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 大通りから少し外れたところに教会がある。周りの現代的な建物にはそぐわない、木造で白いペンキの塗られたカトリックの教会。この達平(たっひら)市の唯一のカトリック教会だ。

 放課後、無気力になると少女──蝉木(せみぎ) 詞音(しのん)はここに来る。今日のようななんともない平日の真ん中なんて誰もいない。それに、神聖さを感じるこの場所でぼぅっとすると、なんだか心が洗われる気がする。だから今日も一人の空間を堪能しようと思い、常時鍵の開かれた扉を開けた……そうしたら、なんと玄関に一足のブーツがあった。元々この教会は土足厳禁で、日曜のミサになると無造作に靴が置かれている。だとしても、この女性ものの丈の長いブーツなんて見たことがない。ローファーを隣に並べる。詞音は少し迷ったが、まぁいいかなんて思って、けれど恐る恐る玄関と聖堂とを区切る押し扉をゆっくり開けた。

 すると、中には群青色の長髪をした女性が長椅子の列の中で佇んでいた。詞音に気がついていないのだろうか、中央奥にある十字架を見つめたまま動かない。電球の明かりは着いておらず、窓の上部にある小さなステンドグラス越しに入る光が女性を魅惑的に照らしている。

 不思議な魔力に取り憑かれて、詞音は扉を半開きにしたままその女性を見つめた。女性は変わらず偶像を見つめている。キリストが貼り付けにされている十字架、その左奥には聖母マリア像。詞音もこの教会に来たらまず見つめるものである。

 この緊迫感を打ち消したのは、五時を知らせる無声のふるさとの市内放送であった。

 反応して、女性は振り返る。──目が合った。


 片目を前髪で隠し、その下には白い眼帯を付けている。けれど、もう片方の目は月を連想させる黄色の目。そんな目の周りを妖艶に色付けして、赤いリップを付けている。服は喪服のように黒で統一されていた。普段ならばこんな片田舎で濃い化粧をする人もいるのだな、と侮蔑するところだが──この場においてグノーシス主義における女神を連想した。しかし、地上に転落したのではない、意思を持って地上に降り立った。だから、


「女神様……」


 無意識にそう零していた。女性はくすりと笑う。詞音は我に帰って、慌てて扉を閉めた。けど、やはり女性の存在が現実であるかを確認したくて、もう一度、今度はがばりと扉を開け放ち、中に入る。女性は困ったように笑っていた。


「大丈夫。女神だなんて、そんな大層な存在じゃない」


 ハキハキとして、けれども澄んでいる声。詞音の心を鷲掴みにする。


「その制服、女子高のでしょう。ここで何をしているの? あそこからは遠いでしょうに」


 長袖のブレザーをじっくりと見ながら、女性はゆっくりと詞音に近寄ってくる。


「え、っと。ここでぼーってするのが好きで……放課後はよく来るん、です……」


 言葉を捻出した。そうなの、と女性は一言返事する。一歩、一歩と近づくたびに頭は白くなって、心臓が跳ね上がり、身体はその場に張り付けにされているように強張って──。


「緊張しないで。私は別に悪魔でもない。かと言って天使でもない。私も女子高の出身なの。もう五年も前に卒業したけれど」


 先輩。私の高校の、先輩。五年前。私の六個上の先輩。詞音が思考を整理していると、女性は沈黙を掻き消すように言葉を続ける。


「今は上京して、哲学専攻の大学院生なの。宗教学とかも手を出してて、実家に帰省がてら軽い寺院巡りをしてる」


 緊張させないようにしてくれている意思を感じ、肩がすくんだ。


「あ、そうだ。私は林道(りんどう)ゆらら。……古株の先生に言えば、絶対に伝わると思う」


 何か部活で好成績を残した、とかだろうか。詞音は想像を膨らませつつ、一つ頷いてみる。そして、女神の名前を覚えるべく、


「林道先輩……」


 と、祈るように口に出す。


「よければあなたの名前も教えてちょうだい」


 先輩はある程度の距離で止まる。同じ性別であるというのに見上げるほどの背だ。

 詞音は急に恥ずかしくなって、茶色の木製の床に視線を逸らした。くっきりとした西日が窓から差している。


「蝉木詞音です」

「詞音。詞音ちゃん。可愛い名前」


 可愛い。可愛い? 頭の中で反芻する。幾度か繰り返してみると、急に胸から耳の先まで熱くなって、唇をきゅっと締めて、一歩後ずさる。


「急に下の名前で呼ばれるの嫌だった? ごめんね、距離が近いとは昔から言われる。気をつけるね、蝉木さん──」


「い、いえ! 下の名前で大丈夫です! あ、あぁ、あの、あのっ! もしよければゆらら先輩とお呼びしてもいいですか!」


 静かな教会にこだまする。ゆららは意表を突かれたと言わんばかりに目を丸くして、私は耳の先まで熱くなって。沈黙を破ったのはゆららの笑い声だった。


「ふ、うふふふふっ。いいよ。私も詞音ちゃんって呼ぶね。ありがとう」


 ゆららは「可愛いね」と付け加え、詞音の黒髪に触れた。しなやかな指が髪を優しく乱し、詞音はふんわりとした穏やかな気持ちに包まれる。

 手がどかされると、改めて見つめ合う。


「ねぇ、よければ場所を変えてお話しない?」


 正直に言えば、哲学や宗教の話に興味がある。しかし、急には……。

 というのも、詞音はここから車で一時間ほどのところに住んでいる。バスで残り三十分ほどの距離の場所まで行って、それから親の運転する車で帰る。あまり長く居座ると一時間に一本のバスに乗り遅れる、これを逃すとここまで迎えに来てもらうことになる。無論、家のある村まで行くコミュニティバスもあるのだが、送り迎えの方が良いという両親の意向だ。


「明日の学校終わりなら。……ごめんなさい、私、到原(いたりはら)に住んでて」


 そう言うと、ゆららは豆鉄砲を食らった鳩のように目を丸くした。


「そんなに遠いところから女子高に通ってるのね。そこら辺の人、みんな伏高(ふくこう)に通ってるのに。私も伏住(ふくじゅ)出身なんだけれどね」


 伏高というのは、詞音が親の車に乗り換える場所にある高校で、伏住はその地名である。


「文芸部に入りたくって……」


 と言うと、ゆららは「あぁ」と納得の声を上げた。


「確かに、この辺りで文芸部って言ったら女子高だけ」

「それに治安もいいです」

「そうだね。良い先生ばかりだしね」


 ゆららは詞音の後方、出入り口側の壁にある本棚に目を逸らした。


「それじゃぁ、明日。どこがいいかな」


 詞音はまた言葉に詰まった。きっとゆらら先輩は繁華街の方のカフェだとかに行きたいのだろう。けれど、どうせなら……。


「よければここで……お話したいです」


 二人の邂逅を誰にも邪魔されたくない。


「いいよ。明日、この場所で」


 ゆららは柔らかく微笑む。ゆららの後方にあるマリア像の微笑みと重なった。


 この後ゆららは寺院巡りを続けると言って詞音と別の道に行った。尊敬の目を向ける。

 帰りのバスの中で、詞音は結局一人の時間が無かったな、と回想した。しかし負の感情は無い。むしろ連絡先を聞くのを忘れた、と後悔するほどである。

 神秘的な夜の髪と目、体躯──そして色白な肌。髪に優しく触れる手の触感を思い返し、そっと頬を赤くした。

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