Let It Be ⑥
1994年6月27日。
桜子の外科医としてキャリアも順調に進んでいた。チームの一員として、会議や手術に関わるなど忙しい日々を送っている。それでも楓の担当医として、朝の回診は桜子の仕事になっていた。
「入るわよー」
ノックもなしにおもむろに扉を開けて、入室してくる桜子のに迷惑そうなかも一つせずに楓が笑顔で迎える。
「桜子さん、おはよう。今日も問題ないよ、朝から天気が良くて気分がいいよ」
この1年半でかなり歩けるようになった楓は、自らベットを降りて丸椅子に座りながらクルクルと丸椅子を回転させて遊んでいる。
「貴方もうすぐ19でしょう。子供みたいなことしないの」
桜子は看護婦と2人で回診の準備を整えながらふざけている楓の頭をバインダーで小突く。痛くもなさそうだが、楓は小突かれた頭を擦りながら舌を出す。反省はしていなさそうだが、看護婦に微笑まれ照れくさいとは思っているようだ。
「僕の誕生日より、お父さんの誕生日だよ」
木下 丈夫の誕生日が明日に控えていた。病院としてはリハビリも進み出かけたりしても体調も安定して病状を鑑み、楓からの要望と合わせて明日退院する事になっていた。楓曰く、お父さんの46歳の誕生日祝いと自分の退院祝いを一緒にやりたかったらしい。
「頑張ったわね」
楓の頭を撫でながら桜子が話しかける。こうやって楓の頭を撫でている瞬間の桜子は外科医ではなくて楓の婚約者としての表情をしている。
「もっと頑張らないと、桜子さんのお婿さんとしてはね」
そう言ってウインクしてくる楓の唯一空いている左目を桜子が聴診器で覆い隠す。びっくりしたように同席していた看護婦が口に手を当てるが、その姿は楓にも桜子にも見えてはいない。
「変わった視力検査ですね。昼神先生」
右目を開けた楓が桜子に反撃とばかりに口撃してくる。そのやり取りを見ていた看護婦が楽しそうに笑いながら天気の良い外へと視線を移し、長く続いたこのやり取りも見なくなるのかと少し感慨深そうに目を細める。
「はい、問題なし。明日退院ですね。木下 楓さん」
チッチッチッと指を振り、楓が訂正してくる。
「もうすぐ昼神 楓ですよ」
ボンッと小気味よい音が響く。楓の頭にまた桜子のバインダーが当たった。先程と違い勢い良く当たったために本当に痛がりながら楓は頭を擦っている。
退院が決まり、先日一時帰宅をした際に桜子と楓が結納を交わした。これで自他共に認める婚約者関係になったこともあり、ここ数日の楓の機嫌はすこぶる良好だ。もちろん桜子もやっと結納ができたので喜んでいるのだが、婿殿のテンショが高すぎて早めのマリッジブルーのような思いを味わっていた。
「調子乗ってんじゃないわよ」
立ち上がった桜子が楓を睨みつけてくる。ことさらに低い声で話しかけているので、桜子を知らない人が見たら、どこのレディース暴走族の総長かと誤解をするだろうが、看護婦含めてもう桜子を良く知った人しかいないので誰も驚きはしない。睨まれた本人も涼しい顔をしていし、それを見て凄んだ自分がバカらしくなったようで桜子は広角を上げて軽く笑った。
「まあ、楽しみにしてますわね。お婿さん」
申し訳程度に楓の頭を一撫でして、返事も聞かずに桜子は退室して行く。桜子は背中を向けたままで手を振って出ていき、扉を閉める看護婦も笑顔で手を振った出ていった。
夕方。木下 丈夫が楓の病院にやってきた。3年近くになる入院生活で溜まりに溜まった楓の私物が多すぎて、じゃあ今までありがとうございましたと楽には退院出来そうにないからである。
「明日、鞄に入る程度まで私物を減らしたいんですが、どうしても手元に置いておきたいのはありますか?」
丈夫は楓の意思の確認をする。それを聞いた楓はギターと今読んでいる最中の一冊の本を選んで父親に伝えた。
「とりあえずギターがあればギリギリまで暇潰せるし
、今晩はこの本を読むからこの本以外は持っていっても大丈夫」
大丈夫というもののみかんが入るようなダンボールに入れても、5箱にはなるだろうかという私物だ。楓がダンボールに詰めていき、丈夫がそれを台車に載せて行く。なかなかの作業を短時間でやり切りなんとか病院での最後の晩御飯を迎えた。丈夫は市議会の方にお願いして今日と明日については休みを貰っていた。幸い閉会中で、融通が利き市議会議員になってからの初めて私事都合での休みを取ったのだ。
桜子の仕事終わりは何時もより遅くなっていた。19時を過ぎてようやく開放されて、その足で楓の病室に向かう。この身軽に、気軽に会いに行けるのも今日までかと何か寂しさを感じてしまう桜子だが、楓が退院すればまた次の楽しみや喜びがあると思えば足取りも少し軽やかになる。
「入るわよー」
あいも変わらずノックもせずに入室し、中にいる楓に手を振った。桜子は中に丈夫がいるのを見つけ、急に畏まって頭を下げた。
「お義父さん、こんばんわ」
いやいやと手を振り、丈夫も深々と頭を下げる。
「うちの次男をよろしくお願いしますね」
何度目かというこのやり取りをした後に桜子は病室の中に目をやる。楓のヒーローとも言える便ドマンのポスター剥がされ、大量の私物もダンボールに纏められているの見て感想を漏らした。
「やっぱりこの病室広かったのよね」
「なに、その僕が散らかしてたみたいな感想」
楓が不満げにしているのに気がついているものの、私物が多すぎたのも間違いが無い。他の階も角部屋は個室になっているのだが、桜子が入室する機会がないのであまり知らなかった。
「ごめんごめん、楓の事を悪く言ったつもりはないのよ?」
病院食の提供はお断りして3人で仲良く晩御飯を食べる事になっていた。今日は丈夫が作ってきてくれたハンバーグ弁当なので、病院での最後の晩餐になるが早めの退院のお祝いの様な様相だった。楓が相変わらず量も考えずに頬張って、それに丈夫か桜子が水を渡す。そんなこの数年の当たり前が今日で終わってまた新しい日々が始まろうとしている。
「では、わたしはお先に帰って、楓くんの荷物を部屋に運んでおきますね」
食後のお茶もそこそこに席を立った丈夫が2人に話しかけてくる。
「2人はそのままでいいですよ?わたし1人で運べますから」
少し抵抗のある重めの台車を押す丈夫が出れるように桜子が扉を開けた。丈夫は桜子に礼を言って話し続ける。
「ありがとうございます。ああ、そうだ。ではおふたりごゆっくり。Let It Beですよ」
静かに扉が閉まりギコギコと台車が遠ざかっていく音が聞こえる。
「あるがままって。どういう事?」
最後に変な言い方をされてしまい、2人はぎこちなく手を握るところから始めたのだった。




