一話
俺の人生の時計は、あの馬にあったときから動き出した。
俺は死んだはずだった。
実家のすぐ近くの交差点を渡ろうとしていた俺は、信号が青になったのを確認して横断した。
だが、いつものように小説を読みながら横断していたせいで、横からやって来ている暴走車に気付けなかった。
そして、轢かれた。
後日、目を覚ました俺は、少し時間を置いて警察と医師から事故のことを聞かされた。
助かったのは複数の偶然が重なって出来た奇蹟だった、と。
車両がスポーツカーで、車体が低かったこと。前方が丸みを帯びた形状をしていたこと。轢かれたのが比較的大きな交差点で、人が多く、すぐ助けに来てくれていたこと。その中に、非番の看護師がいたこと。あげればきりがない。
そして、一命をとりとめた俺は酷く落胆した。
足が片方無い。
俺は騎手学校をもうすぐ卒業するはずだった、言わば騎手の卵だった。
だが、足が無い。つまりは騎手になることを断念せざるを得ない。
やりたい夢を不慮の事故で閉じなければいけない。
その現実は、俺の心に深々と突き刺さった。
「ふさげんなよッ!なんなんだよこれ!」
白を基調とした個人病室の中には怒号が飛んでいた。その怒号は不慮の事故により、自分の夢を砕かれた少年のものだ。
「暴走車には轢かれ、目が覚めたら足無くて、騎手になる夢も直前で砕かれるだなんてふざけてんのもいい加減にしろよッ!」
医者からはこう説明を受けている。
『この病院に運ばれてきたときに、左太ももに事故車両の破片が刺さっていて、その破片が血流を遮断していたせいで足の先が壊死していた。本来それだけなら運ばれた時間を含めても、膝下の切断ですんだはすだが、事故のショックで血栓ができて、通常より壊死が広がっていたことと、義足を着けることを考えると、今の位置での切断が限界だ』
とのことだった。
必要不可欠だった足の切断。
だが、俺は先の未来が明るい学生なのだ。
しかも、彼が目指していたものは『騎手』だ。足がなくてもできる、なんて甘い考えは通用しない世界だ。
「俺が何かしたのかよ。こんな報いを受けるようなことした覚えねぇよ。なんでこんなことに...」
「いくら考えても、答えはでないぞ。それよりも、今はこの先どうするのかを考えなさい」
いつの間にか入り口には、スーツを着こなした初老の男性が立っていた。俺の親父だ。
「よくもこの状況の俺にそんなこと言えたな、親父!夢を直前で打ち砕かれて、この先の未来が真っ暗になった俺に!」
「だからこそだ、バカ息子。お前、この先どうしたい」
「できることなら騎手養成学校に戻って、無事に騎手の道を歩みてぇよ!」
一度息を整え、
「でも、それができないことが分かってるから、こんなに悩んでるし、苦しんでるんだろうが!」
思いの丈を全て目の前の親父にぶつける。意味はないと分かっていても、止めることはできなかった。それほど悔しいのだ。
「とりあえず落ち着け」
「落ち着いていられるかよ!今まで騎手になれるように頑張って頑張って頑張って来たのに、その頑張りがたった一度の事故で、足を失っただけで総崩れなんだぞ!」
「だからだよ。よく言うだろ?初心に帰れって」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味だよ。お前が騎手になりたいと思ったきっかけがなにか。を思い出せばいい」
「んだと?」
俺が騎手を目指したきっかけは、過去に両親に連れられて行った競馬場に端を発する。
競馬場には子供が馬と触れあえる場所がある。
その場所に連れられて、初めて触った馬がいた。
名をコメーテース号。
元は競争馬だったが、能力に見切りをつけられた馬だそうだ。
コメーテース号は、血統的には走る馬ではなかった。
だが、デビューレースの勝ち方が鮮烈だったらしい。
残りの3ハロン(600m)で最後方だったが、大外に出して、1ハロン(200m)のときには先頭、その後は後続を突き放し、最終的に5馬身差の大勝だったらしい。
そのレースで最も凄かったのは馬身差ではない。
このレースは7ハロン(1400m)のマイルレース。そんなマイルレースでの出遅れは、致命的になる。
だが、コメーテース号はこのレースで致命的な出遅れをしていた。それも、確率の残る出遅れ方ではない。それこそ、その出遅れ方で『終わりだな』と思わせるほどのだ。
それほどの出遅れを下にも関わらず、直線での伸びが、出遅れを苦にもしない走りだったのだ。
終わったあと、騎手はこうコメントを残している。
『この馬は怪物だ。それこそ、皇帝を超える馬に育つ。この馬は来年の競馬界の中心になる』
と。
だが、その次走のレースは着外、その次はタイムオーバーで出走停止になるなど、散々だった。
馬主、調教師側は、コメーテース号に見切りをつけ、引退。その後は生産牧場に引き取られ、伸び伸びと余生を過ごしている。と、調べた結果だ。
競馬ファンの間では、コメーテース号を、その名の如く『幻の彗星』と呼ばれている。
俺がコメーテース号に出会ったのは、引退してから数年がたち、ファンからの根強い要望で1日限定で来ていたときだった。
俺がコメーテース号に触れると、
『お前からは不思議な力を感じるな』
と、声が聞こえた気がしたのだ。
「誰?」
と呟くと、
『俺の声が聞こえてるのか?珍しいこともあるものだ』
「?????」
『まぁ、直ぐに理解できるとも思ってない。それより、行かなくていいのか?親に置いていかれるぞ?』
「あ!行かなくちゃ!」
と焦った。(まぁ、実際は父親はすぐそこのベンチに座っていたが)
と、まぁこんな不思議な体験をしたことがある。
だが、幼い頃のことだとは言え、鮮明に覚えていることだ。
それに、別れ際に聞こえた声も気になった。
『もし、お前にその気があるなら、大きくなったら俺の子に乗れ』
それが最後に聞こえた言葉だった。
それが一番でかい要因だった。
「今思い出しても、あの声はなんだったんだろう。それで、思い出したが?何がさせたいんだ?」
「まだ気付かんのか。いい機会だから、コメーテースに会ってこい。それに、あの馬の殺処分が決まりそうなんだ。これが最後になるかもしれない」
「う、嘘だろ?」
「嘘言ってどうする。もう牧場側には話がついてる。行ってこい」
「でも、病院から出ることできないだろ。入院患者だし」
「お前、正真正銘のバカだろ。俺の手の荷物見えてないのか?」
親父の手には、透明なファイルと、そのなかに挟まれた『退院に関する書類』。
「マジで!?」
「じゃなきゃ持ってないだろこんなもの。多少病院側には無理を言ったがな。それと、リハビリは自分でやれ。ってかそこまで手が回らないからな」
俺は、親父に大きく頷くと、その日の内にコメーテース号がいる北海道に旅立った。