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幼馴染と甘くて苦い、星降る夜のバレンタイン。

作者: マスターベーターストロング

 高校三年、2月13日。




 おれは窓際の席で頬杖をつきながら、体育にいそしむ後輩JKたちを眺めていた。




 青空に棚引く白い雲、その下に広がる絶景を眺めては、このボーナスタイムもあと数十日で終わりなのかとため息を付いた。




 卒業まで一ヶ月を残したおれたち三年生は、物語のエピローグを飾るような日々を送っている。


 あんなことがあったとか、こんなことがあったとか。


 届かないからこそ、奪われることのない、そんなどうしようもない過去をつくろうように無理やり。


 綺麗な絵の具で塗りつぶして微笑んでいる。




 擦れたようなことを言って、くだらないことで笑い合う。ああいう騒がしいクラスの連中をおれは三年前影で馬鹿にし続けていたものの。


 


 卒業を前にして思うのだ。




 おれは、"くだらないこと"で笑い合えるあいつらが羨ましかった。






 あーあ。いつからおれの青春は間違えたんだったか。


 おれは、授業を聞きながら眠るような感覚で短いこの三年間の青春の在りし日を思う。








 高校一年の夏、おれは間違ったことをした。








 兼ねてより続けていた野球。それも、プロへ行くようなやつがたどる道をおれはひたすら辿った。




 中学校では、レベルの低い野球部なんかではなく、硬式ボールを扱うクラブチームに入った。


 元プロ野球選手のコーチに、毎週毎週指導を受けて汗水流した。


 三年が経って気がつけば、代表選手に選ばれて、トントン拍子で高校への特別待遇入学も決まった。


 


 入学後もつつがなく、おれの野球人生は続いていたはずだった。






「……あれ」




 一年生、大会前の夏だった。




 それはキャッチボール前、ストレッチをしているときに訪れた。


 右肘の内側、何かが剥がれているようなその感覚。




 思えばそのときに、やめておくべきだったのだ。








「非常に申し上げにくいのですが、土佐さんは【離断性骨軟骨炎】といういわゆる野球肘という病気でして……発育期に肘に激しい運動といいますか、まあ野球ですよね。それで――――」








 真っ白な白衣を着た医者の淡々とした説明なんて、もう耳に入ってこなかった。








 気がついたときにはおれは結局、もう一生野球が満足にできない体になっていた。




 無理をしてプレーはできても、その先の"高み"には登れない。






 体罰だろうが、パワハラだろうがそんなものは心でどうにかなった。


 同じポジションを争う好敵手も抜き勝った。


 くだらない嫌がらせをしてくる下手な先輩にも押し勝った。


 同じ白球を追いかける、敵にも打ち勝った。




 勝って勝って勝ち続けて――――でも、結局おれは自分の怪我には勝つことができなかった。




 おれの野球人生の七年間。やめたいことも何度もあった。


 それでも続けて、()()()()()。勝ち続けてそれで。






 最後に味わったのは自分の体への敗北だった。




















「――――くそっ死ねよてめぇっくそっくそっ!」




 おれが、暴力事件を起こしたのはその一ヶ月後だった。




 おれの経歴と過去を知る、――おれの競争相手にあたる選手。おれが負けるはずのなかったヤツだ。


 下校途中、怪我したおれをひと目見て嘲笑おうと話しかけてきたそいつに「怪我して野球できないなら死ねよ」とかなんとか、そんな感じのことを言われて胸ぐらを掴まれたときだったと思う。




 正直、あまり覚えていない。




 朝起きて、学校行って、睡眠薬を飲んでなんとか床につく。


 それで精一杯の毎日だったから。他のことなんてよく覚えていない。




 ただ、覚えているのは。




 拳の皮がめくれたことと、鼻血だかなんだかで制服が汚れたこと、虚勢が一挙に消え去ったようなクソ野郎の横たわる姿と。




 あとは、そう肘の痛みだった。




 ……それと、どうしても忘れられなかったことが一つ。










明人(あきと)っ、やめてよっ!そいつ死んじゃうよ!」










 昔付き合っていた幼馴染と、三年ぶりに話したのはその時のことだった。


 分かれてから三年間、同じ高校でも一切話すことがなかったのに。




 その時は、必死におれの手をつかんで、止めてくれていた。




 赤みの混じったパープルブラウンの綺麗な長髪。端正な顔立ちに、長いまつ毛が不安げに揺れている。


 久しぶりにみた、彼女の横顔は少し大人になっていた。その表情が、不安と涙に歪んでいなければもっと綺麗なのに。






 どうしておれは…………こいつを笑顔にしてやれなかったんだろうか。






 そうか。おれ、後悔してんだなあのときのこと。後悔?








 ――――――――――ああ、そっか。おれ、まだコイツのこと好きだったんだな。










 おれはコイツのこういう顔が見たいんじゃなくて、彼女の――小桜(こざくら) 奈緒(なお)の笑った顔がおれは大好きだったんだ。




 気がつけば、くだらない元野球部の同僚に打ち付けるために上げていた拳を静かに下ろしていた。




「――――え。明人(あきと)……大丈夫? なんであんたが泣いてるの?」






 全く、ほんとうに情けない。




 おれの青春――いや、おれの人生は、きっとこのとき間違った。


















 一ヶ月もの停学の後、おれは復学。当然、学校内での立場なんてどこにもなかった。


 殴った相手側とは学校と親を介して色々あって示談で済んだ。


 おれは親からこっぴどく叱られて、示談金をバイトで稼いで返す羽目になった。




 たった、一つの間違い。




 それで、友も金も、学校での立場も――――そして、野球も何もかもすべて失った。






 でも、もうどうだってよかった。






 おれの生活に一つだけ。




「殴ったあいつ、「付き合わない?」とか「今付き合ってる人いる?」とか超しつこかったから正直わたしはスカッとしたけどね?……でもほんと、昔からそうやってすぐムキになるのやめたほうがいいよ?」




 彼女のひまわりのような、穏やかな笑顔が華はなやいだ。


 小桜(こざくら) 奈緒(なお)に笑顔が戻った。




「売られた喧嘩は買うのが常だろ。手出してきたのはあいつからだったし。正当防衛だ」




「過剰防衛でしょ? 失神してたし~」




 一ヶ月もの謹慎が終わって、おれにとっては久しぶりの学校。その初日だった。


 ズズズッと下校途中に立ち寄ったマックのシェイクをすすりながら彼女はどこか上機嫌だった。




「なんか、こういうの久しぶりだな……あの頃は色々とすまんかった」




「……私もあの頃はごめんなさい。ほら、思春期だから色々多感だったの」




「なら、おれは今思春期なのかもな―」




「多感だからって暴力ふるっていいわけじゃないから」




 たははっとどこか、乾いた笑いがもれた。


 ああ、そうだ。こういうほどよくどうでもよくて、ほどよく居心地のよい彼女との空間が大好きだった。




「じゃ、帰ろっか」




 彼女は、ゆっくりとトレイを持って立ち上がった。




「ああ。気をつけて」




 おれがそう言って、スマホを取り出して電車の時間を確認する。


 15分後か……まあ、まだおれはいいかな。




「……」




 気配を感じて顔をあげると、ジト―っとした目で奈緒(なお)がおれを見ている。




「え、何?」




「……一緒に帰るんじゃないの?」




「あー。いや。駅前でたまたまあっただけだからここまでかと」




「ふーん……どうせ家近いし、久しぶりに一緒に帰ろ?」




「……分かった」




 思えば、このときがきっかけだったかもしれない。


 奈緒(なお)と再び遊ぶようになったのは。














 ――――そうやって、時は過ぎ去った。




 おれは、彼女と遊ぶようになって気が付いたことが一つあった。




 おれは、どうやら遊ぶのが下手らしい。


 今まで野球しかやってこなかったってのもあるのかもしれない。




 カフェの使い方や、服屋とはどういうところなのか、カラオケはどうやって遊ぶものなのか。


 今まで丸坊主にしかしたことがなかったから、ボサボサの髪をあいつに切りに行かされたっけ。


 夏には、一緒にプールにも行った。旅行もしたし、いちご狩りとかなんだとか、ゲーセンいったり、アニメのイベントに連れてってもらったり何なり。




 逆におれがあいつをバッティングセンターに連れて行ったりもしたな、楽しそうでよかった。


 






 あとは、まぁ本当に一回だけ。






 


 "女の子"とどうやって、"遊ぶ"のか初めてちゃんと教えてもらった。




 聞けば、彼女も"男の子"とどうやって"遊ぶ"のかこのとき初めて知ったらしかった。






 それでも、ずっと奈緒(なお)は一貫しておれに言い続けた。






 彼女とおれが"遊んだ"あと。


 はだけた服でその豊かな胸元を隠して、頬を少し紅潮させていた。


 あのときは女の子の――奈緒(なお)の匂いがしていたのをとてもよく覚えている。


 色々な欲望を吐き出した後のゴム製の何がしかをティッシュで包んでゴミ箱に捨てながら、奈緒(なお)は言った。






「……わたし、明人(あきと)と付き合ってるわけじゃないからね?」






「何回も聞いた、それ……」






 そう言うと彼女はおれの下半身の方によってきて、「きれいにしてあげる」とかエロ漫画みたいなセリフを言ってきた。おれは笑った。彼女も笑った。そうやって、二人して笑った。




 笑ってそして、不思議に思った。


 付き合ってるみたいな"コト"して、付き合ってるみたいな"雰囲気"で。




 おれと奈緒(なお)は、付き合ってはいないのだ。


 






 付き合ってはいない、でも友達かと聞かれたら首を傾げる。




 幼馴染で同級生。しかも元カノ。




 この青春でたった一人だけ、おれを見捨てないでいてくれた人。おれをこの学校にいさせてくれた恩人。






 振り返ると、返しきれない想いがたくさんあることにおれは今更ながらに気がついた。






 この恩をどう返すべきなんだろうか。




 この問に答えるために、更に過去へと想いを巡らせた。




 2月14日。




 おれは、小桜(こざくら) 奈緒(なお)と付き合っていた中学1年生のこの日のことを思い出していた。




 彼女と並んで歩いた、帰り道。セーラー服と学ラン姿。五分刈りの丸坊主に、高校生の今よりも少し短めの彼女のしなやかな髪が揺れている。


 今の高校のブレザーとはひと味違った青春の風味がする、奈緒(なお)の背中を思い出した。






「……はい、これ。あげる」






 一足先に歩く彼女が振り返ると、おれからしたら宝石箱のように輝いて見える赤いハート型の箱にリボンの装飾がついた"それ"が差し出された。




「あ。――――もしかしてチョコ!? マジ!? おれに!?」




「あたり前でしょ? 彼女だし」




 受け取ると、しっかりと質量以外の重みを感じた。


 おれは、今。もらったんだ。人生で初めて、チョコを。




「おぉー……ありがとう!超うれしい!ホワイトデーぜってぇ返すから!」




「うん、期待してる。それより代表選手のセレクション頑張りなよ」




「おう、まかせとけ」




 おれはこのとき、地区の代表選手のセレクションを受けていたんだった。




 死ぬほど頑張って、頑張り抜いて、それで








「おめでとう。代表選手」




「ありがとう。マジで嬉しい」




 お祝いに買ってきた、バレンタインが終わって安売りされてた手のひらサイズの小さな宝箱。


 その中にたんまりと入っている、金ピカに輝いたコインチョコを一緒に食べた。




 美味しかった、幸せの絶頂だった。




 そんなとき、おれが切り出したんだっけ。




「しばらくさ。離れない?」




 話を切り出したのはおれのほうからだった。




「なんで?」




「野球に命かけてみたくなっちゃった」




「付き合ったままじゃダメなの?」




奈緒(なお)と釣り合うくらいの人間にならないとダメだと思って」




「なに? わたしが芸能活動してて明人(あきと)と遊べてないの気にしてるの?」




 小桜(こざくら) 奈緒(なお)は、芸能関係で働いている母親の影響もあって県では有名なアイドルユニットの一人だった。


 おれは野球で彼女はアイドル。


 お互いに忙しくなっていって、もう最近では遊ぶことすらめっきりなくなってしまうほどだった。




 だから、お互いのためにも。ここは、離れたほうが良いのかもしれない。




 それにいつだったか初めて舞台で輝く奈緒(なお)を見て、おれは決めていた。




「おれも奈緒(なお)も最近忙しいからさ。ここはお互いのやりたいことのためにも一回離れてみるのもありなんじゃないかと思った」




「……なんで?わたし明人(あきと)のこと好きなんだけど。別れたくないんだけど」




「違うんだ。好きとか好きじゃないとかそういう話じゃなくて。おれは、奈緒(なお)と対等になりたいんだ」




 対等になりたい。それがおれの願いだった。




「なにその言い訳? わたしより野球のほうが大事みたいじゃん……意味わかんない。ほんと意味わかんないし」




「あ、おいっ。奈緒(なお)、ちょっと――」




 それからというものの、最初の方はおれが一方的に追いかけて話しかけに行ったけど数週間後だったか、挨拶どころか一言も話すことはなくなったんだ。


 違う、話すことができなくなったんだった。




 ――――――――彼女が学校に来なくなったから。


 


 家に行っても、彼女と話すことは叶わなかった。




 「奈緒(なお)には、心の問題がある」と。




 奈緒(なお)の親からはそう聞かされた。




 彼女は、兼ねてより続けていたアイドルをやめたのだった。


 ちゃんとした別れの言葉もなしに、おれたちは別れたんだった。




 3月14日。肌寒い夜のことだった。一人うつむいて、街頭の並ぶ並木道を歩いて帰った。




 おれは思った。


 彼女の人生のためにも、おれは関わらないほうが良い人間なんだと。


 そうして、彼女と話すことをおれはいつの間にか諦めていた。








 


 




 ――――思えばそうだ。




 おれは、あいつにあのときのバレンタインのお返しをしていない。




 だから、きっと。今年の3月14日でもいい。


 ……いや、ダメだ。明日じゃないとダメだ。


 2月14日じゃないと、ダメだ。




 3月14日じゃ、卒業しちまっている。




 青春のうちに起きたことは、青春のうちに終わらせなきゃ。




 おれは、授業が終わってSTが始まる前に教室を飛び出して街中にチョコレートを探しに巡った。




 あれがいいとかこれがいいとか、考えは色々あった。


 でも最初から決まっていたんだろうな。




 おれと彼女が別れたあの日、一緒に食べたチョコレート。


 あの日の甘さを、あの日の苦さを、忘れることのないように。

 宝箱に入ったコインチョコレートを買いに走った。


 どこを探してもなかった。なくてなくて。電車使ってタクシー使って、色々なところに買いに走った。




 そして、もうどこにもないと諦めていたそのときだった。


 隣の県の辺鄙(へんぴ)な街のとある大型スーパーの地下一階。


 輸入食品を取り扱っている、おしゃれな小売店の奥の方だった。




 売り物ではなく"飾り"だったが。




「すみませんっ!いくらでも出します!これを僕に売ってくれませんかっ!」




 移動代から示談金のときからただでさえなくなったなけなしの金を叩いた。


 財布の中は空になった。こんな所から、どうやって帰ろうか。


 夜の帳は降り、あたりは静けさに包まれていた。


 紙袋と身ひとつ。街頭に照らされて、一人知りもしない土地に置かれているおれは、不思議と何かが満足しているような気がした。






 高校3年生、2月14日。




「渡したいものがある」




 彼女と歩くいつもの下校途中、ファミレスに誘って。


 そう言い出したのはおれからだった。




「え? なんか貸してたっけ?」




 奈緒(なお)は顎のあたりに可愛らしく人差し指を持ってきて、可愛げのある女子探偵みたいに小首をかしげて見せた。


 少し長めのカーディガンから覗く小さな手が、愛らしかった。




「よいしょと」




 おれはカバンから宝箱を取り出した。比喩ではなく、本当に宝箱だ。




「え………………あ、開けていい?」




 かなり驚いているようだった。




「いいよ?」




 手のひらサイズの宝箱。カチャリと重めの金属の音がすると、中には輝くような黄金のメダル――のように見えるチョコレートが大量に入っている。




 彼女はそれを一枚手に取ると、ペリッと金箔の包装を剥がして中身のチョコをカプリとかじった。




「……チョコだ」




 どこかぽか―っとした様子の彼女を見て、おれは訥々と語りだした。




「――――おれ、ずっと気がかりだったんだ。お前にあのときのホワイトデーのお返しできてないの」






「あのときの……覚えてくれてたんだ……」






 彼女の目、瞳の中に何かがきらりと輝いた気がした。




「だからこの宝箱。めっちゃ遅れたけどお返し。足りないけど今までの分も、色々」




「これって、三年くらい前に一緒に食べなかった?」




「……お前も覚えてたのな」




「……忘れるわけないでしょ」




「「……」」




 途切れる会話、その波間。


 カランとコップの中の氷が踊った。




「あのね……私からもあるんだ」




 どこか、愛らしい目。


 少し朱に染まったその頬。




 奈緒(なお)は学校のカバンから控えめにそおっと何かを取り出した。




「えっと……これ」




 どこか伏し目がちに、おれの目を見ながらもそらしたそうなのが伝わってくる。ついでに、耳が少し赤くなっていた。


 なんだろうと、視線を彼女の手に落とすと。




「――――え」




 おれは思わず固まってしまっていた。




「……その。同じになっちゃった。」




 奈緒(なお)の方と、おれの方。


 目の前にある宝箱は、おれの渡したものと全く同じフォルムをしていた。




「「……」」




「…………ぷっ」




「…………ふふっ」




 ガハハッ!っと豪快な笑い声とあははっ!と無邪気な笑い声がファミレスの端っこに、楽しそうに響き渡った。




「ふははぁ……考えることおんなじだね、私たち」




 奈緒(なお)は長いまつ毛の端にうっすらと浮かんだ涙を少し丈の余ったカーディガンで優しく拭った。




「ははっ……ほんとな」




 おれは、合成革張りの椅子の背にもたれながら金属性のひねりを回して宝箱を開いた。金色にきらめくコインチョコを一枚取り出して、フィルムをめくりポイッと口に放りこんだ。




 程よい甘みと、芳醇な香りが鼻から通り抜けた。


 懐かしい味だ。


 この甘さをいつまでも、噛み締めていたくなった。




「でも……これはどうかな?」




 イタズラな笑みを浮かべる彼女。


 にひひっと綺麗な八重歯が色艶の良い桜色の唇から覗いた。




 彼女は、学校のカバン――――ではなく。




 立ち上がっておれのカバンを指さした。




「え、なに」




 おれが困惑したように尋ねると。彼女はその可愛い顔でくっくっと、顎で自分をカバンを開くように促してきた。




 なんの疑いもなくカバンを開き、中を確認。




 いつもと変わりない。相変わらず整理整頓できていないカバンの中身だ。


 が、しかし。




「……なんだこの不自然な膨らみは」


 


 おれのカバンの背中側のサイドポケット、正直一度も使ったことのないそこに、"何か"が確実にあった。




そっと、サイドポケットのジッパーを開けて。その膨らみの正体を確かめようと、引っ掴んで取り出した。




 時が、止まったような気がした。




 どこか懐かしい、あの頃もらったものと全く同じ、宝石箱のように輝いて見える赤いハート型の箱にリボンの装飾がついた"それ"が気がつけばおれの手には握られていた。 




「……はい、それ。あげる」




 三年ぶりに聴くその響き。おれの胸の底に溜まっていた、黒く濁った汚らしい何かが全部混ざって溶けていくような感覚がした。




「――――ありがとう。超嬉しい」




 想い出を探すように、その箱をゆっくりとなぞった。




 気がつけば、おれは人生で初めてかもしれない。


 嬉し涙を流していた。




 ずっと、遠回りばかりしていた。きっと、単純な話だった。




 友も、金も、学校での立場も、そして野球も、何もかもを失った。


 でもその悲しさは、その悔しさは。おれがおれを失ったからじゃなかったんだ。




 おれは、ただずっと。




 ――――――――――彼女の隣にいられなくて、寂しかっただけなんだ。




 ふと、心の底から浮き上がる一つの感情が形になって穏やかに繋がった。




 その感情は、体とか心とか。そういうおれを悩ませてきたものたちに、媚びることなく、気づいたときには、おれの口からまろび出ていた。




「――――好き」




 ゆっくりと、形になったその言葉。シンプルでいて美しいその言葉。


 おれはやっと、何かを乗り越えることができたようなそんな気がした。




 流れた涙をごまかすように、おれは溶けかけた氷の入ったグラスを一気に飲み干した。




 そのおれの一言に、彼女はどこか恥ずかしそうにおれを見てから微笑んだ。




「――――わたしも、ずっと好き」




 ずっと聴きたかったその言葉。ずっと聴きたかったその響き。




 おれの"恋"はチョコレートのように甘く、忘れられないほどの苦味もあった。




 だけど、ずっと“愛”だけは、絶えることなく繋がっていた。


 この街の、うらぶれた小さな星の(もと)


 隣にいられる幸せに。 



 甘くて苦い、星降る夜のバレンタイン。明人(あきと)奈緒(なお)は結ばれた。

数多くの物語の中から、この物語を読んでくださった方本当にありがとうございます!

人生で一回だけもらった本命のバレンタインチョコを思い出しながら書きました。

ハッピーエンドじゃなかったおれの現実の恋を、どうにか物語の中だけでも。


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[一言] >ハッピーエンドじゃなかったおれの現実の恋を、どうにか物語の中だけでも。 次こそ...!!
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