2-4 独りぼっちになる前に
――気のせい、なのか。
気のせいだったのか、今はなんともない。
いつもと何ら変わりのない、植物を愛す緑色の心、くるっと回転するヘアスタイル、食事を欲すお腹もそろそろ我慢の限界だ。
状況を呑み込みにくい軌道は今一度車内を見渡し、真っ黒な車窓を指でなぞる。そしてもう一度、ぽかんとした頭を横に傾けた。
軌道は突如現れた魔の手に導かれた――はずだったが、今となっては何もかもがうやむやに消えてしまった。何故なら『そんな形跡がどこにもなかった』からだ。
勝手にドアが開き、何かに手を引かれた軌道は流されるままに9号車へと引っ張られていった。安堵があったのは、きっとイスルギがため息を溢していたからだろう。少なくともあの表情から、命の危機を感じさせるような状況は読み取れない。
ただ、確かに軌道は『魔の手』の存在を認知できた。なのに何故、目の前に異変は『何もない』というのか。
「…………?」
車両は先ほどイスルギと話していた8号車と同型と見られ、黒い窓も椅子の手入れ具合なんかまで、あらゆる箇所が酷似していた。
さっきと決定的に違うのは、全体的な色彩と乗客の有無くらいだろう。
『魔の手』に袖を引かれた軌道は、多少なりともイスルギ以外の存在を期待していたのだ。本当の理由は別にあったが、何しろ銃や刀が怖い。
――実のところ軌道は、まともな人に会いたかった。
擬人はイスルギの他にもマギナと、おそらくさっきの『風』を見てきたが、このままでは擬人はもれなく変なやつだというレッテルが成立してしまうのだ。
まだ地下に何の身寄りも持たない軌道にとって、普通に話し合える人材は喉から手が出るほど欲しい。
しかし欲すれば欲するだけ徹郎のにやにやが脳裏をちらつくので、一応我慢してはいた。
ただ、そろそろ本気の気持ちにもなってくる。
だからこそ軌道を助けてくれた『金髪車掌』に会うために、こうして奥を目指しているのだ。
あの娘はきっとまともだ。いやそうであってほしい。いやいや、そうだ。もう、そうなんだ。もうそろそろ、そうだと確定してもいいんじゃないかな。
「頭髪フェチに武器フェチ、『風』は……あー、まぁ多分なんかのフェチなんだろう」
今までの記憶を脳内で追体験しつつ、軌道は暗闇を映す窓を息で曇らせる。そのままの流れで『8号車には豪奢なハチがいる』とつまらない冗談を書いてため息、またうっすらと窓は白に染まった。ついでに、『梶原軌道』とサインも入れてやる。
「サインか……マルチソルジャーの履歴書にも備考欄に描いてやったが、何故か上司の反応は良くなかったな」
エレガントを貫くバラの花弁と刺々しい棘を象ったサインはなかなかの自信作だ。
中二病真っ盛りの時期に考案していただけに、まだ中二病から抜けきっていない軌道からすれば、そのデザインは普通にカッコいいと言える代物だった。
後で上司から聞いた話だが、その履歴書に描いたサインがきっかけで徹郎を含めた社員会議まで実施され、悩みに悩みまくった結果最後には圧倒的な実力を重視され、結局軌道は会社に受かる事となる。
今でこそわかる伏線の言えるが、これがあったから徹郎は軌道に興味を示しており、履歴書も社長室に保管されていたのかもしれない。
もう細切れにされた履歴書は軌道がマルチソルジャーから脱退した事実を色濃く物語っているが、何度も自覚している通り軌道は徹郎の新たな作成の一部となってしまっている。
だから地下にやって来て、こんな孤独な気持ちになっているのだ。
頭を抱えてやれやれしていると、自分の体がドアの前に移動していることと――この車両の全ての窓にありったけ描かれた『梶原軌道』のサインに目を奪われた。無意識で、ここまで。
思えば、このサインを見て反応してくれる人は凄く少なかったように感じる。何故だろう、こんなにカッコいいのに。
もはや自分は、人に解ってもらうことは出来ないのだろうか――。
「!? この、気配は――まさか!」
そんな孤独な気持ちは、次の瞬間にかき消えた。
何故ならば、そう、軌道が『その心』を感じ取ったからに他ならない。
場所は車両と車両を隔てるドア、気配はその向こう側から。
「匂う……これはツタ! そしてガーベラ、ヒマワリ! スミレもあるんじゃないかっ!? 他の種も膨大に……! 素晴らしい、さいっこうだ! 温度管理で季節毎の花を揃えていると見たぜぇ! ひゃっほほほーい!」
『ある時、地底列車に乗る機会を得てね。暫くは中を探索しながら地下を移動したが……これがびっくり。なんと車両の一室は自然と植物で満たされていて、僕は快適な列車の旅を楽しむことができたのさ』
もう随分前な気がする記憶を思い出し、軌道は舞い上がる。
脳内で徹郎の言葉を称賛し、徹郎自体にはデコピンして空までぶっ飛ばして僅かに残った孤独心を紛らわせる。
軌道はすぐさまドアに手を伸ばし、一も二もなく車両の先へ消えていった。
――その直後、驚きと歓喜を纏った軌道の声が列車中へと響き渡った。