誰かの気持ちを考えた事がありますか ⑦
吉田家に到着したのは電話があってから8分が経過していた。
「どうなってる?」
孫一が状況を確認する。吉田のおじいちゃん、喜一郎の顔色は青紫色に変色しており、未だ気道が塞がっているのは明白だった。桜子と孫一が応急処置を開始した。
孫一が喜一郎を起き上がらせて、背中から腕を回してお腹を圧迫しながら体を持ち上げる。意識が無くなっているようで喜一郎の体はゆらゆらと揺さぶれているが一向に喉の異物が取れる気配がない。背中を叩いたり現状で出来る効果があると言われている事をやってはいるが、しっかりと喉に餅が張り付いてるようで窒息した状況から回復しない。
「おい、桜子!」
桜子は血色が失われた喜一郎の顔を見て呆然としていた。桜子自身の顔からも血の気が引いており、先程まで呑気に昼食をとっていた時とは全く別人のようであった。桜子の頭の中では楓の父、丈夫の応急救護を行った時を思い出して、あの時の絶望感が蘇っていた。
外科医として出来るだけの事をやったが、中毒症状が進んでおり投薬でも電気ショックを与えても丈夫の命の灯火が再び灯ることはなかった。その時のことが想起されて桜子は動けなくなっている。丈夫の喉を切開したように外科医にしか出来ない助け方があるはずだが桜子はいやいやと首を横に振るばかりであった。
「おい、桜子!」
もう一度孫一が叫ぶ。孫一が出来れば自分でやっているだろうが内科医では人の体を切ったり、穴を開けたりすることが出来ない。犯罪者になる覚悟があれば助けられるのかもしれないが、それでも確かな知識があるわけではない。
「お前にしか出来ないんだぞ!」
「桜子ちゃん、爺さんを助けてくれ!」
孫一の言葉に合わせて吉田家の全員が懇願してくる。涙流し、頭を下げて桜子に祈るように手を握ってきた。それでも桜子はまだ首を横に振り拒絶している。
「わ、わたしには、無理よ」
「無理じゃない!、お前にしかできないんだよ!」
孫一の言葉では、桜子を動かすことは出来なかった。
「桜子」
母の恵子が桜子の肩を抱き、眼と眼を合わせて語りかける。
「あなたは人を助けることができるのよ。自分を信じて」
桜子の瞳に涙が浮かぶ。誰にも自分の気持ちをわかって貰えない悲しみだろうか、はたまた自分の無力さからくる涙なのか。崩れ落ちて涙を流す桜子は不意に腕を引っ張られて、驚きの声を上げた。その腕を引っ張っていたのは楓だった。普段の楓なら決してそんな事はしないだろうが、桜子に怒っているのか真剣な顔をしている。
「ねえ、桜子。人は死ぬんだよ?。それは桜子が何かするからじゃなくて、生まれたら死ぬんだよ」
「でも、わたしは」
引っ張られている腕以外は力を失い、桜子の魂が半分抜けているようだった。桜子自身も何が駄目で人の死と向き合えないのかはよくわかっているが、それを今口にすることは出来ない。本当に気持ちを口にしてしまったら、私は人が死ぬのをもう見たくない、そう言ってしまえば、楓は居なくなってしまうような気がして絶対に口に出す事が出来なかった。
「じゃあ、倒れているのが僕でも助けないの?」
その言葉は桜子の心に響いた。あの日楓の心臓が止まってしまった時、泣いて喚きながらも応急救護を続けたのは何故か。死んでほしくないと何処にいるかもわからない神様に願いながら過ごしたあの夜のことを思い出していた。
「僕だっていつか死ぬんだ。誰も助ける事が出来ないなら、僕のことだって助けられないよ」
楓も丈夫の死の影響を受けている。元々早くに母親を亡くしていた事もあって、死生観が周りの人と少しずれているのかも知れないが自分が死ぬことを理解している、怖かっていないのだ。死んでしまってもきっとどこがでまた母親や父親に会えるかもしれないと希望のような感情を抱いている。
「とうさん、吉田のおじいちゃん寝かせて」
桜子は涙を拭って立ち上がった。まだいつもの桜子ではなくて、人を睨みつけるような力強い意志を持った目をしてはいない。だが、気持ちは前を向いて患者の喜一郎をしっかりと見つめている。
口の中を確認して、首や喉の触診をする。何処から空気を入れればいいのか、しっかりと判断する事は出来そうだった。喉が詰まって呼吸が出来ない場合は、その異物よりも下に挿管して空気を送り込めばなんとかなる。幸いなことに甲状軟骨よりも上の方で詰まっているようだったので、何か管なりチューブなりを挿管する事ができれば起動の確保はできるかもしれなかった。
「あの、果物ナイフとストローありませんか」
桜子にそう言われた吉田家の面々は慌てて台所へ行って言われたものを探して帰ってきた。次に桜子は食卓にあったポットから御湯を出して、果物ナイフとストローをつける。本来なら煮沸消毒するべきなのだろうが急を要するため、完全に気休め程度の消毒だった。
「私と父さんだけにしてください。他の人は見ないほうがいいです」
そう言う桜子の瞳はいつものように人を睨むような不遜な目つきで、それに気圧される形で全員が指示に従った。
桜子は全員が出ていったのを確認して、果物ナイフを握り、そして大きく息を吐いて孫一に声を掛ける。
「頭抱えてて」
それからの処置は実にスピーディーだった。なんとかストローで起動を確保して、桜子と孫一の2人で心臓マッサージと空気をストローから送り、喜一郎の全身に酸素を送る。救急車が到着するまで続けられた応急救護の甲斐あってか病院に搬送される前には、心拍も回復して一命を取り留めていた。




