第十章 黒き貴族
ヴェルディア帝国からの外交使節団が、塔に到着したのは、工作員の存在が発覚してから二週間後のことだった。
表向きは「和平交渉」のための訪問とされていた。しかし、誰もがそれを額面通りには受け取っていなかった。工作活動が発覚した今、両国の関係は最悪だった。外交使節団の訪問は、最後通牒を突きつけるためのものだという噂が流れていた。
「警戒を怠るな」
ガルドが指示を出した。
「使節団の中に、さらなる工作員が紛れ込んでいる可能性がある。全員、通常の二倍の注意を払え」
誠司も、警戒任務に就いていた。
使節団が宿泊する施設の昇降機構を点検し、異常がないかを確認する。同時に、使節団のメンバーの動向を監視する。表立った監視ではないが、「たまたま近くにいる」という形で、目を光らせていた。
使節団の到着の日、誠司は施設のロビーで待機していた。
使節団は、華やかな衣装に身を包んだ貴族たちで構成されていた。金銀の刺繍が施されたマント、宝石をちりばめた装飾品、高価な革のブーツ。彼らの立ち居振る舞いは、上層の貴族よりもさらに洗練されていた。
誠司は、その中の一人に目を止めた。
長身の男だった。黒いマントを羽織り、銀色の髪を後ろに撫でつけている。顔立ちは整っているが、目つきが鋭い。周囲の貴族たちとは、明らかに雰囲気が違った。
「あの男は……」
誠司は、その男の顔に見覚えがあった。
しかし、どこで見たのか、思い出せない。この世界で出会った人間ではない。それは確かだ。では、前世か?
男が、ふと誠司の方を見た。
目が合った。
その瞬間、誠司の心臓が跳ねた。
「……お前」
男の口が、そう動いた。声は聞こえなかったが、唇の動きで分かった。
そして、男は——笑った。
冷たく、嘲笑うように。
誠司の記憶が、一気に蘇った。
「黒沢……」
前世の上司。誠司をパワハラで追い詰めた男。「お前みたいな奴は一生、油まみれで這いずり回ってろ」と言った男。
その男が、目の前にいた。
ヴェルディア帝国の貴族として。
「まさか……」
誠司は混乱した。
転生者。自分と同じように、前世の記憶を持ったまま、この世界に転生した人間。そんな存在が、他にもいるのか。
しかし、考えてみれば、あり得ないことではない。誠司が転生したのなら、他の人間も転生している可能性はある。
そして、よりによって、黒沢が——
「セイジ、どうした」
背後から声をかけられて、誠司は振り向いた。ミラだった。
「いや、何でもない。ちょっと、知った顔を見た気がして——」
「知った顔?」
「……気のせいだ。たぶん」
誠司は嘘をついた。今は、誰にも話すべきではないと判断した。
しかし、黒沢は誠司に気づいた。それは確かだ。あの笑みは、偶然の一致ではない。黒沢は、誠司が誰なのかを、知っている。
「何を企んでいる……」
誠司は呟いた。
黒沢が何の目的でヴェルディアにいるのか、分からない。しかし、良いことではないだろう。前世での黒沢の性格を考えれば——
「セイジ、任務だ。集中しろ」
ミラに促されて、誠司は我に返った。
「ああ、すまない。行こう」
誠司は任務を続けた。しかし、頭の片隅では、常に黒沢のことを考えていた。
その夜、誠司は宿舎で一人、考え込んでいた。
黒沢がこの世界にいる。それだけでも衝撃だったが、問題はそれだけではない。
黒沢は、ヴェルディア帝国の貴族だ。それも、外交使節団に加わるほどの地位にいる。つまり、帝国内で相当の権力を持っているということだ。
前世では、誠司の上司に過ぎなかった男が、この世界では一国の有力者になっている。その逆転した立場が、誠司には不気味に感じられた。
「何をしに来たんだ……」
工作活動との関連も、疑わしい。黒沢が工作活動を指揮していた可能性は十分にある。彼の性格から考えて、そういったことに手を染めることは、全くあり得ないことではない。
翌日、誠司は使節団の動向を探ることにした。
公式のスケジュールでは、使節団は政府高官との会談を行うことになっていた。しかし、誠司が知りたいのは、公式の予定ではない。非公式の行動——特に、黒沢の動きだ。
誠司は、施設の昇降機構の点検を口実に、使節団の宿泊棟に入った。廊下を歩きながら、耳を澄ませる。
「……ヴァルトの報告では、主要施設の七割に細工が完了しているとのことです」
声が聞こえた。会議室からだ。
「七割か。予定より遅れているな」
別の声が答えた。この声は——黒沢だ。
「申し訳ありません。先日の発覚で、警戒が強化されました。それで——」
「言い訳はいい。残りの三割は、どうなっている」
「現在、工作員を増派して——」
「間に合わせろ。開戦までに、塔の昇降機構を全て無力化する。それが、我々の任務だ」
誠司は息を呑んだ。
やはり、黒沢が工作活動を指揮していた。そして、開戦——戦争が、近いということだ。
「シュヴァルツ伯爵」
別の声が呼びかけた。シュヴァルツ——ドイツ語で「黒」を意味する。黒沢の、この世界での名前だろう。
「何だ」
「先ほど、ロビーで見かけた人物についてですが——」
「ああ、あの少年か」
黒沢——シュヴァルツの声に、笑いが混じった。
「知っている顔だ。前の世界で、俺の下で働いていた男だ」
「前の世界……?」
「気にするな。ただの個人的な因縁だ。しかし——」
シュヴァルツは一拍置いた。
「あの男が昇降士になっているのは、興味深い。監視を続けろ。何か面白いことが分かるかもしれん」
誠司は、静かにその場を離れた。
黒沢は、誠司のことを完全に把握している。そして、監視を命じた。
状況は、誠司が思っていたより、はるかに深刻だった。
その夜、誠司はガルドに報告した。
「使節団の中に、工作活動の指揮官がいます」
「何だと?」
「シュヴァルツ伯爵という男です。会話を聞きました。開戦までに、塔の昇降機構を全て無力化すると——」
ガルドの顔が険しくなった。
「確かなのか」
「間違いありません。俺は、あの男を知っています」
「知っている?」
「……長い話になります。ただ、あの男は信用できません。この世界でも、前の世界でも」
ガルドは誠司を見つめた。
「お前、何か隠していることがあるな」
誠司は黙った。転生のことを話すべきか、迷った。
「……信じてもらえるか分かりませんが——」
誠司は、自分が転生者であることを、初めて誰かに打ち明けた。前世のこと、エレベーター保守員だったこと、黒沢という上司がいたこと。そして、その黒沢が、この世界でシュヴァルツとして転生していること。
ガルドは黙って聞いていた。
「……にわかには信じがたい話だな」
「分かっています。でも、これが事実です」
「しかし——」
ガルドは腕を組んだ。
「お前の能力の説明にはなる。『五感の診断』がどこから来たのか、ずっと疑問だった。前世の技術だったのなら、納得がいく」
「信じてくれるんですか」
「信じるかどうかは別として、お前の報告は真剣に受け止める。シュヴァルツが工作活動の指揮官なら、対策が必要だ」
ガルドは立ち上がった。
「この情報は、上層部に報告する。お前は、引き続き監視を続けろ。ただし、気をつけろ。お前も、監視されている」
「分かっています」
「そして——」
ガルドは誠司の肩を叩いた。
「お前の過去が何であれ、今のお前は、俺の部下だ。それは変わらない」
誠司は頷いた。
「ありがとうございます」
誠司は執務室を出た。
黒沢——シュヴァルツ——との因縁が、この世界でも続くことになった。
しかし、今度は、誠司は一人ではない。仲間がいる。技術がある。この世界で築いてきたものがある。
「今度こそ、負けない」
誠司は、静かに決意を固めた。




