滅びの蝶
零時。夜半の東京の空。
光るものがあった。月ではなく、星でもない。
蝶だ。巨きな翅の白い光は、新月の暗い夜を空から脅かす。
地上の人間たちは、気がついた者は連れ合いとともに夜空を見上げ、気が付かない者はいつもの夜を過ごし、あるいは明日の朝を待ちながら眠りこけている。
「さあ、時間かな」
摩天楼の頂からひしめく街の灯を眺めながら、つぶやく者があった。
やや幼さを残す少年の顔。どこの学校のものかは判然としないが、学生服を身にまとっていた。血の気の無い顔に体温を感じさせぬ青い唇。底のない黒い暗い眼に、嘲笑がわずかに滲んでいる。
「君が孵ってから15年か」
空を見上げながら少年は言う。ふわりふわりと舞う蝶は、気まぐれに見える飛び方をしながら、しかし少年を見ている。感情の見えぬ複眼の奥。蝶はーーー笑っている。表情は無くとも、確かに少年とともに、遥か下にきらめく街を嘲笑う。
「僕たちは誰かが、いつか望んだ終焉そのものだ。喜劇にしろ、悲劇にしろ、それが物語ならばフィナーレはあるだろう?ところがどうだ。人生には、この世には、延々と引き延ばされ続ける明日と、それが突然断ち切られる未完の結末しかない」
そうして人は疲弊していく。終わらぬ日常を繰り返すことを強いられながら、手にしたい結果を掴もうとして指は空を切る。
そうして生きてきた年月は、いつしか呪いに変わる。希望を目の前に吊るされながらそれを決して手に入れられないのならば。いっそ自身を含めた世界のすべてが、どうしようもない終わりに直面してくれれば。
そうすれば、どれほどマイナスに振れた人生もゼロに均すことができる。そして、その滅びは救いだ。その災いのおかげで、誰の命も責任を負わずに、仕方がなかったと言うことができる。
私は一生懸命やり、そしてダメでしたと。あたかも美しい人生だったかのように、惨めさを拭い去れる。
「僕たちが用意してあげよう。苦しみに満ちた生を終わらせるに足る、美しく特別な滅びを」
蝶の放つ光が強まっていく。
『嘆くなかれ、我等の前に、生命とはすべて無力である』
少年は呪を紡ぐ。
『憐れむなかれ、我らの前に、悲劇とはすべて祝福である』
そうしてーーー街は平らになった。
吹き荒れる斥力の暴風。地震に耐えうる鉄筋コンクリートも、この嵐の前には木の葉と何の違いもありはしない。
東京の街はまるでそれそのものが押し花のように潰され、積み上げ続けた都市の歴史ごと、塵となって消えていく。
もしももう少し、名も知らぬ誰かを思いやる行いがあれば。
もしももう少し、誰かの痛みを共に分け合えたのならば。
もしももう少し、ヒトの不完全さを赦し合えたのなら。
この夜の滅びはなかったのかも知れない。
「今さらだろう?仕方ないさ」
少年は最後に1つ残った高層ビルの屋上で笑う。
白い巨きな蝶がそこに降りてくる。ビルの外壁に留まると、少年は巨大なその蝶の頭をふわりと撫でた。そうして次の瞬間、そこにいたのが嘘のように、風に溶けるように消えていった。
記憶が確かなら高校時代の作品。
当時いわゆるセカイ系に憧れてこの手のものを多少書いた気がする。今読み返すとなかなか中二病的で恥ずかしい。どうにか読めるよう手直しをして投稿した。