伯爵と異世界人の妻
最近、妻がおかしい。
もともと避けられていたから妻をさほど知っていたわけではない。
──だが、何かがおかしい。
服の趣味が変わった。好む味も変わった。テーブルマナーや言葉使いがおかしい。香水を変えた。使用人に八つ当たりしなくなった。ピアノを弾かなくなった。
避けられているのは変わらない。しばらく様子を見ていたが、ある日を境に妻はよく屋敷を抜け出すようになった。
外に男でも出来たのかもしれない。
そうであってほしい。
それなら理解できる。
目に入った埃がいつまでも取れないような違和感。ふとした瞬間に湧き上がる嫌悪感は妻が浮気をしたからなのか。
社交シーズンが終わり、タウン・ハウスからカントリー・ハウスへ戻る時期が来た。
我が伯爵領は王都から南に五日ほど馬車を走らせれば着く。道もなだらかで、治安も悪くない。しかし、浮気をしていた妻と馬車に乗る気はおきない。別々の馬車で領地に戻るのが良いだろうと妻に手紙を出す。
内心、王都に残ってくれても構わないとさえ思っていたのに、妻はあっさり了承した。
その後、騎乗した護衛らに囲まれ三台の馬車で自領に戻った。出発した日の夜、妻は初めて馬車の旅をした娘のように体調を崩した。
領地に戻って数日後の夜、妻を寝室によんだ。後継者を作るためだ。だが、妻は拒否した。
違和感。月の物なら女使用人が事前に知らせる。それ以外で妻は私の誘いを断れないはずだ。跡継ぎさえ産めば、その先は愛人と別宅で住むも、タウン・ハウスに残って贅沢に暮らすのも自由。貴族の結婚とはそういうもの。
「君は誰だ」
いよいよ我慢できず、責め立てるように問いただした。しばらく問答を繰り返した末に、彼女はこう言った。
「わたしは貴方の妻の身体に入った異世界人です」
にわかには信じられない。だが、感情的になった女の言葉を否定すると会話が難航する。ひとまず彼女の言葉をすべて肯定した。泣き出す彼女を慰めながら、では私の本当の妻はどうなったのかと疑問に思う。妻は以前から跡継ぎが授からないと気鬱と不眠を患っていた。
異世界から来たという女が目覚めると、サイドテーブルには空の薬瓶がいくつか転がり「貴方のせいよ」とひとこと、小さなメッセージカードに書かれていたようだ。──そこで異世界の女は黙った。
つまり、この女は自殺した妻の肉体を、乗っ取ったのだ。
悪霊ではないか。
利き手が左になり、話し方も癖も違う。妻の形をした見知らぬ女の言葉には奇妙な説得力があった。何よりここ最近の違和感がスッと消えた。
妻を追い詰めたのは間違いなく私だ。
妄想なのか、精神が破綻して狂ったのか。
それとも本当に異世界人の魂が妻に宿ったのか。
私には知る術がない。
ならば、これまで通り女を妻として扱うしかないのだろう。たとえ、彼女が悪霊だとしても。いつか妻の魂は戻ってくるのだろうか。
妻は素朴で地味な容姿を気にしていた。しかし、立ち居振舞い、ひとつひとつが洗礼され優雅で気品溢れる本物の貴族だった。
一方、付け焼き刃の教育を受け何とか貴族の体裁を保つ私は所詮、田舎貴族。比べるべくもない。住む世界が違う。
妻に憧れ、同時に嫉妬した。結婚はしたが、気のきいた会話も、完璧なエスコートも出来ない私は、いつしか妻に疎まれるようになった。
引き継いだ伯爵家の仕事を完遂するため忙しく日々を過ごしている──建前だ。妻と比べられるのが怖かった。底の浅い自分を知られるのが怖かった。いっそ他の男と子供でも作ってほしかった。そうしたら、高貴な妻も所詮はただの愚かな女だと笑えた。
そして、孕んだ子を私の種だと宣言し、大事に育てると誓った後は妻にいくらでも優しくできる。
私が妬み、憧れた妻はどこにもいない。そう思うと虚しく寂しい気分になった。だが、次第にほの暗い喜びも感じるようになった。それを自覚すると、今度は罪悪感に喉をかきむしりたくなる。
家庭教師を雇った。妻の形をした女は、私にふさわしい貴族女性になりたいと言う。私の顔がとても気に入ったらしい。婚約後に妻が同じようなことをいっていた。──笑えない話だ。
女にふれると肌の上を虫が這うような嫌悪感に襲われる。どうすることも出来ない私は、今日も曖昧に微笑む。妻の弾く、あの寂しく重く切ないピアノのノクターンは二度と聴けない。
──もう、妻の美しいカーテシーを見ることはないのだろう。
おわり