誰かの気持ちを考えた事がありますか①
昼過ぎには桜子の父、孫一がやって来て楓に変わって丈夫の葬儀の手続きを担ってくれていた。医療機関者や葬式関係者と遺体の安置場所等についての話し合いや葬儀の場所日程等全部をやってくれていた。
当初取り乱していた桜子だったが、次第に落ち着きを取り戻していた。いつもの様な憎まれ口は出てこないが言葉少ないながらも楓と一緒に孫一の話を聞いている。ある程度の予定を孫一は説明してくれていたが、それよりも楓には気になっていることがあった。自分が入院している病院で父親が亡くなったのだからひと目会いたい、そういう思いがあった。
「叔父さん、お父さんに会えたりしないかな」
楓がぼそっと口にした言葉に、ボリボリと僅かながら残っている後頭部の髪の毛をかきながら考える孫一だった。自らも自営の内科医ではあるので病院で亡くなった患者をどう扱うかは心得がある。果たして会わせるのが良いことなのかどうなのかそちらのほうが孫一には懸案であった。思いつく手はあるが、それを実行するには桜子に協力してもらう必要がある。それは即ち、自分の娘のトラウマを想起させてしまうのではないかといつもより頭をかく手に力が入っていた。
「ためだよね」
諦めるように項垂れる楓を見ると、孫一の心も傷んだ。娘と娘婿の板挟みに合うのはもっと先のことと思っていた筈の孫一は観念したように口を開いた。
「方法がないわけじゃない。だけど、桜子が一緒じゃないと駄目だ」
話し始めた孫一はがっくりと肩を落としていたが、桜子の名前を出した辺りから真剣に自分の娘を見つめていた。
「わたしが、何を手伝うの」
「お前も立ち会うんだよ」
娘と向き合い話す孫一の言葉には明確な棘があった。何だかんだで娘はかわいいもので、娘が嫌がるなら止めさせたかったと言う思いが孫一の中にあったのだ。
「それで何するの」
桜子の気持ちは取り乱していた頃に比べれば落ち着いているが、無気力になっていると言っても過言ではなかった。いまこの瞬間に父と話しているのも億劫と言わんばかりの態度で質問してくる娘に、その父はため息をつき答えた。
「お前と楓の2人で、丈夫に死化粧して来い」
通例亡くなった患者の死化粧は看護婦が施されることが多い。遺族が望めば遺族の手によって死化粧を施すことも可能ではある。看護婦が付きそうにしても女性がいたほうが合理的なのは間違いがない。
「死化粧って何?」
楓はいまいち内容が分かっていない様で、孫一に話しかける。
「お前の母さんの時覚えてるか?、あの時もきれいな顔になっていただろう?」
楓は5歳の時の記憶を必死に思い出そうと頑張るが顔は思い出せなかった。母親の写真を持たされて、車のクラクションを聞いていたのはよく覚えているのだが、どうしても靄がかかったように棺桶の中の母親の顔は思い出せなかった。
「覚えてないかも、他のことは思い出せるんだけど」
悪かったと謝りながら孫一は楓の頭にとんとんと触れた。
「死んだ人が生きてたときの姿で皆に見てもらえるように化粧をするのさ」
「それをやるの?」
「そうだ。でも桜子がやらないって言うなら諦めろ」
それはうちの娘に無理をさせるなと、孫一は言いたかったのかもしれないが桜子にはそう聞こえていなかったようだ。
「私のせいで楓が我慢するなんてまっぴらよ」
いつもの様な目力で父を睨む桜子に、孫一は諦めたように席を立った。
「本当に大丈夫なんだな?」
孫一の取り計らいで安置されている丈夫の顔に化粧を施す事ができるようになり、楓と桜子、そして看護婦が手伝いをする為に付き添ってくれていた。
看護婦が手慣れた様子で乳液を皮膚に染み込ませて、顔の皮膚を柔らかくなるように処理をする。
「では、まずは髭剃りますのでよろしいですか?」
楓に髭剃りを差し出しながら、看護婦が話しかけてくる。髭剃り受け取り、楓はようやっと父親と向き合うことになった。出来るだけ元の状態にと頑張ってくれたのが伺えるが、その喉元には大きな傷があり桜子が懸命に頑張ってくれたのが痛いほど良く分かった。
丈夫の顔には傷などはなくきれいなものだった。顔色さえ元通りなら、ともすれば起き上がるのではないかと思ってしまう。普段から髭を生やしていなかった丈夫の顔に髭剃りをあてがいながらそっと滑らせていく。概ね剃れた頃に桜子に看護婦が化粧道具を渡しくれた。
「次はこれで、生前の様に肌色を整えて下さい」
桜子も丈夫の顔に改めて向き合った。自分が助けることが出来なかった人に化粧を施すのは、たしかに辛いものがあった。逡巡している桜子の手を取った楓が話しかける。
「2人でやろう。お父さんには沢山のことを教わったのに、僕は何もしてあげられなかったから」
桜子はまた涙を流しながら楓と2人で丈夫の顔に化粧を施していく。少しづつ生前の姿に近づいていく丈夫を見ながら楓はふと、自分も死んだらこうなるのかと考えていた。
楓はその日のうちに予定通りに退院となった。だが本来行くはずだった実家は立ち入ることが出来ず、桜子の住まいであるマンションに身を寄せることとなった。幸いなことに桜子のマンションは病院からも近く、退院前日に荷物も減らしていたので桜子と楓の2人だけでも1LDKのマンションなら十分だった。
本来だったらもっと盛大に退院を祝われたのかも知れない。入院して3年近くになり、楓は7階のヌシとまで言われるくらい医療関係者全員に慕われていた。歩けない頃は助けて貰う立場だったかま、歩けるようになってからはリハビリと称して人の手伝いをするなど、好青年と言える振る舞いとその見た目からファンも多かった。だがその楓の見送りは、未明に父親が死去するというじたいになり、担当になっていた医師が1人と3名の看護婦だけだった。気丈に振る舞う楓の姿を見て、言葉無く泣き続ける看護婦達と主治医に頭を上げて桜子と楓は望まない形で新しい生活を始めることになったのだった。




