if ひとりごと ②
そう、あの日もこんな青空と積乱雲が遠くに見えた暑い日だった。
「昨日はあんなに涼しかったのにね」
1989年、8月15日。帰省先の長野で今年の夏最高気温の33度に辟易としている私に麦茶を差し出しながら少年が言った。
自宅の縁側で遠くに見える積乱雲を眺めながら、従弟の少年は楽しそうにしている。こんなに暑さの中、扇風機と自然の風では汗が止まるらないと思うのだが、私が暑がっても汗をかいても、私の反応を楽しむようにうちわで扇いだり、こうやって麦茶を持ってきたりと甲斐甲斐しく世話を焼いてくる。華奢で色白、髪を伸ばせば女子と言われるかもしれないくらいには美少年なのだが、何がよくてこんなだらしない私に尽くしてくれるのだろうか。
「昨日は23℃で過ごしやすかったのに、何で祭りの日に限ってこんなに暑いのよ」
私がワンピースの胸元に風を入れながら悪態をつく姿は14歳の少年には刺激が強いのだろうか。少年はいそいそと飲み終わったコップに新しい麦茶を注ぎながら、砂糖はいるかとジェスチャーで伺ってくる。本当によく出来た子で、私なんかに比べて良い嫁になるだろうと考え、苦笑しながら少しだけと私もジェスチャーで返した。
「昨日は蝉もうるさく鳴いていたのに、今日は暑すぎてまいってるみたいだね」
砂糖入りの麦茶をかき混ぜながら少年はそんな世間話をするご年配方のように話しかけてくる。
本当に田舎は娯楽が少ない。休みと言えばテレビを見るか野山を駆けずり回るかなのだが、病弱なこの少年は運動すれば頭痛に悩まされ、外で遊ぶ事は殆ど無い。かと言ってテレビも昼の間はあまり面白いとも言えないような内容のドラマが多く、そうなれば、周りの年配者とお茶を飲んだり話したりが娯楽に近いものなのだろう。だからこの少年は自分より7歳年上の従姉と居るのが今最大の娯楽になっているのかもしれない。
「蝉は暑すぎると死んじゃうらしいわよ。というか、あなたの話題の振り方。お婆ちゃんみたいよ」
少年は何のことかと首を傾げながら、今度はお茶請けの煎餅を用意していた。いやはや本当にこの子は便利だと思いながら、こんな21歳でいいだろうかと苦笑してしまう。
「夕方になれば、ひぐらしが鳴くよ。その頃になれば少しは涼しくなるんじゃない?」
少年は煎餅の袋を開けながら、これまた年配者のような口を聞きながら、もう暑さに愚痴るなと諭しているようだった。
まあ、たしかにその頃になれば浴衣を着て祭りに出かけるのもありだろう。
「あなたは今日のお祭りは行かないの?」
私は浴衣を着て行くけどと続けたかったが、迷ってしまった。私が行くと言えばついて来ようとするのかも知れない。私も出かけるのもありだと思っていたが、この従弟が居たら茶化されるのは間違いないだろう。なにしろこの少年は5年前から私のお婿さんになると吹聴していて、両家の親公認で私の意思を除いては順調に進んでいる。
「うーん、今日は頭が痛くなりそうなんだよね。夕方くらいに雨降りそうな気がするし」
天気予報では雨なんて言っていなかった。何を根拠にと思うが、この少年の雨の予感はよく当たると伯母がよく言っていた。この少年が洗濯物を取り込んだ後に夕立が来たなんて言うのは一度や二度ではないそうだ。
「ふーん、という事はいかないの?。私は楽しみなのだけど」
はっきりと答えないので、畳み掛けて聞いてしまった。意地の悪いことをしてしまったと少し胸が傷んだ。
「桜子姉さんは行くんだね。でもやめておくよ、僕が行ったら楽しめる感じじゃなくなるかも知れない」
この子は周りの顔色を伺って迷惑をかけないようにする。家で大人しくしていても頭痛で吐いたりするのは変わりはないだろうに、誰にも見られなければ誰も心配しないとでも思っているのだろうか。
私は少年が我慢するのも苦しむのも見たくはないが、私の意思を無視してお婿さんになるなどと口にする無遠慮の塊が、自分の体のことで私に心配をかけないようにする遠慮の仕方が気に入らなかった。
「私は、浴衣を着て。お祭りに行くわよ」
少年が明らかにムッとした顔をした。先程まで私を見ては満面の笑顔を向けていた色白の美少年は眉をひそめて眉間にしわを寄せている。
「何で意地悪なことを言うのかな」
そう、意地悪なのだ。あなたがお婿さんになると言い続けている私、昼神桜子は意地が悪いのだ。7歳年下の自称お婿さんが、一度も私の意思を確認してこないのも気に入らないし、私も何となくこれでいいかと思い始めているくらいに心地良いのに、まだお婿さんに気を使われているのが気に入らないのだ。
「あなたは私のお婿さんになるんでしょう。なら一緒に居なさいよ」
いや、もともとは一緒に行きたいと思っては居なかった。この数日が心地良くて、少し混乱しているだけなのかもしれない。医学部の課題の多さに疲れ果てて久々の実家で足を伸ばしていたら、そう言えば自称お婿さんが居たんだったと思い出した程度だったのだ。
そして思いの外、美少年になっていてこれはなかなかと思ったのはある。甲斐甲斐しく何でもしてくれるので悪くないと思っているのもある。
しかし私は何を言ってしまったのか。
ポカンと口を開けて、何が起きたのかと何を言われたのかまだ処理が追いついていない少年に、まずいことを言った自覚が込み上げてきて更に続けた。
「もしもよ、私はまだ認めてないけど。仮によ」
だんだんと少年が笑顔になっていくのが分かる。人生の選択を誤ったかもしれない。
「全部独り言よ、もしもの話よ」
もう遅かった。