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『自分にご褒美』


 オフィスのLEDライトが私の額に微かな頭痛を刻みつける。午後三時。田中部長が私の企画書を皆の前でボロクソに批評し終えたところだ。


「君はいつも視点が狭いんだよね。もっと広い視野で考えられないのかな?」


 同僚たちの失笑が耳に刺さる。特に佐藤の嗤いは一際大きい。


「センスがないんですよ、こいつは」


 彼の言葉に、会議室は微かな笑いに包まれた。私は黙って資料を集める。反論する気力すらもう残っていない。


 帰りの電車で、スマホの画面を見つめていると、グルメアプリの通知が現れた。「今夜は自分にご褒美を。期間限定バーガー発売中」


 そうだ、今夜は自分にご褒美を与えよう。誰にも邪魔されない、私だけの時間。


 ---


 アパートのドアを閉め、靴を脱ぎ捨てる。手提げ袋からバーガーショップのロゴ入り紙袋を取り出す。テーブルに並べていく。特大ダブルチーズバーガー。分厚いポテト。チリチーズナゲット。チョコレートシェイク。カロリーなど気にしない。今夜だけは何もかも忘れてしまいたい。


 最初の一口。バンズはふわっと柔らかく、牛肉のジューシーな肉汁が口内に広がる。粘り気のあるチーズが舌を覆い、甘みと塩気が絶妙なハーモニーを奏でる。ケチャップの酸味が風味を引き立てる。


「うまい...」


 声に出して言うと、それだけで涙が溢れてきた。何週間ぶりだろう、何かを純粋に美味しいと感じたのは。


 ポテトを口に放り込む。外はカリッと中はホクホク。塩の結晶が指先に付着し、舐めると小さな幸福が広がる。


 チリチーズナゲットの辛味が喉を通り抜ける時、今日の屈辱が一瞬だけ薄れていく。


 一口、また一口。噛めば噛むほど、飲み込めば飲み込むほど、心が満たされていく感覚。それは喜びではなく、むしろ虚無に近い。だが、その虚無こそが今の私に必要なものだった。


 シェイクの冷たさが歯に染みる。チョコレートの濃厚な甘みが、緊張していた神経を緩めていく。


「こんなものか」


 毎日の屈辱。毎日の我慢。それらを耐え忍ぶ代償がこれだけなのか。バーガーを半分まで食べたところで、ふと思う。このご褒美は誰のためのものなのか。本当に私が欲しかったものは何なのか。


 スマホが震える。LINE通知。会社の同僚グループだ。開くべきではないと分かっていても、指が勝手に動く。


「明日の朝礼、山田さんにまた当てられるかな?」

「絶対でしょ。あの企画書のダメ出し、ヤバかったよねw」

「飲み会でも全然喋らないし、ほんと存在感ないよね」


 私は画面を閉じ、残りのバーガーを一気に口に詰め込む。もう味なんてどうでもいい。ただ、何かで口と心を満たしたかった。


 ポテトを一掴み、次々と口に放り込む。塩気が強すぎて喉が渇く。シェイクを飲み干すが、甘すぎて気持ち悪くなる。それでも食べ続ける。食べる事でしか、今の痛みを紛らわせることができない。


 食べ終わった後の虚無感。テーブルに広がる包み紙と空容器。これが私の「ご褒美」。


 ---


 スマホにまた通知。今度は見知らぬ番号からの着信だ。時計を見ると、午後11時23分。こんな時間に誰が?


「もしもし」

「山田さんですか?警視庁の佐々木と申します」


 心臓が一拍分止まった気がした。


「今日、あなたの勤務先で食中毒事案が発生しました。複数の社員が体調不良を訴え、現在入院中です。特に田中部長と佐藤さんの容態が深刻です」


 頭が真っ白になる。


「あなたは今日、社内の冷蔵庫に何か食べ物を入れましたか?」


「いいえ...何も...」


「分かりました。念のため、明日警察署にお越しいただけますか。簡単な事情聴取です」


 通話を終え、私は呆然と立ち尽くした。テーブルの上のジャンクフードの残骸を見つめる。


 食中毒。田中部長。佐藤。


 そして、思い出した。昨日、私が実験用に持っていたあの小瓶。「土壌分析用」と書かれた試薬。冷蔵庫に保管していたはずなのに、今朝見当たらなかった。


 誰かが間違えて使ってしまったのか。それとも...


 私は自分の手元を見つめる。爪の間に残る塩とケチャップの残り。そして、かすかに感じる異臭。手を洗っても落ちなかった、あの試薬の匂い。


 ふと鏡を見ると、私は微笑んでいた。


「自分にご褒美」


 それは、あの場にいなかった自分へのアリバイ作りだったのかもしれない。あるいは、本当に知らなかったのか。もはや自分でも分からない。


 警察の来訪を待ちながら、私はまだ残っていたナゲットを一つ、口に放り込んだ。


 味なんて、もうずっと感じていない。

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