Let It Be ⑤
桜子の研修医としての仕事が終わると、病院の夕食の時間になっていた。日々時間の前後は多少あるが、概ね桜子と楓は夕食をともにしていた。夕食を持ってきてくれるのは楓の父、木下 丈夫だ。今年の春にその人柄から周囲に推される形で市議会議員に立候補して無事に当選。議員を務めながら、楓の入院生活のサポートをしていた。市議会議員の仕事は時折遅くなることはあるが、夕食の頃になれば楓の病院にやってきて三人で過ごす事が日常になっている。
「親父さん遅いわね」
夕食と丈夫を待ちかねていた桜子が呟く。
丈夫が遅れる日はいつも早めに連絡が入り、ナースステーションを通して楓に伝わっているはずなのだが、確認してみても連絡は来ていない。
楓は仕方なく一人先に夕食をとっていたが、父親が心配なのか窓から外を眺めてはため息をつき、あまり食が進んでいないようだ。
「何か急用でも入ったのかしら」
出来るだけ悪い想像をしないように桜子が言葉を選びながら楓に話しかける。
楓の母が交通事故でなくなった時もそうだった。当時5歳だった楓は、保育園で母親が迎えに来るのをずっと待っていたが全く現れず泣きたい気持ちになっていた。夜になって父親が憔悴した顔で迎えて来たのを見て寂しさが溢れて泣いてしまったのだった。
「なんかあの日と同じ嫌な感じ」
ついに食べきれずに箸を置いてしまった楓は、少し涙目になりながら、桜子の手を握る。
桜子は何も言えずに楓を抱きしめることしか出来なかった。過去の経験を思い出しているのなら、保育士達に大丈夫と言われていたにも関わらず母親は事故にあってしまったのだから、桜子から今かけられる言葉は何も無い。丈夫が無事に来る事を二人で祈ることしか出来なかった。
廊下からバタバタと足音が響いてくる。誰かきたのかと二人がはっとした刹那、扉が勢いよく開いた。
「二人共、遅れてごめんなさい。途中でバッテリーが上がっている車を助けていたらこんな時間に」
ハァハァと呼吸を乱しながら木下 丈夫が入室して来た。すぐに息子が不安になっていた事を理解した丈夫は楓の頭を撫でながら話しかける。
「私は居なくならないと約束したじゃないですか?。でも心配かけてしまってごめんなさい」
楓と目が合うように少し腰を曲げながら丈夫はできるだけ優しく話しかける。母親がいなくなってしまったあの日からは保育園に行きたがらなかったり、迎えご遅いと泣いてしまうことが多く、不安になることが多かった楓だったが、丈夫が居なくならないとか、今日のご飯は何を食べるかとか、帰りにどこに行こうかと約束をしてそれを守っていくことで、片親になった不安感からも早くに立ち直ったのだった。
「困ってた人は大丈夫だったの?」
頭を撫でられている楓は父親の無事に安心した様子であった。自分の父親が約束を大事にすると共に人を助けることができる人間で誇らしそうだ。
「ええ、若いお二人だったんですが、なんでも免許取って初めてドライブに行って話し込んでいるうちにっ」
「親子揃ってお人好しすぎませんか?」
桜子も安心し過ぎて涙声になりながら、2人の会話に参加した。丈夫は桜子にも深々と頭を下げて謝ってくるので、恐縮した桜子がいやいやと手を振ったときに桜子のお腹からぐぅーっと音がなり、とたんに桜子の顔が真っ赤になった。
その音を聞いた2人に笑われて少し気を害した桜子だったが2人が笑っているのを見て怒る気も失せたようだ。
「失礼しました。楓のご飯も少し残ってますし、みんなで食べてしまいましょう。今日はですね、なんと市議会で余った幕の内弁当です」
「余り物をそんなに誇らしげに出されても、桜子さんが困っちゃうんじゃない?」
誇らしげに仕出し弁当屋の袋を掲げる父親に対して、楓が冷静にツッコミを入れた。面会時間がギリギリになっていたので、3人はいそいそと食べ始めた。様子を見に来た看護婦が8時間近の時計を指差し、内緒とジェスチャーをしてくる。談笑しながらとはいかないがゆっくり過ごしても怒られることはないようだった。
こうやって、たまに事件はあるものの桜子と楓の日常は順調に進んでいき、桜子の研修医生活は無事に終わりを迎えた。晴れて楓の担当医として1人前となり、また新しい生活が始まろうとしている。




