まなざしはゆらゆらと揺れて
「眼球って硬いの。知ってる?」
閑散とした大講義室で、取れてしまったワイシャツのボタンを縫い付けながら篠塚燈火は私に問い掛けた。彼女の手にあるワイシャツはついさっきまで私が着ていたもので、いくら暖房が効いているとはいえ十二月の気温は肌寒い。素肌の上にスーツジャケットを着る気にはなれず、私は膝掛け用のブランケットを被ってボタンが付け終わるのを待っていた。
「知ってるよ。高校生のとき、豚の眼球を鋏で切ったことがある」
眼球から取り出した水晶体が綺麗だったことを今でも鮮明に思い出すことができた。小指の先くらいの大きさをした透き通ったそれは、新聞紙に落とすと拡大鏡のごとく文字を大きくしてくれた。
「貴重な体験ね」
「そうかもね」
確かに授業の一環で豚の眼球を解剖したという話は、それぞれ別の高校に行ったふたりの姉から聞いたことはなかった。
「動物愛護団体から苦情の電話が入るらしいわ」
「へえ。どうやって調べてるんだろう」
「あなたみたいにそういう授業を受けたという話を集めてるんじゃない?」
「なるほど」
私は彼女の手元を見ながら、あの硬い眼球のことを思い出していた。
■
あのときの授業はいつもより騒がしかった。
いつも教室で行われていた生物の授業が、その日はめずらしく生物室で行われることになった。冬の寒い廊下を歩きながら私たちは移動教室の理由を口々に言いあっていた。
教室に着くと「検体キット」と書かれた白い箱がいくつも教壇に置かれていた。それを横目に見ながら私たちは出席番号順に割り振られた実験台の席に着いた。チャイムが鳴り、クラス委員長の「起立、礼、着席」という声を聞きながら、なかば無意識にそれらをこなした。
「今日は豚の目を解剖してもらいます」
先生は前置きすることなくそう言った。私たちは状況をよく呑み込むことができずきょとんとしていたと思う。
「では、ゴム手袋とキットを配るので、各班ふたりずつ取りに来てください」
戸惑いながら私たちはそのふたりを決めるためじゃんけんをした。その結果、私と対面に座っている眼鏡をかけた男子生徒――確か、櫛引と呼ばれていた気がする――が取りに行くことになった。
普段接点のない私たちは無言で教壇へ向かい、無言のまま櫛引がキットを、私が手袋を持つことになった。
「ねえ、重い?」
「……いや、軽い」
話しかけられたことに驚いたのか、彼はひと呼吸置いてから答えた。
「そっか。まあ、目玉だしね」
「驚かないんだな」
「まだ現物見てないしね」
「それもそうか」
そんな会話を交わしながら再び席に着いた。
周囲からざわめきが聞こえ、それは私の班でも同じだった。
「本当に眼球なのかな」
「俺たちを驚かせようとしてるだけかも」
「でも、あの先生ってそんなことする」
「さー?」
私はその会話には加わらず、じっと「検体キット」の文字を見つめていた。もし、この箱の中にぎゅうぎゅうに眼球が押し込められていたら、私は卒倒するだろう。けれどそれがひとつだけだったら、冷静でいられるような気がした。
「これから鋏を配りますが、とても良く切れるものなので気をつけてください」
キットと手袋が行き渡ったのを確認して、先生は各班を回り鋏を配り始めた。配られた鋏のその鋭利な切っ先を見て、私たちはこれから本当に眼球の解剖をするのだということを思い知らされた。
先生は教壇に戻り、いつもより緊張した面持ちで言った。
「これからすることは遊びではありません。豚の眼球を解剖する機会は、文系クラスのあなたたちには今後ないでしょう。ぜひ真剣に取り組んで、学んでほしいと思います」
何人かが無言で頷くのが見えた。
「では、説明しながら解剖を進めていくので、みなさん手袋をしてください。それができたら箱を開けて眼球を取り出してください」
私たちは無言で手袋をはめ、櫛引が箱を開けた。眼球はひとつだけだった。
「誰がやる?」
櫛引の隣の女子生徒が言った。鋏はひとつだけで、眼球もひとつだけ。誰かひとりしかそれを切ることはできなかった。四人グループの私たちは各々目配せをした。
「やっても良い?」
そう私が言うと一様に安堵したような雰囲気になった。
櫛引が箱ごと眼球を寄越す。彼の表情には他の人とは違って嫌悪感のようなものは滲んでおらず、ただ事務的にそうしたようだった。私が箱を受け取り、中から眼球を取り出すと、それを待っていたかのように先生が話し始めた。
「まずは眼球の周りに付いている肉片を取っていきましょう」
そう言って先生は教室の隅にあるモニターの電源を入れ、手元をカメラで映しながら鋏とピンセットを使って器用にピンク色の肉を剥ぎ取り始めた。
「黒目の裏にある視神経は切り取らないように」
先生はあっという間に目玉を白色のつるっとした姿にして、それをカメラの前でころころと手の中で転がして見せた。それはまさに普段私たちが想像するような「眼球」そのものだった。
私も見よう見まねで肉を断ち、ピンセットで引っ張って取り除こうとするのだが、これが案外難しい。あちこちの班から悲鳴が上がる。眼球が滑って飛んだらしい。
薄いゴムの手袋越しに眼球と肉の感触が伝わり、背中がぞわりとする。けれど、豚肉なんて食べなれたものだ。しかしそれでも恐怖が押し寄せてくるのは、死んでいるはずのこの眼球からまなざしを感じるせいだった。
先生よりもはるかに時間をかけて私たちは肉片を取り除いた。作業中に先生はその肉片が眼筋であることを教えてくれた。
「取り終わりましたか? 終わったら眼球をシャーレに入れてみなさんで観察してみてください」
キットの中からシャーレを出して眼球を乗せると、視神経を中心に止まりかけの駒みたいに転がった。それが妙に愛らしく思えて笑みがこぼれそうになったけれど、それをどうにか引っ込めた。
観察している間、先生は黒板に眼球の模式図を描いていた。私たちは眼球を中心にして感想を言い合った。
「気持ち悪くないの?」
櫛引が私に問い掛けると、他のふたりも私を見た。
「豚肉ならいつも食べてるでしょ」
そう答えると櫛引以外のふたりは私に軽蔑するようなまなざしを向けた。けれどそれは豚の眼球が放つものよりも弱々しく感じた。
「冗談だよ」
そんなつもりは全くなかったけれど、苦笑いをつくってそう言うと空気が少しだけ弛緩した。
「こちらを見てください」
模式図を描き終えた先生が呼びかける。黒板に描かれた眼球の断面図はとても大きくて、あれだけの眼球があれば何でも見えそうだと思った。
注目が集まったのを確認して、先生が黒板を指さしながら解説を始めた。私はそれを聞きながら、目を擦るふりをして自分の眼球を確かめた。軽く力を込めると眼球は奥に引っ込んで、それ以上の力を加えれば失明かそれ以上の惨事が起こることが簡単に想像できた。
「……これから眼球を半分に割りますが、強膜の部分は硬いのでできれば男子にやってもらいたいと思います」
目の仕組みの説明を終えると先生はそう言った。すっかり自分でやるつもりでいた私は拍子抜けしてしまった。
「どうする?」
櫛引がもうひとりの男子生徒と話し合う。男子生徒はちらちらとこちらを見ていたが、私がやるとも言いにくい雰囲気だった。
「……俺がやるよ」
ため息を吐いて、櫛引は言った。男子生徒はほっとしたようで、隣にいる私にまで伝わっていた緊張がほどけるのがわかった。
「決まりましたか?」
呼びかけると各班からそれぞれ返事があった。私の班は櫛引が「はい」と短く答えた。
「とりあえず強膜に穴が開けばあとは簡単なのでがんばりましょう」
そう言って先生は再びカメラの前で眼球を解剖し始めた。
鋭く尖った鋏の先端を使い、小さく切れ目を入れる。その切れ目に少しずつ鋏を潜らせて切り進めていく。その光景は小学生のころに図工の授業でペットボトルを解体したことを思い出させた。
「滑るので無理に力を入れないようにしてください。見ての通り先端が尖っていますから」
半分になった眼球の中身がモニターに映る。それはまるで墨汁で満たされていたかのように真っ黒で、悪いものばかりを見てきたのだろうかと思った。
「じゃあ、やるよ」
櫛引の声が聞こえて、モニターに釘付けになっていた私ははっとして実験台に身体を向けた。
刃先が小さく開いた鋏が眼球の表面に触れ、櫛引が力を入れて切れ込みを入れようとしたとき、眼球が彼の左手から滑り落ちた。それは少しだけ跳ねてから転がり、視神経を支えにして私を見つめた。
そのような状況になった班がいくつかあったようで、あちこちから男子生徒の笑い声や女子生徒の悲鳴や罵倒が聞こえてきた。
「悪い」
櫛引はそう言って詫びた。私の隣に座っていた男子生徒は音を立てながら椅子を引き、眼球から距離を取ろうとしていた。
「大丈夫」
気にしないでというように私が首を振ると、櫛引が眼球を拾い上げようとしたのでそれを制止した。
「私がやっても良い?」
視線が集まる。関心がなさそうに振舞っていた女子生徒は怪訝そうに、男子生徒は気味が悪そうに、櫛引は呆れたように、それぞれが違った顔をしていた。
「できなかったらすぐ代わってもらうから」
そう言うと櫛引はあっさりと鋏をこちらに手渡してきた。
「ありがとう」
鋏を受け取って、私を見つめる眼球を拾い上げた。改めて触ってみるとそれはとても小さく感じた。
先ほどの櫛引と同じように鋏を眼球に当てる。弾力があり刃先が少しだけ沈んだ。何度かそれを繰り返してから、鋏を細かく開閉する動きを確認した。ふと、父親と一緒にプラモデルを作ったときの記憶が蘇る。プラスチックのパーツを切り離すのに使ったニッパーの感触を思い出しながら、眼球に押し当てた刃先を閉じた。手に切断した感覚が伝わる。そのまま私はもう一度刃先を開き、穿った穴を切り開いた。そこからは簡単だった。私が持っているどの鋏よりも切れ味の良いそれは、いとも簡単に眼球を真っ二つにしてみせた。
シャーレに半球となった眼球を置き、みんなに見える位置にそれを滑らせた。男子生徒はなるべく見ないように顔を伏せてしまっていた。
「うわ、黒っ」
女子生徒が面白そうに言い、指で突いて遊び始めた。
「これ水?」
「ガラス体じゃないかな」
「何それ」
「さっき先生が説明してただろ」
女子生徒と櫛引が話しているのを聞きながら、私は視神経の付いていない前半部を観察していた。水晶体のあるそれは真ん中だけぽっかりと穴が開いたように向こう側が透けて見えていた。
「君たちの班は手際が良いね」
いつの間にか近寄ってきていた先生が私たちに話しかけてきた。私たちはその評価に曖昧な笑みで答えた。眼球の解体が手早いだなんて、あまり外聞が良くないと思ったからだ。
「じゃあ、これ」
先生は私たちにピンセットと一枚の新聞紙を渡した。
「水晶体、その透明なやつ、それをピンセットで取って新聞紙に置いてみて」
そう指示をすると先生は他の班の様子を見て回った。
■
「水晶体ってお湯に入れるとどうなるか知ってる?」
退屈になって私は燈火に話し掛けた。ボタン付けは終盤を迎えたようで、糸をボタンと布の間で数回巻き付けていた。
燈火は手を止めず答えた。
「白く濁るんでしょう」
「なんだ知ってるのか」
もしかしたら彼女も似たような授業を受けたことがあるのかもしれない。
小さな糸切り鋏を使って余分な糸を切り取り、シャツを広げて燈火は仕上がりを確認した。
「できた」
嬉しそうに微笑みながら燈火はそう言って私にシャツを手渡してくれた。
「ありがとう。上手だね」
ブランケットを机に置いて着てみると、ボタンはしっかりと元通りに付いていた。私がボタン付けをすると、ボタンが布とが余裕なくくっ付いて使い物にならないのだ。
「どういたしまして」
ソーイングセットをしまいながら燈火は言った。
私はもう着られないと思ったシャツが直ったことが嬉しくて、燈火が付けたボタンを何度も触っていた。そうしていると、ボタンの円形と四つ穴を通ってクロスした糸が目玉のように思えた。
「ボタンって目玉みたいに思わない?」
私は思ったことをそのまま燈火に投げ掛けた。
「そう感じるのはそういう会話の後だからよ」
彼女はつまらなそうに答えた。
「そっか」
「そうよ」
会話はそれきり途絶えて、燈火は私がこの教室に入ってきた時と同じように読書を再開させた。
■
「ねえ」
授業が終わり生物室を出たところで櫛引から声を掛けられた。
「何?」
ゴム手袋がなかなか外れずなかったせいで退出が遅れた私の後ろからは誰も来ず、こうして私と櫛引が立ち話を見ている人はいない。前方を歩く人たちからは興奮した様子が大きな話声とともに伝わってきた。
「冗談じゃなかったでしょ?」
「何が?」
彼が何を言っているのか分からなかった。
「だから、気持ち悪くないのかって聞いたら、いつも食べてるから何でもないって言っただろ。そのあと冗談だって言ったけど、冗談じゃなかっただろ」
察しの悪い私に苛立っているのか櫛引は語尾を荒げた。
「ああ、それ。うん、冗談じゃないよ。でもあの時そうでも言わないと空気最悪だったでしょ」
早口で捲し立て、この話はこれで終わりと示すように私は早足で櫛引の前を通り抜けた。すると櫛引もすぐに追って来て私の横に並んだ。
「まだ何かあるの?」
うんざりしたように言うと、櫛引は「ある」と答えた。私は聞こえよがしにため息を吐いた。
「教室に着くまでなら付き合ってあげる」
そう言って私は歩調を緩めた。
「あ、ありがとう」
取り合ってもらえると思っていなかったのか、櫛引は礼を言って考え込んでしまった。
「早くしないと着いちゃうよ」
急かすと彼はようやく口を開いた。
「本当に何も思わなかったのか?」
「眼球を見て?」
「ああ」
気持ち悪いとは思わなかった。けれど、「何も思わなかったのか」と問われると肯定する気にはなれなかった。
「感動した……とはちょっと違うか。でもそうだなあ、初めてのことって楽しみじゃない? だから何も思わなかったわけじゃないよ。ただそれが負の感情じゃなかっただけ」
実際に眼球を前にした時の嫌悪感は教室中から吹き上がっていた。面白がっているように振舞っているのに、誰も積極的に触れようとはしない。怖くなんてないとうそぶきながら、他人に押しつけようとする。それは奉られつつ遠ざけられている神様みたいだった。
「プラスな感情だったってこと?」
櫛引は不思議そうに眼鏡の弦を触って位置を直した。
「それも難しいね。ただ嫌ではなかった。それだけ。実際に豚肉は調理もするし、食べているわけだし」
「そこなんだよ。俺はしばらく豚肉は食べられなさそうだ」
悲しそうに彼は首を振るけれど、意外と明日には何でもないように豚肉の生姜焼きを食べていたりするものだと思っていた。
「かわいそうに」
表面上だけ同情して見せて、私は会話を切り上げることにした。
「ごめんね。教室までって約束だったけど、私お手洗いに行くから」
そう言って私は女子トイレに飛び込んだ。
櫛引の足音がトイレの前を過ぎて行くのを確認して、私は洗面台の前に立ち鏡を覗き見た。
いつも見ている顔がそこには映っていて、眼球はしっかりと眼窩に収まっていた。視線だけを動かして動作の確認をする。ちゃんと動く。それなのに不安は拭い去れなかった。
――あの解剖した眼球は、たまたま私の物ではなかっただけだ。
いつの間にか私は洗面台の縁を強く握りっていた。その力をなかなか抜くことができず、ようやく手を離すと震えが止まらなかった。その指は硬直して、洗面台を掴んだ形のまま曲がっている。
手を持ち上げて顔の前で祈るように組むとゴムのにおいが微かにした。
しばらくそうしていると授業開始を告げるチャイムが鳴った。その音を聞きながら、私は組んだままの両手を解いた。指が痛んだが、もう震えてはいなかった。
もう一度、鏡を見る。いつもよりも白くなった顔が映っていた。顔色が悪いことを自覚すると体調が段々と悪くなってくるような気がして、このまま授業を欠席して保健室に向かうことに決めた。
トイレ出て辺りを伺うと、生物室の戸締りをしている先生の後ろ姿が見えた。鍵を閉めた先生が白衣を翻してこちらに気づいて首を傾げる。急ぐでもなく、こちらに歩み寄ってきて声を掛けてきた。
「どうしたの? もしかして気分でも悪くなっちゃった?」
血色の失せた顔を見て先生は心配そうに言った。
「そういうわけでは……」
私は何と言えば良いのか分からず、言葉を濁すことしかできなかった。
「本当に? でも顔色悪いから保健室行こう」
私の背に軽く手を当てて促す。それに従って私は歩き出した。
「さっきの解剖、あなたがやったでしょう?」
先生は前を向いたまま言った。指示に背いたことを責めるのではなく、ただの確認といった口調だった。
「はい」
「たまたま見てただけなんだけどね。手際が良かったから驚いた」
「そんなことないです」
先生は「そうかな」と言って笑った。それからしばらく会話が途切れて、私は窓の向こうを見た。快晴の空が広がっていて、雪が降るような天気ではなかった。それでも暖房のない廊下は冷え切っていて、私たちは白い息を吐きながら歩いた。
生物室のある階から保健室に行くには階段を下りる必要があり、その階段に差し掛かったところで私はついさっきまで抱いていた恐怖について話した。
■
「私、あの実験が怖かったのかもしれない。豚の眼球やそれを切り刻むことかが怖かったわけじゃない。けどそれが私の眼球である可能性が怖かった」
ただの妄想だけどと付け加えて私は唇だけで不自然に笑った。そんな私の表情など知らず、燈火は本のページを捲り読書を続けている。私は小さく息を吐いた。
「ちょっと気になったんだけど」
燈火は本から目を離さずに言った。
「え? 何?」
まさか相手をしてくれるとは思わず、私の声は上擦った。
「さっき、あなたはボタンが目みたいだって言ったわよね?」
「言った、かな」
緊張してついさっきのはずの会話が思い出せない。
「……もし本当にそう思ったのなら、不思議よね」
「どうして?」
訝しげに眉を顰める燈火と目が合う。彼女は紐栞を下ろして本を閉じた。
「私から目の話を始めたの、忘れちゃった?」
私は視線を上にして思い出そうとした。それからようやく燈火の台詞を思い出して、「そういえばそうだったね」と言って笑った。
「ボタンを付けながらね、私も目に似てるなって思って。だからあんなことを言ったの」
「そうなんだ」
面白そうに笑う私とは対照的に燈火の表情は暗かった。
「どうしたの?」
その表情の意味するところが分からず、私は狼狽えてしまう。
「あまり思い出したくないことを思い出させてしまったようだから……」
申し訳なさそうに燈火は言った。
「そうかも知れないけど、ボタン付けてくれたから許すよ」
私は恥ずかしそうに笑って付けてもらったボタンを覗き見る。胸元のそれを見るには息苦しくなるくらいに首を曲げる必要があった。白濁した貝殻の内側のような色をしたプラスチックのボタンが縫い止められている。
脳裏に、豚の眼球が黒目を向けてこちらに転がってくるイメージが再生された。そこに私は針を突き立てる。硬いはずの眼球がいとも容易く破れて黒い液体を撒き散らした。海難事故で重油が流出した海のような場所に、ひとつ透き通ったものを見つけた。
「あのさ」
その声は少しだけ大きくなってしまい、燈火の肩をびくりと震わせた。
「……何?」
怯えたように燈火は言った。私は慌てて「ごめん」と謝って言葉を続けた。
「私に、ボタンの付け方教えてくれない?」
燈火は目をしばたたかせて、その視線に私の顔は熱を帯びてきた。きっと彼女の目には真っ赤になった私が映っているに違いなかった。思わず頬に手を当て冷まそうとすると、燈火は声をあげて笑った。
「良いよ。教えてあげる」
初めて見た彼女の満面の笑みは水晶体のように澄み切っていて眩しかった。