Knockin' on heaven's door ⑧
1992年、8月2日。結局長々と話してしまい、私と如月先生は屋上でコーヒーを飲みながらサボタージュと言うやつに移行した。屋上で干されているリネン類の影で私達は淡々と思い出話しをしていた。
楓と言う少年とほぼ婚約者同然の関係だったこと、私の愚かさが原因であの子の下半身に麻痺が残っていること、如月先生が楓の主治医でペースメーカーをつけてくれたこと。流石に心臓のサルコイドーシスで入院するケースなんてそうそうあるものではないので如月先生も、食堂の段階で何となくわかっていたようだが。
「いや、しかし。あのときの少年の話しとはびっくりしました」
ブラックコーヒーが似合いそうな先生は、意外なことに甘々のカフェ・オレの缶を飲みながら感想を語った。
「まさか、あのときのお連れのお嬢さんが、あなただったのにも驚きました」
如月先生は白髪交じりの頭をガシガシとかきながら私に苦笑いをしている。ここまで話しを聞くと私が外科医になりたい気持ちにも一体の理解を示してくれるだろうか。まあ、才能が無いことについてはどうしようもないのだけど。
私は微糖の缶コーヒーに口をつけ、話し続けていた喉を労る。ほんのりとした甘さが喉を潤してくれるが、これは水分補給にはならないのだと原材料の一番上にコーヒーが書いてある成分表を見て考える。あの日楓が淹れてくれた麦茶は飲みやすくて水分補給には最高だったと改めて思う。
「2年前に大学でお会いした時は、私のことには気がついてなかった様ですからね」
意地悪な言い方をしてしまった。この春の初期臨床研修で本格的に関わりが増えただけの研修医と3年前の患者の連れが同一人物なんてなかなか考えが至らないだろう。
「いやはや、お恥ずかしい。うちの患者の関係者が、うちの大学の関係者なんてなかなか無いですから」
まあ、普通はないだろう。後々楓の親父さんに聞いたら名古屋市など近隣の県でも良かったのに、楓と私のためにわざわざ病院を指定したと言っていた。結果としては如月先生と言う名医と出会う事ができて、楓は今日も生きているわけなので人生何が転機になるか分からない。
「それであの子、楓君は元気にしてますか」
楓は今は長野の病院に入院している。何度かの検査の後に肺にもサルコイドーシスの肉芽腫が発見され難病指定を受ける形になり、生家のある長野の病院に転院となった。
「ストロイド薬で治療は続けてますが、一応は安定してます。それでもリハビリは進んでなくて大分麻痺が残ってます」
風が洗濯物の間を抜けて、優しい香りと涼しさを届けてくれる。私はまた缶コーヒーに口をつけて話を続ける。
「あの子、基本は馬鹿みたいに前向きなんですけど。リハビリはやっぱり怖いみたいであんまり捗ってないんです」
如月先生はまたカフェ・オレの一口飲んで伏し目がちに下を向き、ふっーと深く息を吐いた。
「いつ心臓が止まるか分からない、と言ったのは私なんで申し訳ない事をしましたね」
それでも先生は楓の日常生活を取り戻してくれた。私達は感謝の言葉しかないのだから、責任は感じないでほしい。
「いいんですよ。先生のお掛けでよくなっている事のほうが幾万倍とあるんですから」
如月先生は伏し目がちだった顔を上げて私に苦笑いを向けてくる。
「ありがとうございます。そう言ってもらえると医者としては救われますね。それでその、桜子さんはあの子をどうやって助けてあげるかビジョンというか方向性は見えているんですか?」
痛い質問が飛んで来た。私に外科医の才能が有ったら心臓の生体移植とか答えられるのだが、全くそういう事ができる気がしない。
「志はあったんですけど、今は内科的なアプローチ、ステロイド薬での治療しか」
如月先生の口角が上がったような気がした。やっぱり私には無理だと思われていたのだろうか。
「私もね。あの子の胸にメスを入れて直に心臓を見ましたが、あれを何とかする手術は思いつかないですね」
実際に見た先生が言うんだから間違いないだろう。私に出来ないことが如月先生も無理だと言うなら仕方ないと諦めがつく。
「画期的な治療方法が見つかったりすればいいんです、まだ諦めないでくださいよ」
たしかに医学は日進月歩で進んでいる。今、世界の何処かで楓みたいな子が手術を受けて助かっている可能性もある。私達医師がそういったことにアンテナを広げていれば、いつかはあの子を救えるかもしれない。私がそれを見つける可能性だってあるんだ、楓の心臓が止まる前に絶対に何とかしてみせる。




