Let It Be ⑧
1994年6月28日。緊急搬送されてきた患者は最終的に16名になり、その内2名は治療の甲斐なく死亡が確認された。木下 丈夫はその1名に名を連ね、担当した昼神 桜子の救命も虚しく午前3時16分に昼神桜子医師により死亡が確認された。享年46歳であった。
朝、東側の角部屋に位置する楓の病室には晴れの日なら山間から朝日が差し込み、いつもはその朝日を合図に楓は起床していた。
6月28日の朝もいつもと同じように変わらぬ朝を迎えていたが、昨晩の救急車の音に睡眠を妨げられた楓の目覚めはいつもと同じとはいかず、窓から差し込む朝日に背中を向けてもう少し寝れないものかと四苦八苦しているようだ。
季節は夏に向かっており山に囲まれた長野でも起床の目安には丁度良く日差しは増してくる。カーテンを開けたまま寝た方に後悔しつつ、楓はゆっくりと身体を起こして両腕を伸ばし全身に血を巡らせる。
時計を見たら午前6時24分だった。起床時間まで後6分あった事に持ってないと思ってしまった楓だが、今更寝ても起こされるのは分かりきっていたので、洗面所で顔を洗う事から始めた。
「何だったんだろう昨日の」
答えてくれる人など居ないのはわかっているのだがそんな疑問がつい口から出てしまう。フェイスタオルで顔を拭きながら楓はテレビを付ける。テレビでは昨夜長野県内であった事が事故なのか事件なのか、コメンテーターや専門家風の人が話し合ったりしていた。
楓は自分の住んでいる土地でこんなことがあったのかと、フェイスタオルを口に当てたまま見入っていた。現場への中継に切り替わり、ヘリコプターの中からガナリ声のレポーターが何かを叫んでいるが、そのヘリコプターから撮影されているらしい風景に楓は覚えがあった。
「なんで、家が映って」
あとはもう言葉にならなかった。楓の頭の中では処理しきれない情報が多すぎて、視覚からの情報も聴覚からの情報もどこでとう整理されて理解していたのかももうわからなくなっていた。
同時刻、昼神 桜子も地獄の門が開いたように続く緊急患者の救命が一段落して開放されたいた。
丈夫の死を確認してからは病状の安定して来た患者へどれくらい投薬をするかの指示くらいしかしていなかった。数名の医師で結果14人の命を救うことが出来、その他数名の医師たちは疲労感は感じているものの、多くの命を救えたことに医師としての矜持を感じながら、この緊急病棟から退出していった。だが
犠牲者の1人である婚約者の父を助けられなかった桜子は違っていた。何度も頭を掻きむしったのかボサボサの髪をして下を向いて、おぼつかない足取りで退出して行く。桜子のその背中を見送る者はあっても、誰も話しかける者は無かった。桜子は鳥折ふらつき、壁に手を当てながらエレベーターに向かい、上行きのボタンを押した。開いたエレベーターに吸い込まれ桜子が見えなくなるまで皆が静寂とともにあり、その静寂を破る機械音が鳴り止めばまた静寂が訪れる。
誰もが彼女とその婚約者と、亡くなった丈夫の為に祈ってくれていた。
桜子が楓の病室にたどり着いたのは午前6時37分。楓が自宅の近くで事件があったことを知って数分がだった頃だった。
力なく開けられたスライド式の扉は音も無く開いた。
テレビでは丁度アナウンサーが、犠牲になった人々の名前を読み上げている最中で、それに気が付いた桜子は丈夫の名前が呼ばれる前にテレビを消そうと飛び出した。しかし、上手く走れずに転びそうになった桜子を楓が既の所で支え、抱きしめるような格好になる。
だが無情にもテレビではアナウンサーが淡々と木下 丈夫、46歳、市議会議員と読み上げ、次の犠牲者の状態へと移っていた。
「ご、めんな、さい。ごめんなさい、ごめんなさい」
かすれるような声で桜子は謝り続けていた。抱きしめるような体勢のまま、楓は父が死んでしまった事。恐らく桜子が助けようとしてくれていた事を理解した。
きっと桜子がいなかった楓も大声で泣いていたのだろう。だが桜子が助けようとして、そう出来なかったこのなら仕方がないと、楓の心は何故か不思議なくらいに飲み込めていたのだった。
「桜子さん、ごめんね」
楓が強く桜子を抱きしめて言った。
「桜子さんが頑張ってくれた結果なら僕は」
一度抱きしめていた桜子の体を離し、桜子の目を見ながら言葉を続ける。
「あなたにありがとうって言わなきゃいけない」
また楓は優しく桜子を抱きしめた。
「聞きたくないかもしれないけど、お父さんのために頑張ってくれてありがとう」
桜子はボロボロと泣きながら、何度もごめんなさいを繰り返す。そのごめんなさいの数だけ楓はありがとうを口にしていた。




