御宿土佐中村城の朝食
小説家になろう主催秋季限定(9/21~10/26)の投稿企画
「秋の歴史2023」のテーマは「食事」
この企画に乗っかってみることにしました。
今回の話は「戦国クラス転生」63話「千利休の土佐日記 後編」部分に当たりますが、本編を読んでいなくても楽しめるように書いていきますので重複した説明が差し込まれています。
感想、誤字報告いつもありがとうございます。
私の名前は田中与四郎。後に千利休と名乗ることになる男だ。クラス全体が戦国時代に転生させられたうちの一人である。順番に1500年から1550年の間に生まれた人物を選択していく中で千利休を選択した。
今は1533年。同じく転生した一条房基が治める土佐中村へやってきていた。同じ1522年生まれの11歳ながら、元服をすませ西土佐を平定し、従五位下の官位まで持っている。この度、豊後大友の姫君と結婚することになって土佐に招かれたのだ。なお1534年に転生予定の織田信長はまだ生まれていない。
土佐中村城は一条家の家老の城であったが配置換えとなったため直轄領となり廃城になった城を宿泊施設に改築した建物である。婚儀に招かれた多くの客人が泊まっていた。
朝食に出された膳に並んでいたのは、白いご飯に味噌汁と漬物と冷奴と炙った干物。これほど”豪勢”な食事は転生して初めて食べたと言ってもよいほどであった。
まずは白いご飯。戦国時代はほとんどの民は精米されていない玄米を食べていた。表面を削って白い米にしてから炊くことはない。玄米どころか雑穀しか食べられない農民も多かったという。精米という加工するコストをかけるなど贅沢の極みといえるのだ。柔らかいご飯。噛むごとに口内に甘みが広がっていく。米だけでいくらでも食べられそうであった。
次に味噌汁。私は土佐節(鰹節)で出汁を取った味噌汁を選んだが、僧侶のような動物由来の食材を避ける人向けに魚でなく椎茸のみで出汁を取ったものも選択できた。この時代、椎茸の人工栽培は行われていない。椎茸は山で見つけてくるしかない高級食材なのだ。そして鰹節もまた発明されていない。堅魚と呼ばれる鰹節らしきものはあるが長期保存できない代物だった。私(千利休)の生家は堺の豪商で屋号を魚屋という。一条家が開発した土佐節(鰹節)の取引の窓口となり大きく稼がせてもらっている。椎茸の人工栽培も行われているようで、こちらは別の商家が取引をしている。転生者としての知識で一条房基は大きく稼いでいるのだ。
漬物は糠漬けであった。これもまた堺では見たことはなかった。必要な米糠は精米することでできるが、精米せずに玄米を食べているのだから糠漬けが生まれていないのだ。最先端の味といえる。
豆腐はまだ新しい食材ではあるが堺でも食べたことがあった。だが冷奴で食べたことはない。醤油がないからだ。その醤油が用意されていることに驚かされた。一条房基いわくこれは”たまり醤油”であって醤油ではなく、醤油の開発に試行錯誤している最中とのことであった。そもそもまだ存在していない醤油が求められることはなく、醸造所では清酒の生産を優先しているそうだ。この時代、清酒は希少な酒で、多くが白く濁った賞味期限の短い酒しか作られていなかった。土佐で作られている清酒は市場を席巻しており、高額で取引されている。醤油を作るより儲かるので醤油開発は小規模で進められているらしい。なお、豆腐も木綿豆腐ではなく絹ごし豆腐で、薬味としてショウガと削り節が添えられていた。
戦国時代に転生して痛感したのは食事が質素で味のバリエーションがないことであった。流通している調味料が塩くらいしかないからだ。砂糖も醤油もない、酢と味噌はあるにはあるが普及しているとは言い難いのだ。油が貴重なこともあり、蒸す・炊くが中心で、炒める・揚げる・煮るという調理方法が未発達なのだ。
今回の婚儀で各地の有力商家が土佐に集まった。土佐中村城は時代の最先端の料理が提供される宿として天下に名を轟かせることになるだろう。次回来るのが楽しみだ。
話の大きな流れは本編でお楽しみください。
この短期連載は不定期更新で戦国時代の食事事情の話が中心となります。
戦国時代転生モノは超高級品扱いの清酒、椎茸で稼ぐエピソードがよく出てきます。
砂糖、醤油、鰹節、絹ごし豆腐なども庶民が口にするようになるのは江戸時代になってからです。
面白いと思った方、
ブックマーク、ポイント、いいね、いただけると嬉しいです。