第二章 塔の世界
最下層の空気は、常に湿っていた。
セイジ——いや、この身体の中にいる高森誠司——は、与えられた作業に従事しながら、この世界の構造を少しずつ理解していった。
「塔」と呼ばれる巨大な建造物が、この世界の中心にある。
それは、誠司がこれまで見たどんな建物よりも大きかった。見上げても頂上は見えない。雲の向こう、あるいはそれ以上に高くそびえている。何千メートルあるのかさえ分からない。
塔の内部は、階層によって分かれていた。
最下層——誠司がいる場所——は、鉱山労働者や奴隷たちの居住区。薄暗く、狭く、常に機械の振動が響いている。
その上の下層は、職人や労働者たちの街。最下層よりはましだが、それでも陽の光はほとんど届かない。
中層は、商人や一般市民の居住区。ここから上は、比較的まともな生活ができるらしい。
上層は、富裕層や役人たちの領域。贅沢な暮らしが約束されている。
そして最上層は、貴族や王族の居城。塔の頂点に君臨する者たちの世界。
「つまり、階層がそのまま社会的地位を表してるってことか」
誠司は、重い鉱石を運びながら呟いた。垂直方向の格差社会。エレベーターで行き来するのではなく、物理的に「上」にいる者が「上位」の存在なのだ。
「セイジ、さっさと運べ!」
監督官の怒号が飛んでくる。誠司は返事をして、鉱石を積んだ荷車を押した。
奴隷としての生活は、過酷だった。
朝は薄暗いうちに起こされ、日が暮れても作業は続く。食事は一日二回、味気ないスープとパンだけ。休息時間はわずかで、病気になっても働かされる。
しかし、誠司にとって最も堪えたのは、この世界に「エレベーターがない」という事実だった。
いや、正確には「動いていない」のだ。
塔の各所には、巨大な鉄の扉がある。その向こうには、かつて「昇降機構」と呼ばれた装置があったらしい。しかし、それらはすべて停止している。何百年も前から、誰も動かすことができないまま。
「昔は、あれで上まで行けたんだってよ」
同じ奴隷仲間の老人が、ある日そう教えてくれた。
「古代文明の遺産だ。『昇降士』っていう連中がいて、あれを動かしてたらしい」
「昇降士?」
「昇降機構を操る技術者さ。魔力で機械を制御して、塔の中を自由に行き来できたんだとか。今でも、ごく少数だが存在する。中層以上に住んでる、特権階級だ」
誠司の心が、かすかに動いた。
「その昇降士になれば、ここから出られるのか」
「馬鹿言え。奴隷が昇降士になんてなれるわけねえだろ。あれは生まれつきの才能だ。魔力の質が違う。俺たちみたいな底辺には、縁のない話さ」
老人は諦めたように笑った。
しかし、誠司は諦めなかった。
夜、他の奴隷たちが眠りについた後、誠司は一人で起き出した。足首の鎖は長く、部屋の中を歩き回ることはできる。壁際まで移動し、耳を澄ませた。
聞こえる。
低い振動。規則的なリズム。機械の音だ。
誠司は目を閉じて、その音に集中した。
「……この振動は、回転運動だ。たぶん、何かの軸が回っている」
前世の知識が、頭の中で蘇る。
「軸が回って、振動が発生している。ということは、軸受けがある。軸受けがあるなら、潤滑油がいる。潤滑油が切れれば、摩擦で発熱する。発熱すれば、やがて焼き付く」
この世界の機械も、基本的な原理は同じはずだ。魔力で動いているにしても、物理法則を無視することはできない。回転する部品は摩耗する。熱を持つ部品は劣化する。
「だとしたら、俺にもできることがあるかもしれない」
誠司は目を開けた。
翌日から、誠司は作業の合間に、塔の構造を観察するようになった。
最下層にも、停止した昇降機構はあった。巨大な鉄の扉の奥に、埃をかぶった機械が眠っている。誰も近づかないその場所に、誠司はこっそりと足を運んだ。
「これは……」
扉の隙間から覗き込むと、見慣れた光景があった。
かご。ワイヤー。滑車。制御盤に相当する何か。
構造は、地球のエレベーターとよく似ていた。もちろん、細部は異なる。電気ではなく、「魔導核」と呼ばれる結晶体がエネルギー源らしい。制御も、電子回路ではなく魔法陣のようなものが刻まれている。
しかし、基本的な設計思想は同じだった。
「人を乗せて、垂直に移動させる機械」
それを作った者たちが、誠司と同じような発想をしていたのだとすれば——
「直せるかもしれない」
その可能性に、誠司の心は高鳴った。
問題は、どうやってこの機械にアクセスするかだった。奴隷の身分では、勝手な行動は許されない。見つかれば罰を受ける。最悪、処刑されることもあるという。
しかし、チャンスは意外な形で訪れた。
ある日、鉱山で事故が起きた。
落盤だ。坑道の一部が崩れ、数人の労働者が生き埋めになった。監督官たちは慌てて救出作業を始めたが、うまくいかない。崩れた岩石が多すぎて、手作業では時間がかかりすぎる。
「駄目だ、間に合わない!」
「まだ生きてる奴がいるんだぞ!」
怒号が飛び交う中、誠司は周囲を見回した。
そして、見つけた。
坑道の奥に、古い巻き上げ機があった。錆びついて、誰も使っていない。しかし、構造は単純だ。ロープを巻き取るだけの装置。
誠司は駆け寄り、機械を調べた。
「ギアが噛み合ってない……いや、異物が詰まってるだけか」
懐から、拾っておいた金属片を取り出す。即席の工具だ。ギアの間に挟まっていた石のかけらを取り除き、手動でハンドルを回してみる。
ギギギ……と、機械が軋んだ。
「動く。まだ使える」
誠司は叫んだ。
「この機械で岩を持ち上げられる! ロープを通せ!」
監督官たちは呆然としていたが、誰かが動いた。ロープが運ばれ、崩れた岩に巻き付けられた。誠司がハンドルを回すと、巻き上げ機が岩を持ち上げ始めた。
一人、また一人と、埋まっていた労働者が救出された。
全員が助かったわけではない。しかし、本来なら全滅だったはずの事故で、何人かが生き残った。
その夜、誠司は監督官に呼び出された。
「お前……あの機械を直したのか」
「直したというか、詰まっていたものを取っただけです」
「誰に教わった」
「……独学です」
監督官は、しばらく誠司を見つめていた。
「お前、名前は」
「セイジです」
「セイジか……覚えておく」
それだけ言って、監督官は去っていった。
誠司は、自分の中で何かが変わり始めていることを感じた。
この世界で、自分の技術が役に立つ。
前世で培った知識と経験が、ここでも意味を持つ。
「エレベーター保守員」という肩書きは失った。しかし、「機械を直す」という能力は消えていない。
「……まだ、やれることがある」
誠司は、暗い天井を見上げながら呟いた。
最下層の空気は相変わらず湿っていたが、その湿気の中に、かすかな希望の匂いを感じた気がした。




