第八章 契約の闇
予防保全の試験運用が始まって三ヶ月が経った頃、誠司は昇降士ギルドの契約部門に呼び出された。
「セイジ君、少し話がある」
契約部門の責任者、ヘルマンという中年の男だった。恰幅が良く、いかにも役人という雰囲気を持っている。誠司を見る目には、警戒と困惑が入り混じっていた。
「何でしょうか」
「君の予防保全、効果が出ているようだな」
「はい。対象施設では、故障件数が従来の三分の一以下に減少しています」
「それは結構なことだ。しかし——」
ヘルマンは書類の束を誠司の前に置いた。
「問題が起きている」
誠司は書類を手に取った。苦情の一覧だった。
「これは……」
「下層の施設管理者からの苦情だ。『点検の頻度が増えて、費用が上がっている』『まだ使える部品を交換された』『余計なサービスを押し付けられた』——このような意見が寄せられている」
誠司は眉をひそめた。
「費用が上がっている、というのは——」
「君の予防保全方式では、点検回数が増える。当然、その分の費用が発生する。下層の施設管理者には、その負担が重いのだ」
「しかし、故障が減れば、トータルのコストは下がるはずです」
「『はずです』では困る。現実に、今、費用が増えているのだ」
ヘルマンは溜息をついた。
「セイジ君。君の技術は認める。しかし、ギルドはビジネスだ。顧客の要望に応えなければならない。顧客が『今の費用を下げろ』と言えば、我々は従わざるを得ない」
「でも、それでは——」
「分かっている。長期的には君の方式が正しいのかもしれない。しかし、下層の人々には『長期』を考える余裕がないのだ」
誠司は言葉を失った。
確かに、予防保全には初期コストがかかる。定期点検の頻度を上げれば、その分の人件費と材料費が発生する。それが「投資」であり、将来の故障による損失を防ぐためのものだと分かっていても、今日の食事に困っている人には響かない。
「……下層の契約体系は、どうなっているのですか」
「POG契約が主流だ。消耗品の交換と最低限の点検のみ。故障が起きたら、別途修理費を請求する」
「FM契約は?」
「上層と中層の一部だけだ。月額は高いが、修理費込み。手厚いサービスが受けられる」
誠司は理解した。
これは、前世の保守契約制度と同じ構造だった。
POG契約——Parts, Oil, and Grease。消耗品だけをカバーする最低限の契約。月額は安いが、故障時の修理費は別途かかる。
FM契約——Full Maintenance。全てをカバーする包括契約。月額は高いが、故障時も追加費用なし。
そして、下層民はPOG契約しか選べない。なぜなら、FM契約の月額を払えないからだ。
結果として、下層のエレベーター——この世界では昇降機構——は、最低限のメンテナンスしか受けられない。故障が起きれば、高額な修理費を請求される。払えなければ、そのまま放置される。
「金持ちの命は高く、貧乏人の命は安い、ということですか」
誠司の言葉に、ヘルマンの表情が硬くなった。
「……君がそう思うのは自由だ。しかし、これが現実だ。我々は、与えられた条件の中で仕事をするしかない」
「変えることはできないのですか」
「契約体系を変えるには、上層部の承認が必要だ。そして、上層部は——」
ヘルマンは言葉を切った。
「上層部は、現状を変えるつもりはない。下層のことなど、眼中にないのだ」
誠司は立ち上がった。
「ありがとうございました。参考になりました」
「セイジ君」
ヘルマンが呼び止めた。
「君の熱意は買う。しかし、無理をするな。この世界は、簡単には変わらない」
誠司は頷いて、部屋を出た。
廊下を歩きながら、誠司は考えていた。
契約体系の問題。それは、技術だけでは解決できない。制度を変えるには、政治的な力が必要だ。そして、政治的な力を持つのは、上層の人間だけだ。
「どうすればいい……」
誠司は足を止めた。
窓の外には、塔の上層部が見える。雲を突き抜けて、さらに高くへと伸びている。あの上に、この世界を動かしている人々がいる。
「上に行くしかない」
誠司は呟いた。
「もっと上に行って、制度を変える力を手に入れる。それしか、方法はない」
しかし、それには時間がかかる。今、苦しんでいる人々を、どうすれば救えるのか。
誠司は歩き始めた。今日も、点検の仕事がある。できることから、一つずつ。それが、今の自分にできる全てだ。
その日の午後、誠司は下層の施設を訪れた。
予防保全の試験対象ではない、一般のPOG契約の施設だった。定期点検の予定だが、「最低限の確認だけでいい」という指示が出ている。
「すみません、あまり長居しないでくださいね」
施設の管理人——中年の女性——が、申し訳なさそうに言った。
「費用のこと、気になりますか」
「正直、ギリギリなんです。ギルドへの支払いを滞納したら、サービスを止められてしまう。そうなったら、エレベーター——昇降機構が使えなくなる。住民たちが困るんです」
誠司は頷いた。
「分かりました。今日は、最低限の確認だけにしましょう。ただ——」
誠司は昇降機構に向かった。
「ちょっとだけ、見させてください」
点検口を開け、内部を観察する。五感を研ぎ澄ませる。
「……ここ、軸受けの音が少しおかしいですね」
「え?」
「今すぐ壊れるわけではありません。でも、あと二、三ヶ月で交換が必要になると思います」
管理人の顔が曇った。
「交換……費用は、いくらくらい——」
「正規の料金だと、かなりの額になります。でも——」
誠司は声を低くした。
「もし、私が個人的に部品を調達して、私が個人的に交換作業を行えば……費用は三分の一くらいに抑えられるかもしれません」
「それは……いいんですか?」
「ギルドの規定には反します。でも、人命に関わることです。黙っていれば、分かりません」
管理人は誠司を見つめた。
「あなたは……変わった昇降士ですね」
「そうですか?」
「普通の昇降士は、下層のことなんて気にしません。金にならないから。でも、あなたは——」
「俺は、最下層の出身ですから」
誠司は微笑んだ。
「下層で暮らす大変さは、知っています。だから、できることはしたい。それだけです」
管理人の目が潤んだ。
「ありがとうございます……本当に」
「礼はいりません。それより、交換の時期が来たら、連絡をください。こっそり対応しますから」
誠司は点検を終えて、施設を後にした。
こんなことを続けても、根本的な解決にはならない。しかし、今、目の前で困っている人を放っておくこともできない。
「制度を変える。必ず」
誠司は心の中で誓った。
その夜、誠司は宿舎でミラと話していた。
「契約の問題、知ってたか」
「……知ってた」
ミラは目を伏せた。
「私の母は、下層で働いていた。昇降士の血を引いていたけど、正規の資格は持っていなかった。非正規の作業員として、危険な仕事をしていた」
「それで——」
「事故で死んだ。昇降路の中で、落下事故。安全装置が壊れていたのに、修理されていなかった。POG契約だったから、『安全装置は対象外』だって」
誠司は息を呑んだ。
「ミラ……」
「だから、私は昇降士になりたかった。この制度を、中から変えたかった。でも——」
ミラは拳を握りしめた。
「何も変わらない。私が昇降士になっても、制度は同じまま。上層の人間は、下層のことなんて気にしない」
誠司はミラの肩に手を置いた。
「変えよう」
「え?」
「俺とお前で、変えよう。時間はかかるかもしれない。でも、諦めなければ、必ず変えられる」
ミラは誠司を見つめた。
「……本気で言ってる?」
「本気だ。俺は、前の世界でも、同じような問題を見てきた。金がない人間は、十分なサービスを受けられない。そういう構造が、どこにでもある。でも——」
誠司は窓の外を見た。
「変えようとする人間がいれば、少しずつでも変わっていく。俺は、そう信じてる」
ミラは黙っていた。しかし、その目には、かすかな光が灯っていた。
「……セイジは、不思議な奴だな」
「よく言われる」
「私も、信じてみる。お前と一緒なら、何かできるかもしれない」
二人は、夜空に浮かぶ塔を見上げた。
最上層は、まだ遠い。しかし、一歩ずつ、近づいている。
誠司は、明日からの仕事に思いを馳せた。契約の問題、制度の壁、上層の無関心——乗り越えるべき障害は多い。しかし、諦めるつもりはなかった。
「点検は、命を守る仕事だ」
その言葉を、誠司は改めて胸に刻んだ。全ての命を、等しく守る。それが、昇降士——いや、エレベーター保守員としての、誠司の信念だった。




