『お前の家の天井低くない?』
夏の終わり、蒸し暑さがまとわりつくような午後、田辺浩二は一つのアパートの前に立っていた。手頃な家賃、駅からの距離も悪くない。しかし、その物件にはある噂があった。過去に起きた不幸な事件の影が、壁の隅々にまで染みついているという。
不動産屋の男は軽く肩をすくめながら説明した。
「事件のことは聞いているでしょう。でも、それからずっと無人ですし、リノベーションも済んでいますよ」
浩二は頷き、扉を開けた。部屋は意外と明るく、家具も新しく、最初は何も気にならなかった。だが、不動産屋が他の部屋を見せるためにいったん外に出た途端、空気が変わった。
一人きりになると、ふと天井が低く感じられた。はじめは単なる錯覚だと思ったが、息苦しさは増す一方で、天井が確かに降りてくるような錯覚に襲われた。心臓の鼓動が早くなり、汗がにじむ。
「気のせいだ」と自分に言い聞かせたが、部屋の角に目をやると、そこには小さな黒い染みがあった。染みはゆっくりと広がり、壁を這うように動き始めた。そして、それが天井へと伸びると、部屋全体が圧迫感に包まれた。
浩二は扉へ駆け寄るが、ドアノブが動かない。携帯電話で助けを求めようとするが、電波は届かない。天井はますます低く、息苦しさは頂点に達し、部屋はもはや牢獄のようだった。
そこで彼は気づいた。黒い染みは単なるカビではない。それは過去の悲しみ、痛み、そして怒りだった。歴史を知らぬ者に対する、忘れられない過去の叫び。
恐怖の中、浩二は決断した。この部屋と向き合うしかないと。彼は深呼吸をし、目を閉じ、過去の不幸や失敗を思い浮かべた。天井は止まり、染みは静かに消え始めた。
不動産屋が戻ってきた時、部屋は何事もなかったかのように普通だった。しかし、浩二にはわかっていた。このアパートには、見えない何かが存在し、受け入れられる者だけが共存できることを。
◇
浩二が新居での生活に慣れ始めたある日、大学時代の友人・府川が訪ねてきた。府川の何気ない一言だった。
「お前の家の天井低くない?」
浩二は意地の悪い考えが浮かんだ。
「ちょっと用事があるんだ、待っててくれ」と告げ、彼を部屋に一人で残した。ドアを閉める際に、ふと府川の目には不安の色が見えたが、浩二はそれを無視した。
部屋の外に出た浩二は、壁に耳を澄ませた。最初は静寂が流れ、何も起こらないかのように見えた。しかし、しばらくすると、府川の足音が不規則になり、何かを感じ取った証拠だった。そして、突然、府川の声が聞こえてきた。
「おい、浩二、冗談はよせよ。お前、何か仕掛けてるだろ?」
部屋の中では、府川が壁に広がる小さな黒い染みを目撃していた。彼にとってはただのカビだろうと思われたが、やがてその染みは動き始め、天井へと這い上がっていった。そして、府川は自分の周りの空気が変わるのを感じ取った。息苦しさが増し、天井が徐々に降りてくる錯覚に襲われた。
浩二は、府川が経験しているのがただの錯覚ではないことを知っていた。部屋の暗い過去が、新しい犠牲者を求めているかのように。
府川は慌ててドアノブを回したが、開かない。携帯を取り出し、何とかして連絡を取ろうとしたが、電波は一切届かない。絶望感が彼を包み込み、部屋の圧迫感はますます増していった。
「浩二!何が起きてるんだ?!」
府川の声が震えていた。しかし、浩二は動かなかった。これは、ある種の試練だと決めていたのだ。府川がこの部屋の秘密を受け入れるか、それとも狂気に飲み込まれるか。
数分が経過し、府川の叫び声は次第に小さくなり、そして、完全に止んだ。浩二がゆっくりとドアを開けると、府川は床に座り込み、静かに泣いていた。部屋の空気は再び穏やかになり、天井の錯覚も、黒い染みも消えていた。
「お前...何なんだ、この部屋は...」
府川の声は震えていたが、浩二は静かに答えた。
「見えない何かがここにはいるんだ。そうだ...もう一回言ってみろよ。『お前の家の天井低くない?』ってさ笑」
二人の間に流れる空気は重く、このアパートの不可解な現象が、ただの噂ではないことを、府川も理解したのだった。