6月6日(つづき6)
もう一人の転校生・日高の1日が始まる。
雨の残る朝。転校2日目の日高海里は、早くから登校して、始業前に坂道を上って第2グランドに来た。ここは、昼過ぎまで子どもたちに占拠される。隣接する真行院みほとけ幼稚園の園庭として使われるのだ。8時過ぎでは園児もまだちらほら、それでも、水たまりに長グツでダイブしたりして、幼い歓声が上がっている。
仏教系の幼稚園と聞くと、なにやら抹香くさい印象がないだろうか?クリスマスの代わりに花祭りとかやっていそうな、お弁当の前に念仏してそうな、ちょっと時代遅れな感じが。みほとけ幼稚園は真行院の付属だが、小・中学校がないため進学の助けにはまったくならない。そんなこんなで、せっかく良い環境にありながら、いつも定員割れしているらしい。
しかし、日高はここで楽しい2年間を過ごした。なぜなら、目の見えない彼を受け入れてくれる幼稚園が他になかったから。そして、11年後、彼は再び真行院に戻ってきた。やはり、彼を受け入れる普通高校が他にない、という理由で。
みほとけ幼稚園の思い出にしばらく浸った後、日高は3年C組の教室でその日の予習にかかった。もちろん、家で予習はしているが、それでもまだ周到に予習する。彼の教科書は点字テキストで、教師が板書する内容や配布されるプリント類もすべて、あらかじめ点訳されている。それらはたいへんなボリュームで、とにかく日高はそれを指で読まねばならないのだ。いかに学業に自信があっても、目の見える生徒たちの中でただ一人見えないのは、巨大なハンデキャップに違いない。
「おはよう、日高、早いね。」
と、明石が声をかけるのは、義務感でも使命感でもない、彼女の真に他人を思いやる心によるものだ。
「ふーん、それ、テキスト?たいへんそうやな。」
明石は心底そう思っているのに、それでも日高は反撃する。
「同情はいらんよ。負けへん言うたやろ?」
すました表情で、ポーンと投げつけるように。明石はちょっと切なくなる。そんな時は、わずかに目を伏せておなかの中にすべて収める。それでいい。と、思ったとたんに、明石の頭越しに、
「友だちもいらないのか?」
と、冷ややかな、突き放すようなイントネーションはアブリール独特のものだ。
明石は、窓ガラスに目を向ける。残り雨はまた本降りになりそうだった。