第一話 プロポの電源を先に入れましょう。
さっきまで、競技台の手すりには、蜻蛉が留まっていた。
数秒後の画像の中には、蜻蛉はいなかった。私はその些細な変化に気付きつつ、気付く前と全く変化しない意識の中にいた。
何もかもが私の中にあって、何もかもが無関係だった。
ホイールに添えた指先に力が入る。
執着と焦りと楽観が、あたしの胃を締め付ける。
極端に切り詰められて押し流されていく数秒は、あれこれと積み重ね考え練習して学んだ数年間を容赦なく切り刻む。
力を抜く、リラックス。それが理想だ。だけど理想は理想に過ぎない。
濃密な瞬間においては、何もかもが意味をなさない。
滑稽だ。
何故なら、意味を持つのは、あたしが握っているプロポのステアリングホイールとスロットルトリガーの、数ミリの動き、しかないからだ。
数ミリが、世界を決するのだ。
滑稽ではないか。
「三乃、部活決めたの」
「ああ、昔からやってるから」
と、答えたけど、具体的に何か、をいうのはなんとなく気恥ずかしくてためらわれた。けど、入学して二日目に話しかけてきてくれた詠美はこだわらず、自分の話を始める。
「私は写真部に入るんだ。お父さんもやっててね、入学祝いで新しいの、買ってくれたのよ」
お父さん、という単語に心が動く。
動きを抑えて、
「へえ、いいじゃん。写真家か、かっこいいのう」
「えへ、んなことないのよ」
身の上は、そのうち話すこともあるだろう。
「詠美も、これから訪問だよね」
「うん。いってらっさい」
「いってきますいってらっしゃい」
「いてきま」
詠美も、あたし同様ひとりで目的地に向かうようだった。数人で移動するひとたちが多いように見受けられるけど、少数派なら仕方がない。
やってることは違うけど、あたしと詠美は似てるのかも知れないと思った。
さてと。
あたしの世界では、自動車模型を遠隔操縦する遊びが普及していて、小学生までには地域のクラブ活動、中学高校と進むと部活動として参加出来る。
ここまで来てしまうと、良い悪いはさておいて、遊びを越えて競技、という雰囲気が出てくる。
あたしは自動車模型を遠隔操縦する遊び、短くまとめてラジコン部に入部するつもりなのだ。
ラジコン。
乱暴に説明してしまうと、遠隔操縦できるものは何でもラジコン、と呼んでしまう傾向がある。ラジコンには、飛行機も、戦車も、ヨットまであるのだけど。
その中で、自動車模型を走らせるジャンルが広く定着しているのは、とっつきやすいからだと思う。自家用車を所有しているのは珍しくはないけど、飛行機や船はどうか、という話とあまり変わらない、のではないだろうか。
こんな話を始めると、そもそもラジコン、ラジオコントロール、ラジオ使ってないじゃん、というところまで行き着くのだけど、今は用がないから丸めて捨てておく。
わさわさとした廊下を、あたしもひとりで進む。
何かの漫画で見たような、部活の勧誘はない学校だった。でも、各部発行のパンフレットが配られていて、そこに記されていた案内に従って部室を訪ねる。
ノック。
「どうぞ」
「失礼します」
入室と同時に、嗅ぎ慣れた匂いが鼻腔に触る。各種油脂、樹脂、溶剤、金属、電流が流れて加熱した金属、化学反応したバッテリー。
ひとかげは三っつ。ものなれた仕草を見ると、先輩たちなのだろう。
「入部希望かな」
美しい黒髪が胸元まで伸びた女性が、小型のプロポを操りながら言う。
制服を着ている女の子に向かって女性はおかしい。でもそのときは、そんな感じがぴったりの、大人の女性に見えた。先輩とは言え、数年しか違わないのに。
彼女の視線の先には、教室で見慣れた机がいくつか合わされて作られたステージがある。小さなパイロンが立てられ、小型のラジコンがぬるぬると走り回る。
キョウセイのミニッチ。小さいけれど本格的なシステムを備えている。
このぬるぬるとした感覚というのは、操縦に慣れたひとに共通したものだ。スムーズな動き、といえば、理解はしやすいだろう。
「はい、よろしくお願いします」
上手なひとにお上手ですねというのもしらじらしいので、必要な分量だけを答える。そもそも新入部員に向けてのデモンストレーションなんだろうし。
「じゃあ、ここに座って、名前と学年を書いてね。あと、お茶どうぞ」
もうひとりの、短髪で大柄な先輩が、ペットボトルと書類の載った机の椅子を引いてくれている。
「ありがとうございます」
書類には、名前と学年の他に経験年数などを書き込む欄があった。
自分のことを露わにするのには、躊躇いが生じる。あまり意味がないと理解はしているのだけど、ともあれ躊躇いつつ、正直に経験年数を書き込む。
幼い頃から始めた遊びだけど、ブランクが結構あった。
書き込み終えた書類を机の上で滑らすと、大柄な先輩はつまみ上げて読む。
「いぬい、みの、さんだそうです、部長」
「いぬい、乾、乾くの乾でいいのかな」
濡れたような黒髪の先輩が答える。部長なのか。やっぱりなという感じではある。
名前を呼ばれて、やや緊張する。落ち着くために、部長が操作するクルマの動きを追いつつ返事。
「はい」
「どこかで」
クルマの動きが止まり、視線が向けられているのを感じて顔を上げる。
部長はあたしを見たけど、ほんの僅かな時間だった。
「ま、いいか。いずれわかるのだし。部長の木佐貫香織だ。よろしく」
いずれわかられて困るような過去はなにもないと思うのだけど、このひとに言われるとなんだかなにかあったかしらという気持ちになる。
なにもないのにどぎまぎしていると、大柄の先輩が助け舟のように声をかけてくれる。
「私は舟渡園子。部長も私も二年生。あとひとりいて、そいつも二年生。乾さんを入れて、四人の部だね」
三年生はいないのか。多いのか少ないのかもよくわからない。体育会系と比べたら話にならないのはわかる。
「そうですか、よろしくお願いします」
と無難に答えたところでががっと扉が開く。と同時になんとなく尖った声。
「ううっす。おっ、新入部員か。よかったね部長。で、誰ちゃん」
と、あたしを見る。髪の毛の長さは、部長と園子先輩のちょうど中間くらい。
「乾といいます。よろしくお願いします」
喋っている間にずんずんと進み、園子先輩の手から書類を取って視線を走らせている。
「みのちゃんね。私は都筑佳苗。よろしくね。経験四年ってことは、中学でもやってたん」
「いえ」
中学校生活の期間がそのままブランクである。全く触りもしなかったというのではないけれど、ここにいるひとたちからしたら、ブランクという他ないだろうと思われる程度。
「んじゃ、久しぶりにって感じなんかな。クルマは持ってんの」
「はい。今日は持ってきてはいませんが」
「え、どこのなに」
香苗先輩は椅子を引っ張ってきてあたしが向かっている机の隣に設置し、どか、と座り、あたしの頭の中を覗き込むかのような距離で聴いてくる。
「香苗ぇ、行き過ぎ行き過ぎ。乾さん引いてるよ」
と、園子先輩。香織部長も難あり、という目を向けている。
「いえ、大丈夫ですよ」
と、答えたにも関わらず、香苗先輩は自分がした質問に対する興味をなくしているようだった。
「んじゃおいおいよろしくね。喉乾いた、私にもお茶ちょうだい」
「まったく」
ため息を付きつつ、園子先輩は小さな冷蔵庫からペットボトルを取り出して渡す。
「こんなメンツの部だけど、大丈夫かしら。腕はどこにも引けは取らないと思うけど」
と、部長。部長の視線と同時に、クルマの視線もこちらを向く。
覚悟を、問われているかのようだった。まるで見透かすかのように。
「よろしく、お願いします」
充電は充分だ。充分すぎるほどだ。
ラジコン初心者なのに書いてしまいました。
覚束ないので今のところ不定期です。
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