第二十二章 昇降士は今日も点検する
戦争が終わったのは、黒沢が倒れてから三日後のことだった。
指導者を失ったヴェルディアの軍勢は、急速に統制を失った。塔の守備軍が反撃に転じると、敵軍は撤退を始めた。戦闘は、一週間で完全に終結した。
世界の心臓は、誠司によって安全に封印された。
起動した心臓を停止させることはできなかったが、誠司は心臓の力を「最小限に抑える」ことに成功した。心臓は今も脈動を続けているが、その力は封じられている。二つの世界を繋ぐ機能は維持されつつも、破壊的な力は発揮されない状態だ。
「これでいい——」
誠司は、心臓の前で呟いた。
世界の心臓は、これからも塔の最上層で眠り続ける。誰かが再び儀式を行わない限り、その力が解放されることはない。
戦後の復興が始まった。
塔の各層で、破壊された昇降機構の修理が行われた。誠司は、その作業を指揮する立場になった。
「セイジ様、こちらの昇降機構も修理が完了しました」
「ああ、ご苦労様。次は、第七区画に——」
「承知しました」
若い昇降士たちが、誠司の指示に従って動いていく。戦争中に失われた多くのベテラン昇降士に代わって、若い世代が前線に立っている。
「セイジ」
声をかけられて振り向くと、ミラが立っていた。
「ミラ。怪我は治ったか」
「ああ、もう大丈夫だ」
ミラは、戦争中に負傷していた。しかし、今は完全に回復している。
「お前、聞いたか。上層部からの話」
「ああ、聞いた」
「受けるのか」
誠司は、少し間を置いてから答えた。
「断った」
「そうか」
ミラは、驚かなかった。予想していたのだろう。
上層部からの話——それは、「大昇降士」の称号を授けるというものだった。塔の昇降機構を統括する、最高位の地位。世界の心臓を起動し、戦争を終わらせた功績に対する、報償だった。
しかし、誠司はそれを断った。
「俺は、現場が好きなんだ」
誠司は言った。
「偉くなって、デスクで指示を出すだけの仕事は、俺には向いていない。俺は、自分の手で昇降機構を直したい。自分の目で、自分の耳で、異常を見つけたい」
「……相変わらずだな」
「これが、俺のやり方だから」
ミラは微笑んだ。
「お前らしいよ」
「ミラは、どうする」
「私は、昇降士ギルドに残る。下層の保守契約制度を改革したい。全ての人が、等しく安全な昇降機構を使えるように」
「いい目標だ」
「お前の影響だ。『予防保全』の思想を、制度に組み込む。金持ちも貧乏人も、関係なく。命に、格差があってはならない」
誠司は頷いた。
「頑張れ。俺も、できることは協力する」
「ああ、頼む」
二人は、塔を見上げた。
戦争の傷跡は、まだ残っている。しかし、復興は着実に進んでいる。
「そういえば」
ミラが言った。
「明日、最下層に行くんだって?」
「ああ。あそこには、まだ動いていない昇降機構がある。直しに行く」
「大昇降士の称号を断って、最下層の点検か。お前、本当に変わらないな」
「変わる必要がないからな」
誠司は笑った。
「俺は昇降士だ。昇降機構を直すのが、俺の仕事だ。上層だろうが下層だろうが、関係ない。動かない機械があれば、直しに行く。それだけだ」
翌日、誠司は最下層を訪れた。
久しぶりの最下層だった。かつて、奴隷として暮らしていた場所。全てが始まった場所。
「懐かしいな——」
誠司は、周囲を見回した。
空気は相変わらず湿っていて、光は薄暗い。しかし、以前とは何かが違う。
「……活気がある」
人々が、行き交っている。以前は、俯いて歩いていた人々が、今は顔を上げて歩いている。表情も、明るくなっている気がする。
「セイジさん!」
声をかけられて振り向くと、子供たちが駆け寄ってきた。
「本当にセイジさんだ!」
「あの、世界を救った昇降士さん!」
誠司は苦笑した。
「大げさだな。俺はただ——」
「ねえ、昇降機構の直し方、教えて!」
「私も、昇降士になりたい!」
「俺も!」
子供たちが、誠司を取り囲んだ。目を輝かせて、誠司を見上げている。
「……そうか」
誠司は、しゃがんで子供たちと目線を合わせた。
「昇降士になりたいのか」
「うん!」
「じゃあ、教えてやる。昇降士の、一番大切な仕事を」
「なになに?」
誠司は、立ち上がって空を——いや、上層を——見上げた。
「点検だ」
「点検?」
「昇降機構が、ちゃんと動いているか確かめる。異常がないか、調べる。それが、昇降士の仕事だ」
「地味だなあ」
子供の一人が言った。
「戦うとか、魔法を使うとか、そういうのじゃないの?」
「そういうのは、他の仕事だな」
誠司は笑った。
「でも、点検は大事な仕事だ。昇降機構は、人を乗せて動く。もし壊れたら、人が怪我をしたり、死んだりする。だから、壊れる前に見つけて、直す。それが、点検だ」
「壊れる前に見つける?」
「ああ。音を聞いて、振動を感じて、匂いを嗅いで——異常があったら、すぐに分かる。そうやって、事故を防ぐんだ」
子供たちは、真剣な顔で聞いていた。
「点検は、命を守る仕事だ」
誠司は言った。
「派手じゃないけど、大切な仕事だ。人の命を、毎日守っている」
子供たちの目が、さらに輝いた。
「かっこいい……」
「俺も、やってみたい!」
「私も!」
誠司は微笑んだ。
「よし、じゃあ今から、ちょっとした授業をしてやる。昇降機構の仕組みと、点検の方法を、教えてやる」
「やったー!」
誠司は、子供たちを連れて、停止した昇降機構のある場所に向かった。
かつて、誠司自身が初めて昇降機構を直した場所。全てが始まった場所。
「さあ、まずは外観を見てみよう。何か、おかしいところはないか」
「えーっと……」
子供たちが、昇降機構を観察し始める。
誠司は、その様子を見守りながら、心の中で呟いた。
「俺の技術が、次の世代に伝わる——」
それは、誠司にとって、何よりも嬉しいことだった。
大昇降士の称号よりも、上層での豪華な生活よりも——自分の技術を、次の世代に伝えること。それが、誠司の本当の願いだった。
「点検は、命を守る仕事だ」
誠司は、再び心の中で呟いた。
前世で、誰かに言われた言葉。この世界でも、変わらない真実。
誠司は、これからもこの言葉を胸に、昇降士として生きていく。
「さあ」
誠司は、子供たちに向かって言った。
「今日も点検を始めよう」
子供たちの歓声が、最下層に響いた。
塔は、今日も人々を乗せて動いている。上層から下層まで、無数の昇降機構が、人と物を運んでいる。
その全てを見守り、守り続ける者たち——昇降士。
高森誠司、異世界でセイジと呼ばれた男は、今日も昇降機構の前に立つ。
点検は、命を守る仕事だから。
エピローグ
数年後——
塔の最下層に、一つの学校ができた。
「昇降士養成学校」。
貧しい子供たちに、無償で昇降士の技術を教える学校だ。設立者の名は、高森セイジ。かつて最下層の奴隷から身を起こし、世界を救った伝説の昇降士。
「先生、この音は何ですか」
生徒の一人が、昇降機構に耳を当てながら聞いた。
「よく聞いてみろ。何か、おかしくないか」
「えーっと……ちょっと、高い音が混じってる気がします」
「そうだ。それは、軸受けが摩耗し始めている音だ。今すぐ壊れるわけじゃないが、放っておくと問題になる。だから——」
「予防保全、ですね」
「その通り」
セイジは、生徒の頭を撫でた。
「壊れる前に直す。それが、昇降士の仕事だ」
生徒たちは、熱心にメモを取っている。彼らは、かつてのセイジと同じように、最下層で生まれ育った子供たちだ。
「先生」
別の生徒が手を上げた。
「何だ」
「昇降士になったら、上層に行けますか」
「ああ、行ける。昇降士は、塔のどこにでも行ける」
「じゃあ、最上層にも?」
「もちろん」
セイジは、窓の外を見た。
塔が、空に向かって聳えている。かつては、遥か遠くに見えた上層。今は——
「でも、大切なのは、どこにいるかじゃない」
セイジは言った。
「大切なのは、何をするかだ。上層にいても、下層にいても——昇降士の仕事は変わらない。昇降機構を守り、人を守る。それが、俺たちの誇りだ」
生徒たちは、真剣な顔で聞いていた。
「さあ、授業を続けよう」
セイジは、昇降機構の前に立った。
「次は、『HHK』について教える。閉じ込め救出の三原則だ」
「HHK?」
「外す、広げる、壊す——人命を最優先にする、救出の手順だ。覚えておけ。いつか、必ず役に立つ」
セイジは、生徒たちを見回した。
「そして、もう一つの意味もある」
「もう一つ?」
「解く、開く、繋ぐ——世界を繋ぐ、古代の言葉だ」
生徒たちは、不思議そうな顔をした。
「世界を繋ぐ?」
「いつか、分かる時が来る」
セイジは微笑んだ。
「それまでは、目の前の仕事に集中しろ。一つずつ、確実に。それが、昇降士のやり方だ」
授業が終わり、生徒たちが帰っていった。
セイジは、一人で昇降機構の前に残った。
手を伸ばし、機構に触れる。冷たい金属の感触。かすかな振動。油の匂い。
「……変わらないな」
セイジは呟いた。
前世でも、この世界でも——昇降機構の感触は、同じだ。
「俺は、これでいい」
セイジは、空を見上げた。
塔が、星空に向かって伸びている。その頂点には、世界の心臓が眠っている。
「さあ」
セイジは、工具を手に取った。
「今日も点検を始めよう」
昇降士は、今日も塔を守る。
明日も、明後日も、その先も——
全ての命を、等しく守るために。
(完)




