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『これでいいんだろ、運営さん』

 

 蛍光灯が瞬いた。佐藤健太は喫茶店の窓際の席で、淹れたてのコーヒーから立ち上る蒸気を見つめていた。先週から届き始めた奇妙な手紙のことを考えていた。


『あなたは監視されています。』


 最初は悪質ないたずらだと思った。しかし三通目が届いた時、彼の心に不安が芽生え始めていた。手紙には彼の行動が細かく記録されていた。「昨日の19時23分、あなたはコンビニで缶コーヒーと塩おにぎりを購入しました」「本日9時47分、部屋の電気を消し忘れたまま外出しました」


 誰かが自分を見ている。


 その事実に気づいてからというもの、佐藤は常に誰かに見られているような感覚に苛まれていた。背後から視線を感じると振り返っても、そこには何もない。夜、カーテンの隙間から覗く闇に、誰かの気配を感じることもあった。


 喫茶店のドアがガラス越しに静かに開き、一人の男が入ってきた。中肉中背、黒のスーツに身を包んだ無個性な風貌。しかし、その男が佐藤を見た瞬間、不自然な微笑みを浮かべた。佐藤は思わず目を逸らしたが、その男は確かに自分のテーブルに向かって歩いてきていた。


「佐藤さん、お久しぶりですね」


 男の声は妙に柔らかく、まるで古くからの知人に話しかけるような親しみがあった。佐藤は動揺を隠せなかった。


「あなたは誰ですか?」


 男はゆっくりと椅子に腰掛け、テーブルに両手を置いた。その指先はやけに長く、不自然に白かった。


「私のことは『運営さん』と呼んでください。あなたは手紙に書かれていた通り、私たちの監視下にあります。いいですか?佐藤さん?」


 佐藤は言葉を失い、ただ運営さんの語る言葉に耳を傾けるしかなかった。彼の声は耳に心地よく響いたが、それが逆に不気味さを増していた。


「それでは、佐藤さん。最初の指示です。モヒカンにしてください」


 佐藤は思わず吹き出しそうになった。これは何かの冗談だろうか。しかし、運営さんの表情は変わらず、その目は常に佐藤を捉えていた。


「いや、それはちょっと…なぜそんなことを頼まれるんですか?」


 運営さんの笑顔が少し歪んだ。


「佐藤さん、私たちの実験に協力していただくことはあなたにとっても重要なことです。モヒカンにすることで、新たな視点から日常を見つめ直す機会をあなたに提供できるのです」


 佐藤は自分の耳を疑った。実験?視点?どういうことだろう。彼は頑なに拒否した。


「でも、なぜこんなことをする必要があるんですか?意味がわかりません」


 その瞬間、佐藤の周りの照明が一瞬にして消え、喫茶店は奇妙な沈黙に包まれた。運営さんの顔だけが暗闇の中で浮かび上がり、その微笑みは不気味な形相へと変わっていた。佐藤の心臓が早鐘を打った。


 一瞬の沈黙の後、照明が戻った。佐藤は周囲を見回して凍りついた。喫茶店の客たちは全員、彼に向かって無表情でじっと見つめていた。老婦人も、若いカップルも、店員も、一様に佐藤を見ていた。しかし、運営さんの姿はどこにもなかった。


 佐藤は震える手でコーヒーカップを持ち上げ、一気に飲み干した。その熱さで喉を焼きながらも、早急にその場を離れなければという焦燥感に駆られていた。彼は財布から料金を取り出し、テーブルに置くと、店を出た。


 外に出ても、状況は変わらなかった。歩道を行き交う人々は一様に彼を見つめていた。誰も何も言わない。ただじっと見る。信号待ちの人々、店のショーウィンドウを覗く人々、自転車で通り過ぎる学生たち。全員が無言で佐藤を見つめていた。


(あの運営さんの言う通りにしないといけないのか…)


 心臓の鼓動が耳に響いていた。佐藤は急いでアパートに戻り、ドアを閉めてカーテンを引いた。しかし、カーテンの向こうからも、誰かが自分を見ているような気配が消えなかった。


 その夜、佐藤は眠れなかった。天井を見つめながら、運営さんの言葉が頭の中で繰り返し響いていた。


 翌朝、佐藤はアパートを出て、街を歩いていた。昨日と同様、人々は彼を無言で見つめていた。それは偶然ではなく、明らかに意図的なものだった。


「佐藤さん、お久しぶりです」


 振り返ると、運営さんがいた。昨日と同じスーツ姿で、同じ不自然な微笑みを浮かべていた。


「どうしてモヒカンにしないんですか?」


 佐藤は戸惑いながらも、心の中で決意を固めていた。


「私、もうこれ以上、この無言の圧に耐えられないんです。何か助けてください」


 運営さんは満足そうに頷いた。


「それでは、モヒカンにしてみましょう」


 ◇


 美容室のドアを開けた時、佐藤は不安と抵抗の入り混じった感情を抱えていた。美容師は特に驚いた様子もなく「モヒカンですね」と確認し、作業を始めた。


 バリカンの音が耳元で響く。床に落ちる髪の束。鏡に映る自分の姿が徐々に変わっていく様子。佐藤は恐怖と諦めの入り混じった感情で、その変化を見守っていた。


(これであの無言の圧はなくなるのか)


 髪型が完成し、佐藤は鏡の中の自分を見て息を飲んだ。頭頂部だけを残して両側を刈り上げた姿は、まるで別人のようだった。美容室を出ると、彼はためらいながら街に足を踏み入れた。


 驚くべきことに、今度は誰も彼を見つめなかった。人々は通常通り、彼を素通りしていった。佐藤は不思議な解放感を覚えながらも、心の奥底では違和感を拭えなかった。


「なぜモヒカンなのか?」


 その疑問が彼の頭から離れなかった。


 ◇


 一週間が経ち、佐藤は再び喫茶店に座っていた。モヒカン姿の彼に向けられる視線もあったが、それは好奇心からのものであり、あの日のような異様な無言の圧力ではなかった。


「佐藤さん、お久しぶりです」


 気づけば運営さんが向かいの席に座っていた。佐藤は今度は驚かなかった。この出会いを予感していたかのように。


「モヒカンになってから、どのような変化を感じましたか?」


 佐藤はコーヒーを一口飲み、ゆっくりと答えた。


「確かに、周りの反応が変わりました。『びっくりしたけど、意外に似合っているね』と言われることも。でも、どうしてこんな…理解できません」


 運営さんは満足そうに微笑んだ。


「私たちは日常の中での予測不可能な変化や、人々の行動の影響を見ることで、新しいデータを得ることが目的なんです。佐藤さんがモヒカンになることで、まさにその変化が生じ、私たちは興味深いデータを手に入れました」


 佐藤は納得いかない表情で尋ねた。


「これってどこまで続くんですか?」


 運営さんは机に両手を置き、指先を組み合わせた。その不自然に長い指が佐藤の不安を掻き立てた。


「実はこれが最後の実験ではありません。あと数回、異なる指示を出すことになるでしょう。でも、その先には嬉しいことが待っていますよ」


 佐藤は勇気を振り絞って質問した。


「あなたたちって、一体誰なんですか?」


 運営さんの表情が一瞬だけ崩れた。それは微笑みでも怒りでもなく、何かが露出したような、不気味な表情だった。しかし、すぐにいつもの微笑みに戻った。


「私たちの正体について知る必要はありません。ただ、指示に従っていれば、あなたの日常は平和に続きます」


 佐藤はその言葉に込められた脅しを感じ取った。


「では、次はどんな実験ですか?」


 運営さんは微笑みながら告げた。


「次はあなたの周りの人々の秘密を明かすことです。新たな展開があなたを待っていますよ」


 ◇


 二週間後、佐藤は派手な衣装に身を包み、自作のライブ配信機材を手に繁華街に立っていた。彼のモヒカンは派手に染められ、今や彼のトレードマークとなっていた。


「みなさん、こんにちは!佐藤モヒカンです!今日は特別な企画がありますよ。それは秘密を暴露する!」


 佐藤は自分の行為に恐怖を感じながらも、何かに操られるように動いていた。それは運営さんの指示だけでなく、彼の内側から湧き上がる奇妙な衝動だった。


 彼はカフェで静かに会話するカップルに近づき、彼らの会話をカメラに収めた。


「さてさて、こちらがあのカフェのカップル。彼らの会話を覗いてみましょう!」


 配信を見ている視聴者は徐々に増えていった。佐藤はカメラに向かって、まるで知り合いであるかのようにカップルの秘密を暴露した。


「じつはあの男性、私の友人で今…2股不倫をしているのです!!ですが、彼女は4股!!」


 カップルは佐藤に気づくと、怒りの表情で彼に近づいてきた。しかし、佐藤は恐れる様子もなく、カメラを向け続けた。不思議なことに、カップルは佐藤の目を見ると急に怯え、その場を立ち去ってしまった。


 佐藤は自分の力に驚きながらも、次の標的に向かった。彼は知り合いの会社員、同級生、さらには隣人までも標的にし、彼らの秘密を暴露し続けた。


 ライブ配信は瞬く間に拡散し、「佐藤モヒカン」の名は都市伝説のように広まっていった。人々は彼を恐れる一方で、その配信に惹きつけられていった。


 しかし、佐藤の内面は次第に変化していた。最初は運営さんの指示に従うだけだったが、今や彼は秘密を暴く快感にとりつかれていた。彼の目は次第に運営さんのように不自然な輝きを帯び始めていた。


 そして、ある日の配信中、佐藤は初めて警察に取り押さえられた。彼が暴露した秘密の中には、あまりにセンシティブなものがあり、法的な問題に発展したのだ。


 警察に連行される瞬間、佐藤は周囲を見回した。人々は彼を恐れる目で見つめていた。そして、群衆の中に運営さんの姿を見つけた。彼はいつものように微笑んでいたが、その表情には何か別のものが混じっていた。


 勝利の表情。


 佐藤はハッとした。自分は単なるモルモットだったのだ。しかし、今や自身が何かに変わりつつあることを感じていた。


 彼が警察車両に乗せられる瞬間、運営さんはキスを投げかけるような仕草をした。その視線に射抜かれ、佐藤は思わず呟いた。


「これでいいんだろ、運営さん」


 ◇


 留置所の小さな鏡に映る自分の姿に、佐藤は恐怖を覚えた。モヒカンの下の彼の顔は、まるで運営さんのように変わり始めていた。不自然に長い指、やけに白い肌、そして常に微笑みを浮かべる表情。


 佐藤は理解した。自分は次の「運営さん」になりつつあるのだと。


 訊問室で、刑事が尋ねた。


「なぜあんなことをしたんですか?」


 佐藤は微笑みながら答えた。


「あなたも、私たちの実験に参加してみませんか?」


 刑事は不思議そうな表情を浮かべた。


「実験?」


 佐藤は長い指先を組み合わせた。


「最初の指示です。モヒカンにしてください」


 彼の周りの照明が一瞬にして消え、部屋は奇妙な沈黙に包まれた。


 そして、新たな実験が始まった。

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