Let It Be ①
1992年、11月21日。昼神桜子は自身が所属していた大学病院での初期臨床研修を修了し、自称婚約者の青年、木下楓の入院する長野県の病院での後期臨床研修が始まる事になった。今では恩師と言える如月宗次郎の図らいと言うか推薦が有り、念願叶っての帰郷となったのである。本来なら身内の患者を診療する行為を忌避する傾向がある医師会において、稀に昼神桜子の様な医師も存在する。好き好んで家族にメスをいれると言ったら語弊があるがそれ自体は可能だ。しかし、推奨しないし歓迎されない。幸い自称婚約者と言う関係性で顔合わせや結納もしていないが故に、推薦を貰った事でなんの懸念も抱かれることなく話しが進む事となった。
「寒っ」
昼神桜子は電車のドアが空いた瞬間に毒づいた。彼女が電車から一歩踏み出すと雪景色が広がっており、初雪にしては平年より数日早く、今朝まで東京にいた彼女にとっては青天の霹靂だったが、荒天の霹靂のほうが正しいと思えるくらいに吹雪いている。
「なんで東京で長野の天気わかんないのよ」
おそらくもう少し冬のスキーシーズンに近ければ、地方の天気にも目を向けられたのだろうが今朝彼女が見たワイドショーでは情報を得ることが出来なかった。
お陰で服装から間違っている。うっかりトレンチコートで都会のキャリアウーマンを気取って帰って来てしまい、スーツケースと一緒に吹雪に吹かれていた。呆然としている桜子を見つけた駅員が声をかけてくる。
「お嬢さん、大丈夫だだ?」
暖かい待合室のドアを開けて入るように促され、震えながら待合室に入室した。大正時代からから現存する駅舎は数年前にお寺風に改築され、寒さを凌ぐには十分な環境になっていた。
「なんて格好で来たずら」
定年間近という風貌の駅員に呆れなれながら方言強めに話しかけられると、良くも悪くも地元に帰ってきたのだと、桜子はストーブに当たりながらそんな事を考えていた。
「私だって好きでこんな格好で」
来たのだ。東京にかぶれ、キャリアウーマンを気取った様な格好で来たのである。
医学部に現役で受かり、順調に研修医としてやってきた。如何せん外科医としてはさっぱりだったが、それも大きい声で言わなければ誰も気が付いたりしないだろうと地元に凱旋気分で帰ってきたのだった。
「本当に最低の凱旋ね、早く楓に会いたい」
自嘲気味に口から出た言葉は誰に向けたものでもなかった。なのだが、定年間近の駅員は以外にも耳が良くしっかりも聞き取っていた。
「楓って、木下さんの息子さんずら?」
聞いてほしくない言葉を聞かれたので、桜子は不愉快ここに極まると思いっきり駅員を睨みつける。下三白眼の彼女に睨まれると思わず身じろぎしてしまう駅員だったが、その目つきの悪さで彼女が誰か思い当たったようだ。
「もしかして昼神さんの娘さんずら?」
暫し無言でなんでバレたかと桜子は考えていた。それでも理由が分からずに駅員に聞いてみることにした。
「はい、なんで分かったんですか?」
「そりゃ、あんたの目つき」
そこまで口にして、今度は駅員が無言になる。また思いっきり睨まれて蛇に睨まれた蛙のように固まってしまった。
「昼神さんに電話するだ?」
気まずさから逃れるように駅員が話題を変えてくる。たしかにこの天気では歩いて帰るのは億劫だと桜子はその提案を受けることにした。
「途中で楓に会いに行ければいいか、よろしくお願いします」
大分体も温まって来て、桜子は自称婚約者に会いたい気持ちが募ってきたのかすっかりキャリアウーマンを気取るのを諦めていた。
30分程の暇が有った駅員と昼神桜子は、ストーブの上であたりめを焼きながらくつろぎ始めていた。田舎の駅となれば電車は1時間に1本あるかないかなのだが、ここには駅員が常駐してこうして余暇を乗客と過ごしているようだ。
話し相手になったり悩み相談をしたり思い思いの過ごし方をして、乗客たちに愛される駅として過去取材を受けた手前、今更無人駅に変えてしまうのも難しいのかもしれない。
父親が迎えに来るまでに桜子に駅員は色々な事を話してくる。あまり興味も無い桜子は長野新幹線の工事が進んでいるとか、この駅にも新幹線が止まるようになるかもしれないなど、かなり眉唾な内容の話を肴に延々とあたりめにマヨネーズを乗せて醤油をかけては頬張っている。
「あんたよく食べるな」
歳の割に全く遠慮しない桜子を見て、そんな事を口にした駅員だったが嫌な感情は感じなかった。なので桜子はあたりめをまたひっくり返して食べごろになるまで育てている。
ほぼ無言でそんな調子の桜子にやれやれと、駅員が重い腰を上げて仕事に戻ろうとした時。
「桜子ー、帰って来るならちゃんと何時に着くか連絡しろよ」
駅前に車を止めて駅舎に入ってきた桜子の父の頭には、髪の毛の代わりにふさふさの白い雪が付いていた。すぐに溶けて消えてしまった雪解け水を前髪をかきあげるように拭った父の姿を見て、やっぱりこの父親は無いなと改めて認識していた。年頃の娘が身内の男性、殊更に父親に嫌悪感を抱くのは実は正常な反応らしいが、その昼神桜子は父と二人でドライブという現実に辟易としながら立ち上がった。
「家に変える前に楓に会いに行っていい?」
桜子の父は自分が選んだ婿候補に娘が会いたいというようになった事に勝ち誇ったような笑顔を桜子に向けた。それすらも心底面倒くさそうに父を睨みつける娘を見て、駅員はやっぱりこの娘は昔から性格悪いなと思うのだが、決して口にはせずに一方的に仲の悪そうな親子を見送ることにした。
この吹雪で電車は予定には到着なかったようだ。駅員は改めてストーブの前に腰を下ろし、先程まで目つきの悪いお嬢さんが育てていたあたりめを食べ始めた。
「まあ、上手くいくといいだ」
桜子は父、昼神孫一の運転する車でこれから研修でお世話になる病院へと向かっていた。孫一は個人の診療所をこの町で開いており、地域の顔役として祭りを仕切ったりそれなりの人望があった。豪放磊落と言う性格で戦国時代の偉人の名に負けぬ丈夫なのだが、娘の評価だけはすこぶる低い。
「病院つくまで喋らないつもりか?」
信号待ちをしながら後部座席の娘の方をちらっと見て、孫一は話しかけたがやはり娘の反応は淡泊だった。まだ最愛の人に会ってもいないんだから、気が気でないだろうと父は深く誤解しながら車を走らせていく。




