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泣かない針葉樹

作者: hurahura.

 そうだあいつは、どうしようもなく優しい奴だった。自分を許してやることすら、出来ないほどに。


――



 燃えるような柿色の空は、あっという間に深い紺色に姿を変えた。同時に冷気が乾いた地面から、地上の生き物を残らず凍えさせようと立ち上ってくる。

 冬はどうしたって寒くなる。そんな当たり前のことが、こと鳥類である俺にとっては死活問題だった。文明を独り占めにして気温に打ち勝ってきた人間と違って、刺すような寒さはダイレクトに黒い羽毛を超えて肌を襲う。毎年のことではあるが、もううんざりだ。ただでさえカラスに対する風当たりは強まる一方だってのに、これじゃまるで鳥類の神様にとっとと滅びろ、なんて叱咤されてるみたいじゃないか。

「ほんと、なんでこんな世知辛い世の中になっちまったんだかな」

 そういかにも哀しげに呟いてみるが、当然誰からも返事はない。俺の根城であるこの寂れた小さな公園には、自分の他に仲間のカラスなんて一匹もいないのだから。

「なあ…お前も、そう思うだろ?」

 それでも構わず、足元の老木に話しかけた。何年も前からあるその細い木の天辺が、俺のささやかな寝床だ。もっとも、それもあと少しで終わりを告げるのだが。

 緑地整備。そう言うと聞こえはいいが、要は不要な木の伐採だ。景観を損ねるだの虫が付くだの、人間は適当な理由をつけて他の生き物の住処や命を平気で奪ってしまう。この木も、ある理由で切られることになった。だが、どんな理由だったかはどうしても思い出せない。俺は物覚えがかなり悪いのだ。

「勝手に植えられて、勝手に殺されて…これじゃ、なんのために生まれてきたんだか分かりゃしない」

 思えばこいつには随分世話になった。数年前、群れから追い出され、行くあても帰る場所もない年老いた俺を、この木は何も言わず受け入れてくれた。それ以来、俺たちは友達になった。

 春は木に流れる水の微かな音を聞きながらまどろみ、夏は葉っぱに付く虫どもを夢中でついばんだ。秋は木の実を少しだけつまみ食いした。焦茶色の実はほのかに苦く、それでいて暖かい味がして…。

「…木の神様は、結局お前を救ってはくれなかったな!」

 細い幹に、できる限りくちばしを寄せて怒鳴りつけてみる。やはり、返事は無かった。



 友達の死亡予定時刻まであと一週間を切った、ことさらに寒い早朝のことだった。俺は以前よりさらにかさかさに干からびた幹に耳を押し付けて、早起きで有名な鳥らしからぬ二度寝を決め込んでいた。

「ちょっと、カラスさん!」

 ふいに聞こえた甲高い、それでいてどこか柔らかい声。寝ぼけ眼で下を見ると、そこには赤いリボンを頭につけた女の子がつっ立っていた。

 氷点下にもなろうかという気温の中で、彼女の白いワンピースだけが夏を感じさせた。子供は風の子というのは本当のようだ。

「あんたは…」

 俺は彼女をよく知っていた。なにしろしばらく前まで、毎日のように俺の寝床を脅かしてくれていたのだ。あの恐怖を忘れるはずが無い。

「…今日は、木登りはお休みかい?前はあんなにご執心だったじゃないか」

「うん、もう飽きちゃった」

 子供らしい屈託の無い笑顔で俺の皮肉をスルーした彼女は、少しだけ眉をひそめてこちらを見た。そして片手を挙げて手招きをする。…降りてこいって事か。

 仕方なく、もう何日も使っていない羽を広げて地面に降り立つ。少しふらついた。

「あなた、この木と一緒に死ぬつもりでしょう」

 急に浴びせられた言葉に、心臓を冷たい手で鷲づかみにされたような錯覚をおぼえる。子供ってのは、時々その純粋な鋭さで周囲を驚かせるものだ。平静を装い、左の眼球に映る可憐な少女を見上げる。既に、右目は真夜中しか映さなくなっていた。

「どうして、そう思った」

「何日もここから動いてないじゃない。どうせ何も食べてないんでしょ?」

 図星だった。既に息をするのも億劫になりつつある。だが、不思議と死への恐怖は無かった。あるのはただ、体を包む静かな倦怠感と安心感だけ。

「もういいのさ。俺は十分生きた。お嬢さんには分からないだろうけどね」

 そう言うと、俺は背の高い我が家を下から上まで眺めた。

「それにこいつが一緒に死んでくれるから、寂しくなんてないのさ」

「もしこの木を助ける方法があるとしたら、あなたどうする?」

 唐突に告げられた質問に、たっぷり五秒は世界が停止した。


「なぁ、本当だと思うか?あの子の言ってたこと…」

 また凍える夜が来て、俺は寒さから少しでも逃れようと幹にぴったりと寄り添う。いつもより空気が澄んでいるせいか、ちょっと信じられないほど綺麗な星たちが空を覆っていた。

 朝の木登り少女の話では、彼女の父親は伐採の責任者で、彼の一声で木を切るのを止めさせることが出来るらしい。「あたしも、この木にはお世話になったから」 そう言って彼女は少しの間、木におでこをくっつけて目を閉じていた。それだけで、どれほど俺の友達を愛してくれているかが伝わるようだった。

 しかしその後で、少女はこうも言った。「あなたが止めろと言うなら、あたしは何もしないけどね」 当然、俺は驚いて即座に否定した。唯一の友達を救うことに、なんの躊躇もないはずだった。

 だが今になって、彼女の言葉が小さな頭をぐるぐる回り始める。あれはつまり、小さな気遣いだったのだろう。結局一人で死ぬ羽目になった、哀れで汚いカラスへの。

「お前が生き延びると知っていたら、もうちょっと努力しても良かったかもな」

 いつのまにか、細かい砂のような雪が降り始めていた。俺はことさら木の表皮に耳を近づける。この寒ささえなければ、今日ほど安眠に最適な夜は無いだろう。そう思わずにはいられないほど、静寂がこの公園を支配していた。もっとも、それはあまりの空腹で俺の聴覚が麻痺していたせいだったかもしれない。

 眠りに入る直前、ふと気付いた。あの女の子と話したのは、今日が初めてだったということに。


――


 運命の日の前日。沈んでいく太陽を片目で眺めながら、俺は襲い来る尋常ではない眠気と戦っていた。今寝たら二度と起きれない。そう野生の本能が告げていた。

 結局、あれから彼女が現れることは無かった。何かあったのか、あるいは最初から全て嘘だったのか。今となってはどちらでもいいような気分だった。いずれにせよ、ささやかな希望は花開くことなく潰えたのだ。今はただ、最期の時間を友と過ごしたい…それだけだ。

 ゆっくりと、最後の光が地平線に消えていく…そんな静かで雄大な景色に、突然似つかわしくないものが現われた。

「…なんだ、あれ…」

 それは一見、なんの変哲も無い人間に見えた。作業着を着た大柄な男が一人、誰も入らないように周囲を覆っていた柵を乗り越えて公園に侵入したのだ。右手には何故か黒い紐がぐるぐる巻きにされ、そして左手にはある物が握られていた。

 俺は「それ」の名前は知らない。だが、どれほど恐ろしいものかは何度もこの目で見て知っていた。脳に大量の血液が集まり、沸騰し始めるのを感じる。どうしてだ?まだ時間はたっぷりあったはずなのに。

 体をこわばらせるカラスの視線に構わず、木に近づいた男は血走った目で「それ」のスイッチを押した。たちまち、俺が今まで聞いた内で最も凶悪な音が辺りの空気を切り裂いていく。

 止めなければ。俺の頭に浮かんだのはそれだけだった。だが意志に反して、いくら羽ばたいても巣の中を数センチ移動するのがやっとだ。

 男の持つ凶器が、刃を回転させながら友達に迫る。その手には一切ためらいが無い。

 このままでは駄目だ。俺は覚悟を決め、今まで込めていた力を抜いて巣を転げ落ちた。

「うおっ!」

 奴の驚いた声が、凶器の唸り声を一瞬かき消した。

 どうやら、運よく男の頭上に落ちることが出来たようだ。頭をボロボロの翼で叩き、なんとか殺戮を止めさせようともがく。しばらくの間、俺と奴との攻防が続いた。

「この野郎、邪魔するな!」

 だが、それも長くは続かなかった。男の放った手刀が腹を捕らえ、俺は地面に叩きつけられる。

「こいつは私が切るんだ…それがせめてもの、あの子の…」

 そう呟きながら、再度木に向き合う男。それを横目でかろうじて視界に入れた俺の頭には、木と過ごした幸せな日々が渦巻いていた。

(…死なせたくない。あいつは、俺の唯一の親友なんだ!)

 もう間に合わないという事実を必死で否定しながら、友達を殺そうとする男をただにらみつけた。

「…やめて!」

 その甲高い声が聞こえたとき、幻聴ではないかと耳を疑った。

 あの赤いリボンの女の子が、こちらに向かって駆け出して来る。これで助かった…一瞬そう思った。

 だが、凶器を振り上げた男の動きは止まらない。その時、奴の右手を見て気付いた。遠くからは黒い紐に見えたそれは、近くで見ると鮮やかな赤いリボンだった。

「やめて、お父さん!」

 そう叫んだ彼女の体が男を透り抜けたとき、俺は全てを思いだした。


――


 あれは夏の終わり、夕暮れの事だった。かげろうの切ない声を聞きつつ、俺は木の上から根元に横たわる小さな女の子を見つめていた。今にも動き出しそうな、綺麗な死体だった。

 それまで何ヶ月かそうだったように、その日も彼女は慣れた手つきで枝を登った。俺は迫り来る人間に若干の恐怖を感じつつも、その一生懸命な姿に目を奪われていた。俺は意外と、この少女の事を気に入っていたのだと思う。

 一瞬のことだった。天辺近くの、それまで彼女の体重を支え続けていた細い枝が折れたのだ。大きな音を立てて小さな命が消えた。俺はただ目の前の事実が信じられず、自然と記憶に蓋をした。

 木の伐採が決まったのは、それからすぐのことだった。


――


 男の落ち窪み、充血した目を見て悟る。恐らくは、娘の弔いのつもりで伐採の責任者に志願したのだろう。だがどうしても自分一人で終わらせたかった彼は、その前日こうしてここに現われたのだ。

 少女の叫びは、父親には届かない。あの約束も、きっと彼女は本気で守るつもりだったのだろう。唯一の問題は、自分が死んでいることに気付かなかった事。

「…ごめんな、助け…られなくて」

 命を刈り取る道具が、歓喜の雄たけびをあげた気がした。



「…どうして」

 しばらく、何が起こったのか理解できなかった。

「私はまだ、何も…」

 呆然と呟く男の前で、俺の親友はただ静かに横たわっていた。

 凶器が木の表皮をえぐろうとした瞬間、まるで見えない力に導かれるように木は根元からゆっくりと折れ…その長い生涯を終えた。

 太陽は既に没し、凍える夜が辺りを包んでいる。いつのまにか、あの少女も姿を消していた。

 しばらく絶句していた俺は、ふいに浮かんだある疑問に突き動かされるように地面を這う。向かったのは、木の根元。

「…」

 予想通り、断面にはたくさんの空洞があった。今まで普通に立っていたのが不思議なくらい、哀しいほどボロボロだった。

 恐らく、あの日以来こいつは水を吸うのを止めたのだ。自分を心底愛してくれた一人の子供を見殺しにした罰として、やつは自分の生命線を絶った。

 木の管を水が通る音は、確かにあれ以来一度も聞いていない。俺の耳が悪くなったんじゃない。最初から、聞こえるはずも無かったのだ。

 そうだあいつは、どうしようもなく優しい奴だった。自分を許してやる…そんな当たり前の事すら出来ないほどに。

「…お前のせいじゃないよ」

 あの日言えなかった言葉を、もう動かない友に投げかける。返事が無くても構わなかった。

「誰のせいでもないんだ…」

 小さな木の破片を、二つの羽で優しく包む。少し暖かい。

「俺は、お前のおかげで…ずっと、寂しく…なかったよ」

 まぶたが重くなり、視界が狭まっていく。ありがとう…そんな微かな声が、耳に届いた気がした。


――


「よう、元気か?」

 返事は無い。だが、そんな小さな事はどうだって良かった。

 あの後何を血迷ったのか、男は俺を家に連れ帰りつきっきりで看病した。おかげで、今ではすっかり元通りだ。唯一片目は見えないままだが、まあ命があっただけ儲けものだろう。

「あ、また来てる。よく飽きないね」

 少女がどこからともなく現れ、俺の隣に腰をおろす。彼女はすっかりここの自縛霊だ。早く成仏してほしいが、こいつが育つまでは難しいだろう。「大きくなったらあたしが一番に登る!」 そう常に宣言しているのだから。

「誰が飽きるか。あいつの子供なんだ…大切に育てないとな」

 公園に芽吹いた小さな新芽が、春風にそよいでキラキラと輝いた。



end






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