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グレイシャルLOVE  作者: YOU-Hi
第3節 Let It Be
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Let It Be ⑦

 1994年6月28日、深夜。

 自宅の電話がけたたましく鳴り始め、桜子は目を覚ました。枕元の目指し時計に目をやって時間を確認する。

「1時6分って、何なのよ!」

 こんな時間にかかってくる電話には心当たりがあった。緊急外来で人手が足りなくなったりすれば、オンコール勤務、呼び出しを受けることもある。桜子の務める病院では順番が決まっていて持ち回りでやっており、先週に呼び出しを応じた桜子は優先順位が低いはずだったのだが、鳴り続ける電話の音聞いていれば何かあったのではないかと不安になる。この不安を解消するためにも桜子は受話器を取った。

「昼神先生、急患です。13人が恐らく有機リン系の中毒で救急に運び込まれてきてて、医師も看護婦も手が足りません」

 桜子の頭が真っ白になる。有機リン系の中毒とはどういうことか。誰かが農薬を食事にでも混ぜたとでも言うのか。衝撃が大きすぎて目が覚めたが、情報を処理できないでいる桜子は頭を振って意識の手綱をしっかりと握る。

「わかりました。これから向かいます」

 ここで四の五の確認していても仕方がないので、寝巻きのキャミソールの上にそのへんにあった上着とジーンズで家から飛び出した。気がつけばそこら中で救急車やら、消防車の音が響いている。異常事態をその肌と耳で感じながら桜子は原付きを飛ばして病院に向かう。


 同日、午前1時32分。病院に着いた頃には急患は16人になっていた。桜子はロッカーから自分の白衣を引っ張り出し、袖を通しながら廊下を進む。そこら中から医師の怒号の様な指示の声とと慌ただしく動き回る看護婦達の足音が響いている。

「昼神、今つきました」

「ありがとう。患者は恐らく全員が有機リン系の中毒を起こしています。縮瞳が見られて、意識がありません、中には呼吸が浅い患者もいます。肺水腫を起こしている可能性あり」

 当直の医師から情報共有を受けて、担当する患者を確認をする。縮瞳とは眼の瞳孔が収縮した状態のことを言う、わかりやすく言えば明るい所で猫の瞳孔が細くなっている状態で、光に反応して起こっているなら正常なのだが、普通は夜になって起きる現象ではない。有機リン系の神経毒にやられて患者の神経が過剰な刺激に悲鳴を上げていると言うことなのだろう。たしかに縮瞳を起こしており、意識が混濁している。痙攣はしているが呼びかけに反応することはない。

 患者の呼吸を確認した桜子はが看護婦に指示を飛ばす。

「アトロピン10A投与、気管内挿管を実施」

 やることがわかっていれば迷わずに対応が出来る昼神桜子も立派な医師の1人だった。たが、最初から当直医として居合わせていたらこんなにキビキビ動くことは出来なかったかもしれない。患者の気道に挿管しながら桜子はこんな事を考えていた。

「一体何があったんですか?」

 呼吸の確保ができて、一息つける状況になった桜子が当直医へ状況の確認をする。

「中央の住宅街で農薬から有機リン系のガスが発生したのかも知れないって、ここの他にも患者がいて合計53人だってよ」

「ご、53人」

 嫌な予感がした桜子は少し目眩を覚えた。楓の実家が近いからだ。一刻も早く確認したいところだが目の前の患者を放置することも出来ず、桜子はジレンマに震えていた。

「昼神先生!次の患者です」

 1人処理が終われば次の患者運ばれてくる。自分の感情を優先したかったが今はそれどころではない。

 が、運ばれて来た患者の顔を見て桜子の意識が一瞬飛んだ。

「っ先生!、昼神先生!」

 ハッとして患者の顔を見る。何度見ても変わりはしなかった。


 楓の父。木下 丈夫だった。


 桜子は瞳孔の確認、呼吸の確認をして先程のように指示を飛ばした。はずだった。薬も投与して、気道の確保もした、胃の洗浄や吸着剤の投与もした。できることは全部やった。他の患者の様に出来ることをやっても症状が安定しない、それどころか悪化していってしまう。

 桜子は冷や汗をかきながら、震える手で新しい薬を投薬する。手順を遵守して投薬量も適切だった。だが血液検査の結果はコリンエステラーゼの数値が低下。ということは肝機能が著しく低下しているのだろう。

「肝硬変?、急性肝炎?。血液の中に毒素があるってこと?」

 桜子の頭の中を色々な事が駆け巡る。どうすれば丈夫を助けられるのか、考えている筈だったが頭が回らない。桜子の頭の中にあるのはたった一言だった。

「失敗したらどうしよう」

 そう呟いた桜子は暫し呆然と丈夫を見つめていた。青白い肌色、時折痙攣しているその姿を見て絶望感を味わっていた。

 ややあって桜子は自分の両頬を両手で思いっきり叩いた。

 桜子が血液浄化療法を指示したのは、そのすぐ後だった。透析器が用意され丈夫に繋がれて行く。

「これがだめならどうしたらいいの」

 絶望感が桜子口から溢れて出てきた。もうやれることは全部やった。定期的に投薬するくらいはまだやれることはあるが、あとは丈夫の体力と丈夫の中にある毒素の量次第と言う事になる。


 付きっきりで数値を見ながら投薬を指示する桜子だが、その目にいつもの光は宿っていなかった。

 もう3回は追加で投薬をしたがそんなのは気休めだと気がついていた。延命はいつまで出来るのだろうか?、意識が戻ったりするのだろうか?、桜子が何を考えているのだろうと自嘲した時に、一番聞きたたくない音がした。甲高く、鳴り止まないビープ音が響いている。

 1994年6月28日。午前2時58分。

 木下 丈夫の心臓が止まった。

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