駅伝のおしまい 6月6日
高校陸上のスーパースターがやってきた。進学校のランナーたちが、今、走り出す。
駅伝のおしまい
駅伝は、ウェットなスポーツだ。たすきをつなぐ、というのが理由かもしれない。汗と涙がしみこんだたすきは、たしかに湿っている。
師走の都大路を駆け抜ける、全国高校駅伝男子大会が行われたクリスマスの午後には、雨まで降っていた。我らが大阪代表・真行院高校のアンカー、茨木直倫は、トラック勝負を挑むために氷雨降る西京極スタジアムに戻ってきた。
6m前には前年度優勝の横浜海風高校主将、沢口サトシがいる。
汗と涙と雨と。茨木と沢口は、そんな湿度の高いトラックで、壮絶な駆けっこを演じることになる。
駅伝のおしまいは、関係のない者までが涙目になってしまうほどに、ウェットなのだ。
6月6日
たかが駆けっこ、されど駆けっこ。
その長い道のりは、1999年6月6日、奇しくも同じ日に2人の転校生がやってきたことで始まった。6月6日は、雨ザーザー。
真新しい制服を濡らして、逢坂飛天は校門に向かう坂を上っている。傘を傾けても雨粒は降りこむ。足取りは重い。逢坂飛天は、彼の新しい学校が気に入らない。仏教系の進学校。共学になったばかりで、女子は全生徒の2割に満たない。トラッドな制服の胸には、蓮の花をあしらったエンブレム。ご丁寧に漢字で「真行院」と刺繍してある。
そのうえ、お数珠。左手首に水晶のお数珠を巻けというのだ。いろいろと納得できないままに、正門をくぐり、校長室職員室を経て、指示されたとおりに2年A組の教室にたどり着いた。始業を待つ教室は騒がしい。みんながしゃべっている。大阪弁で。これも、逢坂は気に入らない。通学の路面電車の車体全面に、「のりたま」の広告がついているのも気に入らない。
窓を打つ雨の矢をぼんやり眺めていると、突然その視界にわざと、しかも無遠慮に入り込んできたもの。誰かの左手。数珠を巻いている、細い手首。指も細くて可愛らしいが、逢坂の机にぴしゃりと置かれたその手には、無礼を承知のふてぶてしさがあった。
「初めまして、逢坂くん。」
声につられて視線を上げると、夏服の白い半そでシャツに包まれた優しい肩の線、そのあたりでチョキンと切られた真っすぐの黒い髪が揺れている。
「逢坂くん。駅伝部に入るんか?」
奇妙な抑揚が、どこか古風な印象を与えるが、これは大阪弁にすぎない。
「君、誰?」
逢坂の反射的な問いに、闇のような黒い瞳が見つめ返す。
「ヒメサクヤ」
何だ、それ?名前か?逢坂の思考回路は支障をきたすが、ヒメサクヤの大阪弁は意に介さない。
「それとも、陸上部でトラックだけ走るんか?」
逢坂は、相手の顔を意図的に見上げた。好感は持てない。
「で、君は?君は駅伝部なんだ?」
けれど、ヒメサクヤは問いには応じず、前の席に後ろ向きに座り、逢坂の机に肘をついた。
「ウチの駅伝部ね、今年は全国に行けそうなんや。」
創立90年の歴史を刻む名門校の、古木茂れる校舎の陰に棲みついた、何か怪しい狐の化けたみたいな少年は、横浜から来た転校生を翻弄していた。
逢坂飛天は、高校長距離界のスーパースターだ。五千m一万mの高校記録を持ち、昨年の全国高校駅伝では、花の1区を区間新記録で走破して横浜海風高校を優勝に導いた。その彼が、父親の転勤に際し大阪に転校を決めた時、それは、駅伝をやめることだと気づいていたはず。なぜなら、強豪・横浜海風を後にした今、彼にはもう共に走る仲間はいないのだから。
逢坂は駅伝が好きだった。彼は、トラックも走るし駅伝も走る。トラックの練習というよりも、駅伝そのものが好きだった。だからこそ、共に走る仲間は重要だ。たすきをつなぐのは心をつなぐことなのだから。
「逢坂くんが入ってくれなくても、ぼくらは全国に行けるんや。」
と、ヒメサクヤは言い放った。と、同時に予鈴が鳴り、サクヤはさっと身をひるがえして自分の席に戻ってしまった。
駅伝部がある。全国に行けるかもしれない駅伝部が。それなのに、いきなり門前払いか。まだ、門を叩いてさえいないのに。
1時間目は古典。派手目の美人先生の平家物語の授業を聞きながら、逢坂は、こみ上げてくる不快感をなだめつつ、記憶の折じわの間から真行院という名前を引っぱり出そうとしている。そういえば、去年の大阪の予選で2位だったはず。3㎞の短い区間でとんでもない区間新を出していたので話題になってた。そのランナーの名前も憶えている。たしか、カタカナの名前の、ハーフみたいな・・・何だっけ・・ア、アブなんとか。
神矢アブリール。
逢坂が思い出したかったのは、3年C組の神矢アブリールだった。3-Cは数学の授業中。奇しくも同じ日に転入してきたもう一人の転校生・日高海里は、この教室にいた。
アブリールにとっても、逢坂こそが気になる転校生のはずだった。駅伝部に誘うことになるかもしれないし。それなのに、今、現在のところ、彼は日高でいっぱいいっぱいだった。
初めての作品です。ぼちぼち書いていきますので、よろしければ読んでください。