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エレベーター保守員異世界転生_昇降士は最下層から這い上がる ~異世界でも点検は怠りません~  作者: もしものべりすと


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第一章 点検は命を守る仕事

午前五時四十七分。


高森誠司の一日は、目覚まし時計が鳴る三分前に始まる。


狭いワンルームマンションの天井を見上げながら、彼は今日の作業予定を頭の中で反芻していた。午前中に二件の定期点検、午後から一件の修理対応。移動時間を含めると、昼食は車内で済ませることになるだろう。いつものことだ。


布団から這い出し、カーテンを開ける。十一月の東京は、まだ夜明け前の薄闇に包まれていた。向かいのマンションの非常階段に取り付けられた蛍光灯が、青白い光を放っている。その光が、誠司の部屋の窓ガラスに反射して、彼の顔を照らした。


三十二歳。独身。趣味は特になし。


鏡に映る自分の顔を見ながら、誠司は歯を磨いた。目の下には薄い隈ができている。昨夜は緊急呼び出しで午前二時まで作業をしていた。閉じ込め事故——Loss of Use(LoU)と業界では呼ぶ——が発生し、エレベーター内に三人の乗客が取り残されていたのだ。


救出自体は三十分で完了した。しかし、その後の報告書作成と、顧客への説明に時間を取られた。エレベーターが止まった原因は、制御基板の経年劣化。本来なら定期点検で交換を推奨すべき部品だったが、建物のオーナーは「まだ動くなら」と交換を先延ばしにしていた。


「だから言ったのに」


誠司は口の中で呟いた。泡立った歯磨き粉が、洗面台に落ちる。


予防保全という概念は、この国ではなかなか根付かない。壊れてから直す。それが当たり前だと思っている人間が多すぎる。しかし、エレベーターは人の命を乗せて動く機械だ。壊れてからでは遅い場合がある。


顔を洗い、髭を剃り、作業着に着替える。紺色の作業服には、会社のロゴが胸元に刺繍されている。独立系のメンテナンス会社——大手メーカーの系列ではない、保守専門の企業だ。誠司が入社して十年になる。


冷蔵庫から昨夜の残りの米を取り出し、電子レンジで温める。納豆をかき混ぜながら、テレビのニュースを流し見する。政治家の汚職、海外の紛争、天気予報。どれも自分の生活とは遠い世界の出来事のように感じられた。


六時三十分、アパートを出る。


駐車場に停めてある軽のバン——サービスカーと呼ばれる社用車——に乗り込み、エンジンをかけた。荷台には工具箱、テスター、予備の部品類が整然と積まれている。誠司は毎朝、これらの在庫を確認してから出発するのが習慣だった。


「ロープグリス、予備のヒューズ、テスター……よし」


独り言を呟きながら、チェックリストを頭の中で消化していく。この習慣は、入社一年目の頃に叩き込まれたものだ。現場に着いてから「あれがない」では話にならない。往復の時間、顧客の信頼、すべてが無駄になる。


車を走らせながら、誠司は今日最初の現場のことを考えていた。築三十五年のオフィスビル。油圧式エレベーターが二基。前回の点検で、シリンダーからの微量なオイル漏れを確認している。今日はその経過観察と、ロープの摩耗状況の確認が主な作業になるはずだ。


首都高速に乗る。平日の早朝とはいえ、すでに車の流れは滞り始めていた。誠司はラジオをつけ、交通情報を聞きながらハンドルを握った。


「……中央環状線、内回りは葛西ジャンクション付近で渋滞が発生しています。通過に約二十分——」


舌打ちをして、誠司はルートの変更を検討した。下道を使えば時間はかかるが、渋滞に巻き込まれるよりはましだ。しかし、午前中のスケジュールを考えると、あまり余裕はない。


結局、高速を降りて一般道を走ることにした。住宅街を抜け、商店街を通り、大きな交差点で右折する。見慣れた景色が窓の外を流れていく。


誠司がこの仕事を選んだのは、特別な理由があったわけではない。高校を卒業して、何となく技術系の仕事に就きたいと思い、求人広告で見つけたのがこの会社だった。面接で「エレベーターに興味はありますか」と聞かれ、「乗ったことはあります」と答えた記憶がある。それでも採用されたのは、当時の人手不足のおかげだろう。


最初の三年は、ただ先輩の後についていくだけだった。工具の名前を覚え、部品の役割を学び、安全確認の手順を身体に叩き込んだ。エレベーターという機械が、どれほど複雑で、どれほど危険を内包しているかを、身をもって知った。


昇降路の中は、外からは想像もつかない世界だ。


暗闘と油の匂い。金属が擦れ合う音。何十メートルもの縦穴の中を、巨大な鉄の箱が上下する。その箱には、何人もの人間が乗っている。彼らは何も考えずにボタンを押し、目的の階に着くのを待つ。その「当たり前」を支えているのが、誠司たちの仕事だった。


七時四十五分、会社に到着。


営業所は、工業地帯の一角にある二階建ての建物だった。一階が倉庫と車庫、二階が事務所という構造になっている。駐車場には、すでに数台のサービスカーが停まっていた。


「おはようございます」


事務所に入ると、数人の同僚が朝の準備をしていた。誠司は自分のデスクに向かい、パソコンを起動して今日のスケジュールを確認する。


「高森、ちょっと来い」


声をかけられて振り向くと、課長の黒沢が立っていた。五十代半ば、がっしりした体格に、油断のない目つき。誠司の直属の上司であり、この営業所で最も勤続年数の長い人物だった。


「はい、何でしょうか」


「昨夜の件、報告書見たぞ」


黒沢の声には、明らかな不満が滲んでいた。誠司は背筋を伸ばし、相手の目を見た。


「何か問題がありましたか」


「問題? 問題だらけだ」


黒沢は報告書のコピーを誠司の胸に押し付けた。


「お前、ここに『制御基板の交換を再度推奨』と書いてるな。これ、前回の点検報告にも同じこと書いてあるぞ」


「はい。オーナー様が交換を見送られたので——」


「だったら、もっと強く言えよ。何のために現場に行ってんだ」


誠司は唇を噛んだ。強く言った。何度も言った。しかし、最終的な判断は顧客に委ねられる。それが保守契約の原則だ。


「黒沢課長、POG契約では部品の交換は別途見積もりになります。オーナー様のご判断で——」


「そんなことは分かってる」


黒沢は誠司の言葉を遮った。


「だがな、事故が起きたら誰の責任だ? 会社の信用に関わるんだぞ。お前みたいな奴は、そういうことを考えないから困るんだ」


周囲の同僚たちが、さりげなく視線を逸らしている。この光景は珍しくない。黒沢は誠司に対して、特に厳しい態度を取ることで知られていた。


「申し訳ありません」


誠司は頭を下げた。反論しても無駄だと、十年の経験が教えていた。黒沢は「正論」を武器にする人間だ。しかし、その正論は常に自分に都合の良い方向を向いている。


「まあいい。今日の予定は確認したな?」


「はい。午前中に二件、午後に一件です」


「午後の一件、キャンセルになった。代わりに、こっちを回れ」


黒沢がメモを渡す。見覚えのない住所と、ビル名が書かれていた。


「これは……」


「新規の物件だ。前の業者がトラブって、うちに乗り換えたいって話。まずは現調に行ってこい」


現調——現地調査の略。新規契約の前に、エレベーターの状態を確認し、見積もりを作成するための作業だ。本来なら営業担当の仕事だが、技術的な判断が必要な場合はエンジニアが同行することもある。


「営業の方は——」


「いない。人手が足りねえんだよ。お前一人で行け」


誠司は内心でため息をついた。現調は時間がかかる。午前中の点検を終えてから向かうと、帰社は夜になるだろう。


「分かりました」


「それから、例の件」


黒沢が声を低くした。


「来月の人事、お前の名前は上がってねえぞ」


誠司の心臓が、一瞬だけ跳ねた。


来月の人事——主任への昇格のことだ。誠司と同期の何人かが候補に挙がっていると、噂で聞いていた。十年働いて、そろそろ自分にも順番が回ってくるかと思っていたが。


「そうですか」


「『そうですか』じゃねえよ。お前、もう三十過ぎてるだろ。いつまで下っ端やってるつもりだ」


黒沢の言葉には、侮蔑が混じっていた。


「お前みたいな奴は、一生、油まみれで這いずり回ってろ。それがお似合いだ」


誠司は何も言わなかった。言い返す言葉が見つからなかったわけではない。ただ、言っても無駄だと分かっていた。


黒沢は鼻を鳴らして去っていった。


誠司は自分のデスクに戻り、パソコンの画面を見つめた。スケジュール表には、今日の予定がびっしりと詰まっている。文字が少しぼやけて見えた。


「高森さん、大丈夫ですか?」


隣のデスクから声をかけられた。入社三年目の後輩、田中だ。まだ二十代前半の、人の良さそうな青年だった。


「ああ、大丈夫。いつものことだから」


「いつものこと、って……」


田中が言葉を濁す。誠司は苦笑した。


「気にするな。さ、朝礼だ」


八時になると、全員が集まって朝礼が始まった。安全唱和、スケジュールの確認、連絡事項。形式的な儀式だが、これがなければ一日が始まらない気がする。誠司は声を出しながら、頭の中では別のことを考えていた。


なぜ自分は、こんな仕事を続けているのだろう。


給料は悪くない。残業代もきちんと出る。しかし、それだけだ。やりがい、達成感、将来への希望。そういったものを、最後に感じたのはいつだっただろう。


朝礼が終わり、各自が現場へと散っていく。誠司もサービスカーに乗り込み、最初の現場へと向かった。


午前中の点検は、予定通りに進んだ。


築三十五年のオフィスビル。油圧式エレベーター二基。前回確認したシリンダーからのオイル漏れは、わずかに進行していた。パッキンの交換が必要だ。報告書に記載し、オーナーへの連絡を事務所に依頼するメールを送る。


二件目は、マンションのロープ式エレベーター。こちらは特に異常なし。定期点検のルーチンをこなし、住民の立ち会いのもとで完了報告を行う。


「いつもありがとうございます」


管理人の老婦人が、缶コーヒーを差し出してくれた。誠司は礼を言って受け取った。こういう瞬間だけが、この仕事をしていて良かったと思える時間だった。


昼食は、コンビニで買ったおにぎりを車内で食べた。ラジオからは、正午のニュースが流れている。誠司はおにぎりを頬張りながら、午後の現調のことを考えていた。


黒沢から渡されたメモを見る。住所は、都心から少し離れた場所にある商業ビル。新規の物件ということは、他社からの乗り換えだ。何かトラブルがあったのだろう。前の業者との契約内容や、エレベーターの状態を確認する必要がある。


十三時、現調先のビルに到着。


七階建ての中規模な商業施設だった。一階から三階がテナント、四階以上がオフィスという構造らしい。エレベーターは二基あり、どちらも二十年以上前の機種だった。


ビルの管理室で、担当者と顔を合わせる。五十代くらいの、神経質そうな男性だった。


「お待ちしておりました。前の業者があまりに対応が悪くて……」


「どのような問題がありましたか?」


「呼んでも来ない、来ても直らない、報告書は適当。最後は連絡すら取れなくなって」


誠司は頷きながら、メモを取った。よくある話だった。安い契約料を売りにする業者の中には、こういったトラブルを起こすところもある。


「現在、エレベーターは稼働していますか?」


「一基は動いています。もう一基は、先月から止まったままで……」


「止まっている理由は?」


「分かりません。前の業者は『部品がない』と言っていましたが」


誠司は眉をひそめた。「部品がない」というのは、よく使われる言い訳だ。本当にない場合もあるが、単に手配を怠っているだけのことも多い。


「では、まず現状を確認させてください」


管理室の鍵を借りて、誠司はエレベーターの点検を開始した。


動いている方の一基は、外観上は問題なさそうだった。しかし、乗ってみると、微かな振動を感じる。ドアが閉まる音も、わずかに歪んでいる。誠司は機械室に入り、各部を確認した。


「ガイドシューの摩耗……それから、ワイヤーロープの緩み」


独り言を呟きながら、状態を記録していく。どちらも深刻ではないが、放置すれば悪化する。やはり、前の業者の点検は雑だったようだ。


次に、止まっている方のエレベーターを確認する。制御盤を開けると、すぐに原因が分かった。


「これは……」


基板の一部が焼けている。過電流が流れた痕跡だ。原因を特定するには詳しい調査が必要だが、部品の交換で復旧できる可能性は高い。


「部品がない、か」


誠司は苦笑した。この機種の制御基板なら、発注すれば一週間で届く。メーカーに在庫がなくても、互換品で対応できる。「部品がない」というのは、やはり言い訳だったのだろう。


報告書を作成し、見積もりの概算を出す。管理担当者に説明すると、彼は安堵の表情を浮かべた。


「本当ですか? 直るんですか?」


「はい。正式な見積もりは後日お送りしますが、復旧は可能だと思います」


「ありがとうございます。前の業者は、もう無理だから入れ替えるしかないって言ってたんです」


入れ替え——リニューアル工事は、数百万から数千万円かかる。修理で済むものを入れ替えさせようとするのは、悪質な業者の常套手段だ。


「定期的な点検と、適切なメンテナンスを行えば、このエレベーターはまだ十年は使えますよ」


誠司はそう言いながら、心の中で付け加えた。だから、予防保全が大事なんだ、と。


現調を終えて、ビルを出たのは十六時過ぎだった。空は曇り始めていた。天気予報では、夜から雨になると言っていた。


サービスカーに戻り、事務所に連絡を入れる。報告と、明日以降のスケジュール調整のためだ。


「高森です。現調、終わりました。復旧可能です。見積もりは——」


電話の向こうで、事務員の声が遮った。


「高森さん、大変です。緊急の閉じ込めが発生しました」


誠司の表情が引き締まる。


「場所は?」


「新宿区の——」


住所を聞いて、誠司は地図を思い浮かべた。今いる場所から、車で三十分ほどの距離だ。


「現場に急行します」


「お願いします。他の技術員は全員出払っていて——」


「分かりました」


電話を切り、誠司はエンジンをかけた。


閉じ込め事故——エレベーターの中に人が閉じ込められる事故——は、この仕事で最も緊急性の高い案件だ。乗客の安全、精神的な不安、建物の機能停止。一刻も早い対応が求められる。


誠司は車を走らせながら、救出の手順を頭の中で確認した。


まず、インターホンで乗客との通信を確立する。状態を確認し、落ち着かせる。次に、エレベーターの停止位置を特定する。階床との位置関係によって、救出の方法が変わる。


最も一般的なのは、手動でかごを階床まで移動させ、ドアを開ける方法だ。しかし、それが不可能な場合もある。そのときは——


「HHK」


誠司は無意識に呟いた。


外す、広げる、壊す。


救出の三原則。新人研修で何度も叩き込まれた手順だ。


「H」は、外す(Hazusu)。カバーやプレートを取り外し、アクセスを確保する。


「H」は、広げる(Hirogeru)。ジャッキや専用工具で隙間を拡張する。


「K」は、壊す(Kowasu)。最終手段として、バールやカッターで構造物を物理的に破壊する。


人命が最優先。機械は後から直せばいい。誠司は、その言葉を胸に刻んでいた。


十七時前、現場に到着。


十二階建てのオフィスビル。エレベーターは三基あり、そのうちの一基に閉じ込めが発生していた。ビルの管理人が、青い顔で誠司を出迎えた。


「よかった、来てくれて。中には女性が一人……」


「状況を教えてください」


「五階と六階の間で止まっています。動かないんです。インターホンは通じますが、女性はパニック状態で——」


誠司は頷いて、エレベーターホールに向かった。閉じ込められている機の前で、インターホンのボタンを押す。


「こちら、保守会社の高森と申します。大丈夫ですか?」


「……助けて、ください」


若い女性の声が、スピーカーから聞こえた。震えている。


「大丈夫です。必ず助けますから。今、状況を確認しています。少しだけお待ちください」


「……は、い……」


誠司は機械室へと急いだ。階段を駆け上がり、屋上階のドアを開ける。機械室の鍵は、管理人から借りていた。


機械室の中は、かすかに油と金属の匂いがした。巻上機、制御盤、各種のケーブル。誠司は手際よく状況を確認していく。


「停止原因は……セーフティのトリップか」


安全装置が作動して、エレベーターが緊急停止したようだ。原因は後で調べるとして、まずは救出が先だ。


誠司は制御盤を操作し、かごの位置を確認した。五階と六階の間、ちょうど中間あたり。手動で六階まで上げることができれば、ドアを開けて救出できる。


しかし、手動運転を試みても、かごは動かなかった。


「何か引っかかってる……?」


誠司は昇降路の点検口を開けて、中を覗き込んだ。暗闘の中に、エレベーターのかごが見える。その側面に、何かが挟まっているようだった。


「これは……」


荷物だ。誰かがドアに挟んだか、落としたか。それが引っかかって、かごの動きを妨げている。


誠司は判断した。


昇降路に入って、直接確認する必要がある。


「HHK——まずは『外す』から」


点検口の蓋を完全に外し、安全帯を装着する。ヘッドライトを点けて、昇降路の中へと身体を入れた。


狭い。暗い。油の匂いが濃くなる。


誠司は梯子を伝って、かごの位置まで降りていった。近づくにつれて、状況が分かってきた。


段ボール箱だ。誰かが運ぼうとして落としたのか、かごと壁の間に挟まっている。それがガイドレールに干渉して、かごの動きを止めていた。


「これを『外せ』ば——」


誠司は手を伸ばした。指先が段ボールに触れる。引っ張れば取れそうだ。


しかし、その瞬間——


足元の梯子が、軋んだ。


「——っ!」


古い建物だった。梯子も、取り付けられてから何十年も経っている。誠司の体重を支えきれなかったのか、固定しているボルトが一本、外れた。


バランスを崩す。


暗闇の中で、誠司の身体が傾いた。とっさに手を伸ばして、何かを掴もうとする。指先がケーブルに触れた。しかし、握りしめることができなかった。


落ちる。


それは、ほんの数秒の出来事だった。


誠司の身体は、昇降路の底——ピット——に向かって落下していった。暗闘の中を、まるでスローモーションのように。


頭の中に、いろいろな記憶が浮かんだ。


入社一年目、初めて昇降路に入ったときの恐怖。先輩に怒鳴られながら、必死で覚えた安全確認の手順。閉じ込めから救出した乗客の「ありがとう」という言葉。黒沢課長の「油まみれで這いずり回ってろ」という侮蔑。


そして——


「点検は、命を守る仕事だ」


いつか誰かに言われた言葉が、最後に脳裏をよぎった。


衝撃。


暗転。


高森誠司、三十二歳。


彼の人生は、そこで終わるはずだった。


しかし——


目を開けたとき、誠司は見知らぬ場所にいた。


最初に感じたのは、光だった。


眩しいわけではない。ただ、今まで見たことのない種類の光だった。青白く、かすかに揺らいでいる。まるで深い水の底から見上げた太陽のような。


次に感じたのは、音だった。


低い、重い、地の底から響いてくるような振動。規則的に繰り返される。それは——機械の音だ。何かが動いている。ずっと遠くで、何かが。


そして、匂い。


油と、金属と、埃。どこか懐かしいような。しかし、どこか違う。知っているのに、知らない匂い。


誠司は自分の身体を見下ろした。


両手がある。両足もある。作業着は——ない。代わりに、粗末な布の服を着ていた。


「……何だ、これは」


声を出して、驚いた。声が違う。高い。若い。


自分の手を見る。小さい。まだ肉のついていない、細い指。


自分の身体を触る。背が低い。肩幅も狭い。子供の身体だ。十歳か、十一歳か。


「死んだ……はず、だろ」


落下した。昇降路のピットに。安全帯は外れていた。あの高さから落ちて、無事なはずがない。


では、これは何だ。夢か。死後の世界か。


誠司は周囲を見回した。


狭い部屋だった。石の壁、石の床、石の天井。窓はなく、明かりは壁に取り付けられた何かから発せられている。青白く光る鉱石のようなものだ。


部屋の隅には、藁を敷いた粗末な寝床があった。誠司は、そこに横たわっていたらしい。


「ここは——」


部屋の外から、足音が聞こえた。


誠司は反射的に身構えた。しかし、この身体は思うように動かない。筋肉が、反応速度が、すべてが違う。


木の扉が開いた。


入ってきたのは、中年の男だった。痩せこけた顔、疲れた目、汚れた衣服。そして——


鎖。


男の足首には、鉄の鎖がつながっていた。


「セイジ、起きたか」


男は誠司に向かってそう言った。


セイジ。


それが、この身体の名前らしい。


「お前、また熱を出したんだぞ。二日も寝てた」


男の言葉は、日本語だった。いや、日本語ではない。違う言語のはずだ。しかし、なぜか意味が分かる。


「……ここは、どこだ」


誠司は聞いた。男は怪訝そうな顔をした。


「どこって……塔の最下層に決まってるだろう。頭でも打ったか?」


塔。


最下層。


誠司は、自分が全く知らない場所にいることを理解した。


「俺は……」


「お前は奴隷のセイジだ。俺と同じ、鉱石運びの」


男は疲れた声で言った。


「早く起きろ。休んでいい時間はもう終わりだ。仕事に戻るぞ」


奴隷。


その言葉が、誠司の胸に重く落ちた。


異世界。転生。奴隷。


荒唐無稽だった。漫画やゲームの中の話だった。しかし、目の前の現実は否定しようがなかった。


誠司は——いや、セイジは——立ち上がった。


足首に、冷たい金属の感触があった。鎖だ。自分もまた、繋がれているのだ。


「……分かった」


誠司は答えた。


状況を把握しなければならない。この世界のことを知らなければならない。そして——


「必ず、ここから出る」


心の中で、そう誓った。


エレベーター保守員、高森誠司。


彼の新しい人生は、塔の最下層から始まった。

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