『ルールが多い』
私が応募したのは、単純な仕事だった。深夜の複合施設で電気を消すだけ。時給4千円。あまりにも良い条件だったから、疑問に思うべきだった。
面接で管理人の老人は淡々と言った。
「君の仕事は23時から3時まで。建物内を巡回し、不要な電気を消すだけだ」
契約書に署名する直前、老人は小さな冊子を差し出した。
「これが規則書だ。絶対に守ってくれ」
家に戻り、その冊子を開いた時、私の不安は現実となった。
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規則その1: 建物内ですれ違う人物には決して挨拶してはならない。目を合わせず、黙って通り過ぎること。
規則その2: 北側フロアに2時以降向かう際は鈴の音に注意。聞こえたら直ちに下を向いて歩くこと。
規則その3: 階段を昇る際は必ず数を数え、13段目は飛ばすこと。12段しかない場合は後ろ向きで前の階に引き返すこと。
規則その4: 3階の31号室の前は必ず走って通過すること。ノックの音が聞こえても振り返らないこと。
規則その5: 地下への扉は開けないこと。鍵がかかっていなくても決して開けないこと。
規則その6: 建物内の鏡には自分の姿だけが映っていることを確認すること。他に何かが映っていた場合は、すぐにその場を離れること。
規則その7: 誰かが名前を呼んでも返事をしないこと。特に声の主が見えない場合。
規則その8: 午前2時45分になったら、どこにいても必ず1階ロビーに戻ること。3時までには必ず建物を出ること。
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常識では説明できないルールの数々。冗談かと思ったが、最後のページには「これらの規則は君の身を守るためのものだ。一つでも破れば、我々は責任を負えない」と書かれていた。
それでも私は初日を迎えた。時給4千円。学生の私には魅力的すぎる条件だった。
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初日、私は22時45分に到着した。老朽化した複合施設は昼間なら普通のオフィスビルだが、夜になると異質な雰囲気を醸し出していた。
「おう、来たか」
管理人室から老人が顔を出した。
「これが施設の鍵だ。3時までにはここに戻してくれ」
老人は簡単な説明をした後、帰っていった。23時、仕事開始。私は建物内を巡回し始めた。
最初の1時間は何事もなく過ぎた。不要な照明を消し、巡回するだけの単純作業。しかし、深夜0時を過ぎたあたりから、違和感を覚え始めた。
誰もいないはずの廊下の奥から、かすかな足音が聞こえる。振り返ると、そこには誰もいない。
1時、2階の廊下を歩いていると、向こうから人影が近づいてきた。規則を思い出す。挨拶してはいけない。目を合わせないこと。
通り過ぎる時、その人物は立ち止まった。視界の端で、不自然に首を傾げる姿が見えた。私は足早に立ち去った。振り返ると、その人物はまだ同じ場所で、こちらを見ていた。
2時近く、北側フロアへ向かう必要があった。廊下に入った瞬間、小さな鈴の音が聞こえた。規則通り、すぐに下を向いて歩き始めた。鈴の音は近づいてきて、やがて私の真上で鳴り止んだ。そのまま5分間、下を向いて動かなかった。やがて音は遠ざかり、消えた。
次は3階へ。階段を一段ずつ数えながら上った。「10、11、12...」12段で階段は終わっていた。規則によれば、後ろ向きで引き返さなければならない。不合理に思えたが、言われた通りにした。
再び1階に戻り、別の階段から3階へ向かった。今度は確かに13段あった。13段目を飛ばし、無事3階に到着。
31号室の前では小走りで通過した。通り過ぎた瞬間、背後でノックの音が三回。振り返らずに歩き続けた。
2時30分、最後の巡回を終え、1階に戻ろうとした時だ。地下への扉の前を通りかかると、扉の向こうから声が聞こえた。
「助けて...」
かすかな女性の声。
「ここから出して...」
扉には鍵がかかっていなかった。規則では開けてはいけないことになっている。しかし、明らかに誰かが閉じ込められている。迷った末、私は扉に手をかけた。
その瞬間、背後で声がした。
「やめなさい」
振り返ると、管理人の老人が立っていた。
「規則を破るところだったな」
老人は冷たく言った。
「君には向いていない仕事かもしれんな」
老人は私から鍵を取り上げ、「今日はもう帰りなさい」と言った。
翌日、私は退職を申し出た。老人は特に驚いた様子もなく、「そうか」と短く答えた。給料は約束通り振り込まれたが、あの夜の出来事は忘れられない。
あれから数ヶ月後、その複合施設の前を通りかかった。建物はすでに取り壊されていた。跡地に建つ看板には「このたび老朽化により取り壊された当ビルで、過去50年間に起きた不審死・行方不明事件の慰霊碑を建立予定」と書かれていた。
私は思い出した。地下からの声、13段目がない階段、31号室のノック...そして規則書の最後のページ。
「これらの規則は君の身を守るためのものだ」