことして補導されるやつにワルって言っても間違いじゃないだろ」
面倒くさそうに、振り返りもせずコウは言う。
ワルと言われて、香月の心はチクリと痛んだ。
補導されるまで、ずっと良い子だと言われ続けた人生だったから、そんなふうに言われるのは嫌だった。
それに、自身ではまだ良い子だと思っている。
悪いやつというのは、香月を学校に行けなくしたやつらのことだ。
「……丑の刻参り」
「は?」
「丑の刻参りをしたんです。呪い殺してやりたい人がいて。それを見つかって、補導されただけです……」
香月が言うと、コウは顔を歪めた。それが驚きからなのか嫌悪感からなのかはわからない。だが、そういう反応には慣れている。
「丑の刻参り……呪い殺したいねえ。ちょっと俺にはわかんねえわ。それに、エンジュさんもそういうの嫌いだと思うけど」
軽蔑したように言ってから、コウは歩く速度をあげた。気がつけば目印のバス停を通り過ぎ、山の中へと入っていた。
コウは今度は脇目もふらずに斜面を登っていく。道らしい道ではなくけもの道だから、香月も必死になってついていくしかなかった。
置いていかれては、きっとひとりでは魔女の家にまでたどり着けないだろうから。
「……辛気くせえな」
運動不足の身体に山歩きはつらく、香月は何度も立ち止まった。それに気づくとコウは声をかけるでもなく立ち止まって、香月が動き出すとまた歩を進めるということを繰り返していた。そして、何度めかのときにそう吐き捨てるように言った。
「あんたさ、エンジュさんのところに居候するってことは、あんたも弟子入りするってことだろ? 俺、嫌だ! 俺が先に弟子入りしてたのに、あとからあんたみたいな、人を小馬鹿にした辛気くさいやつが入ってくるなんて認めねえ!」
道中でよほど鬱屈したのか、それを爆発させるかのように叫んだ。
「なっ……」
突然の否定と拒絶に、香月は悲しみと怒りがないまぜになって、何も言い返せない。胸の中心がえぐられたかのように痛くなって、涙が出てきた。
確かに、今の香月は明るくない。辛気くさいと言われても否定できない。でも、だからといって突然、「嫌だ」とか「認めない」だなんて言われたくなかった。
「香月よ。泣くでない。気を鎮めよ」
「香月ちゃん、落ち着いてね。よしよし」
唇を噛みしめ、ポロポロと涙を流す香月を、ヨイチとパスカルがなだめようとしているのがわかった。けれども、そう言われたところで簡単に気持ちがおさまるはずがない。コウに対してだけではない、人間そのものに対しての憎しみや嫌悪のようなものが溢れ出していて、抑えがきかなくなっていたのだ。
「……おい、何なんだ……?」
ふいに、周囲の木々が騒がしくなってきた。湿気を多く含んでぬるっとした風が、木々の間や香月たちのそばを吹き抜けていく。
そのことに気づいたコウが、キョロキョロと周りを見た。パスカルとヨイチも、何かを探るように鼻をひくつかせる。
その様子から、不穏な空気があたりに満ちているのが香月にもわかった。わかったところで何もできなくて、不安に身をすくめるしかない。
山の天気は変わりやすいという。このまま嵐が来て、身動きが取れなくなってしまうのだろうか。そう考えたけれど、近づいて来ているのが嵐などではないことは、香月も気づいていた。
「あんたたち、何やってんの!」
じわじわと、何か薄気味の悪いものが近づいてきていたそのとき、頭上からそんな声が降ってきた。視線を上げていくと、そこにはホウキに乗った人の姿があった。
その人物は、サッと急降下して香月たちのそばまできた。その直後、さわやかな青々とした香りの風が吹き抜ける。
「遅いから心配して来てみれば、何よこの空気! ……コウ、あんたが泣かしたんでしょ? あんたってすぐ余計なこと言うんだから」
ホウキから降り立ったのは、背の高い女性に見える男性だった。メイクをして肩出しのフェミニンな服に身を包んでいるけれど、身体つきががっしりしているし、声も独特の低さがある。
その人は、コウに対して猛烈に怒っていた。
「エ、エンジュさん……! 違う! こいつが勝手に泣いたんだ! 俺、こいつのこと辛気くさいって言っただけ! 余計なこととか言ってねえ」
「それが余計なの!」
「いてっ」
ガツンと、コウの脳天にエンジュと呼ばれたその人の拳骨が叩きつけられた。一瞬でコウは涙目になる。感じの悪いコウが目の前で怒られたのを見て、香月は少し溜飲が下がった。
けれども、エンジュは次に香月に向き直った。
「あんたが香月ね。あんたもね、辛気くさいとか言われたくらいで泣かないの! 辛気くさいのは事実じゃない! 言われるのが嫌なら何とかしなさい。何とかする気がないなら、それくらいのことで負の感情をこんなふうにダダ漏れにするんじゃないわよ」
そう言ってエンジュは、周りの空気を払うかのようにホウキを二度三度振り回した。そうすると、気味の悪い湿った空気が薄まった気がする。
それからエンジュは何か言いたげに香月をまた見たけれど、何も言わずホウキに乗った。
「……言いたいことはいろいろあるけど、とりあえず帰るわよ。帰って夕食よ! さあ、走った走った!」
「えー」
言うやいなや、エンジュのホウキはピューッと飛んでいく。その後ろを不満げな声をあげつつも、コウは素早く走り出してついていった。
エンジュを前にすると、コウはまるでよくしつけられた犬のようだ。
「香月ちゃんも行こう?」
「もう少しで着くでござるよ」
「……うん」
使い魔たちに励まされ、香月もエンジュたちの後ろを出来る限りの速さでついていった。
香月がたどり着いたのは、おしゃれなロッジ風の二階建の家だった。
その二階の一室を、香月は自室としてあてがわれた。
「……どうしよ、これ……」
夕食の前に風呂に入ることを勧められた香月だったけれど、部屋着としてエンジュが用意してくれていたものに袖を通して、戸惑っていた。
それは、人気ブランドのモコモコ素材のルームウェアだった。
素材やパステルな色使いが可愛いし、何より細かな部分まで計算され尽くしたデザインが乙女心をくすぐるものだ。雑誌で見て憧れていたけれど、どれも上下セットで一万円するのは当たり前だし、何より自分には絶対に似合わないと思っていたから、一生着ることはないと思っていた。
でも、それを着て鏡に映る自分の姿はなかなか素敵だった。馬子にも衣装というやつだ。
お風呂に入ったことと可愛いルームウェアのおかげで、香月の気持ちは上向きになった。
「あらぁ! 似合うじゃない! アタシ、ここのルームウェアが可愛くて大好きなんだけど自分じゃ着られないから、女の子の知り合いができたら絶対に着せちゃおうって思ってたのよね! 念願叶ったわー」
リビングに行くと、すぐに気づいたエンジュが手放しに褒めてくれた。今ひとつ自信が持てなかった香月は、エンジュのその反応に勇気づけられた。それから、コウの顔つきにも。
モコモコルームウェア姿の香月を見て、コウは驚いたように目を見開いた。そのあと、驚いた表情のまま顔を赤らめている。それを見て、香月のコウに対する黒い感情が薄れた。
「じゃあ、そろったところでいただきましょうか」
「おー」
「はい」
香月が食卓についたところで、食べ始めることになった。
テーブルに並んでいるのは、こんがり焼けたローストビーフ、トマトが鮮やかなカプレーゼ、湯気の立ち上るチーズフォンデュだ。それから、チーズフォンデュ用にパンや野菜、ウィンナーやキノコもほどよい大きさに切って用意してある。
「ナスがおすすめでござる」
「え?」
どれから食べようか目移りしていると、いつの間にかテーブルに上っていたらしいヨイチが声をかけてきた。チーズフォンデュ用の具材の皿には、確かに表面を軽く焼いたナスもある。
ナスとチーズの組み合わせは美味しいと思う。けれども、ヨイチの前では何となく食べづらい。
「あ、あとでいただくね」
ヨイチの熱心な視線から逃れ、香月は無難にパンをピックに刺してチーズにくぐらせてみた。熱々のそれを恐る恐る口に運んでみると、濃いチーズの香りが口いっぱいに広がって、幸せな気持ちになった。
「コウくん、お肉ばっかり食べちゃだめだよ。野菜も食べなきゃ」
後ろ足で背伸びしたパステルが、ぷるぷるしながらコウのそばに立って指図している。
「トマトは香月にやるよ。女子は肉よりトマトが好きだろ」
「何、その決めつけ。コウくん、悪い子」
「女はトマトで美肌になるし、男は肉ででっかくなるんだよ」
パステルとコウのそんなやりとりを横目に、香月はピックに様々なものを刺して黙々とチーズフォンデュを楽しんでいた。肉も好きだけれど、今はチーズフォンデュだけで大満足だ。
(女子は肉よりトマトが好き……?)
エンジュがチーズフォンデュやローストビーフに目もくれず、バケットにカプレーゼを乗せて食べているのを見て、香月はコウの言葉を反芻した。そして、同じテーブルについているのに各々好きなものを食べているこの不思議な食卓の心地よさをしみじみと噛みしめた。
「さあ、美味しいものを食べてひと心地ついたところで、改めて挨拶しましょうか。香月、ようこそ『魔法屋 オカマジョ』へ。見ての通り、アタシはオカマよ。だから、他人からツッコまれる前に店名にして自分から明かしてるってわけ。それと、アタシの名前はエンジュ。本名の#遠藤寿_えんどうひさし_#からつけたんだけど、遠藤さんとか寿さんとか呼んだら拳骨だから覚えておきなさい」
食事があらかた済むと、エンジュが流れるようにそう言った。第一印象からそうだったけれど、この人はよくしゃべる。その淀みないしゃべりに、香月は少し気圧される。
「俺は武島コウ。エンジュさんの弟子として俺のほうが先輩なんだからな」
コウの自己紹介は相変わらずフレンドリーではないけれど、最初のような感じの悪さはなくなっていた。
「川本香月です。あの……よろしくお願いします」
緊張しつつも、香月はペコリと頭を下げた。この場に受け入れられたいという思いが、素直にそうさせた。
「ここは魔法屋という名前の通り、魔法を売りにしている店よ。そして、アタシは魔女。それは理解してここに来てるわよね?」
真剣な眼差しで問われ、香月は頷いた。
魔法をなりわいにしていることも、エンジュが魔女であることも、すべて承知でここに来ている。というより、だからこそここへ来たのだ。
「ということは、自分が何なのかもわかっているのよね?」
「……私もエンジュさんと同じ、魔女です」
口にしてみるのは初めてのことだったけれど、声に出すとストンと落ちた。はまるべきものがはまるべき場所にはまったという、そんな感覚だ。
「そう。アタシも、あんたも、コウも、全員“魔女”なの。あんたたちの場合は、その素質があるといった感じ。それで、アタシの元で修行するってことね」
意志確認をするように見つめられ、香月は再び頷いた。コウもコクコクと頷いている。
そんな二人の様子を見て、エンジュも深く頷く。
「あんたたちに魔女になる意思があることがわかったところで、改めて言っておくわね。――アタシたちは、普通の人間とは違う。見た目に大した差異はないけど、違うのはわかるわね? だから、あまり感情を高ぶらせないこと。特に悪感情は。……今日の山での気味の悪い空気は、香月の悪感情が引き寄せたものだから。そのこと、よく覚えておきなさい」
「…………はい」
あれは、そういうものだったのかと合点がいって、香月の背筋に寒いものが走った。
良いものも悪いものも、自然の中で何かを感じることは多かったけれど、その気味の悪いものを自分で呼び寄せてしまうこともあると知って怖くなった。
「アタシに弟子入りするのなら、三つ守ってもらうことがあるわ。ひとつは、健康な身体でいること。ふたつめは、健全な精神を宿すこと。最後は、人間を知り、人間社会に溶け込む努力をすること。わかった?」
エンジュの問いかけは、試しているのだと香月はわかった。だから、素直に頷く。それに、反発する理由もなかった。
「健康な身体でいることは、魔法を使う上でとても大事なことなの。健康な精神を宿すこともね。心身ともに健康でなければ、正しく魔法は使えないし、魔法に飲まれてしまうこともある。だから、よく食べよく眠り、日々適度に身体を動かし、心の中に澱を溜めないことが大切ってわけ。アタシのもとで暮らすからには、食事を抜いたり昼夜逆転したりっていう不健康なことは許さないんだからね」
「はい」
「それと、人間を知り人間社会に溶け込む努力をすることっていうのは、生きていくためよ。この世界は、異物とみなしたものを排除するようにできている。だからアタシたちは、せいぜい『ちょっと不思議な力がある人』くらいの立ち位置で生きていくのよ。人間を知り、人間社会に溶け込む努力をして、人間の敵ではないと常にアピールしながら生きていくの」
“人間の敵ではない”という部分で、香月は少し引っかかりを覚えていた。
人間を知り、人間社会に溶け込む努力が必要なのはわかる。学校という狭い社会で生きてきて、それは嫌というほど気をつけていた。肌で感じて、人と違うことを気取られてはいけないと早々に悟っていた。魔女でなかったとしても、周囲から浮けば攻撃の対象になるのが人間の社会なのだから。
だから、その部分には素直に頷くことができる。
でも、“人間の敵ではない”という部分には、ちょっと自信が持てなかった。
(私のしたいことって、人間の敵になることなのかな? ……でも、あいつらのほうがおかしいんだもん。あんなことするやつらのほうがよほど人間じゃないから、別に大丈夫か)
少しの間考えて、香月はそう結論づけた。
「わかりました。精一杯努力します。これから、よろしくお願いします」
微笑みを浮かべて、香月はエンジュを、それからコウを見つめた。
それを見て、二人が安堵したような表情を浮かべる。受け入れられたということなのだろう。それがわかって、香月もほっとする。
こうして、香月の新しい日々が始まった。魔女の弟子としての、新しい生活が。
(今度こそ、私は成し遂げる)