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いつの間にか、私は彼の住む部屋に入り浸るようになっていた。
本当に『いつの間にか』だった。自分でもいつからいるのか覚えていない。でも着替えは洗濯込みで困らない分が揃っている。服だけじゃなくて下着もだ。彼のパンツと私の下着の上下が並んで干してあった時、あぁなんかおかしいなこれ、と違和感に気付いた。
けど、おかしくて何がいけないと開き直る気持ちもある。そっちの方が強い。
彼は私のお尻にホクロがあることを知っている。
お父さんから、どこにいるんだと電話口に怒鳴られた時に言ってやった。
「お父さんって、私のお尻にホクロあること知ってた?」
『おま、なっ……はぁ? 急に何言い出し――』
「それ知ってる人んとこで暮らしてる」
すぐに切るつもりだったし、すぐに切ったはずなのに、耳の奥にお父さんの理解不能の叫び声が残響している。なんという沸点の低さだ。翌日、彼がいつもより遅く学校から帰ってきて、じとっと冷たい目で私を睨んだ。
「死んで詫びろ」
「やだね」
どうやらお父さんに殴られたらしい。お詫びに洗濯前のパンツを差し出したら、
「そういうことする奴だって親父に言ってやったぞ。泣いてた。親不孝者」
「え、でも好きでしょ?」
「布に欲情する趣味はねえよ」
「布にほんのり残った体温には?」
「それ、ほんのりも温かくねえだろ」
「なるほど」
待って。なるほどじゃない。
過去の自分にツッコミを入れながら、しかし今の自分に思うところはない。あったら過去を思う前に今を直しているわけで、当然といえば当然だ。
なんにせよ今、私は彼の家で暮らしている。
学校には随分と長いこと行っていない。朝、学校に行く振りをしてはコンビニやファミレスを渡り歩き、昼休みの頃にレシートとパン屋の惣菜パンを持って学校に行く。それを彼に渡すと、ため息のオマケに鍵と千円札をくれるのだ。
その鍵が今や我が家の鍵でもある。
ずっと持っていた方が便利だと気付いて鍵を返さないでいたら、何故か彼もあまり学校に行かなくなった。あんなに優等生だったのに。
……違うか。
彼は優等生のフリをしていただけで、本当は優等生でもなんでもなかった。
彼はいつからかバイトしていた。私が気付いたのは中学の頃。いや気付いたんじゃなくて、普通に教えてもらったのか。
放課後、いつも一緒に帰っていた彼から今日は無理だと告げられ、誰に告白されるのと聞いたらバイトだと言われた。
「バイト? 中学生なのに?」
「そ」
「バレたら怒られるよ」
「俺はな。バイト先は怒られるじゃ済まねえ」
彼は右手の親指だけを立て、首の前を横切らせた。
「え、死刑?」
「なわけねえだろ馬鹿か。まぁ廃業ってか、どうなんだろ、実刑はないかな」
「……そんなとこで? 大丈夫なの?」
「分からん。どうだろ。ちょっと下手打ったらまずいかも。爺さんだし」
「爺さんだと危ないの?」
若いお兄さんとかの方が危なそうだけど。あとお酒臭いお姉さんとか。そっちの方が危ない。絶対ダメだ。でもお爺さんなら、危険はなさそう。
「歳取るとな、早とちりするようになるんだよ。短絡的になるっていうかな。まぁだから、時給上げてくれって頼む時は要注意だ。脅してんじゃねえ、頼んでんだって分からせなくちゃな」
「賃上げ要求」
「お、難しい言葉知ってんじゃん」
「お父さんが言ってた」
「そっかそっか。まぁじゃ、俺この後バイトだから」
「ん」
「今度どっか遊び行こうぜ。勤労者だからな、奢ってやるよ」
「え、ほんとっ?」
バイトって最高だな。なんて素晴らしいものなんだ。
「じゃあさ、今度の夏祭り行こ?」
「夏祭り? そんなのあったっけ」
「あるよ、あるじゃん。毎年おっきな花火上げてるやつ」
「あぁあれか。あれ花火大会じゃなくて煙火大会だけどな」
「演歌? カラオケじゃないよ?」
「違えよ。煙に火の煙火。花火のこと。あれ夏祭りじゃなくて、花火のなんか競う大会だから。出店はオマケ」
「そうなんだ。でさ、一緒に夏祭り行こ」
「人の話聞いてねえな、お前」
「聞いてた聞いてた。奢ってくれるんでしょ? たこ焼きとラムネがいい!」
「はいはい、安上がりでいいな」
「高いよ?」
「お前な、お好み焼きと綿あめとくじ引きと、あとなんか適当に色々奢ってくれって言っても、クラスの男子なら大半が即答で頷くぞ」
「そうなの?」
「そうなの」
「じゃあさ、お好み焼きも奢って」
「増やすな」
「でね、二人で半分こしよう」
「人の話を聞け。てか、じゃあたこ焼きは半分こじゃなかったのかよ」
「え? だって奢ってくれるんでしょ?」
「そりゃそうだけどな」
「たこ焼き、好き?」
「や、別に」
「じゃあ何が好きなの?」
彼は私を見て、一瞬、言葉を詰まらせた。
「そうだな。あー、ハンバーグ」
何を言っているんだと思ったことがある。
そう、それは昔の話。
遠い遠い、ほんの五年も前ではないはずなのに、遥か昔の出来事になってしまった過去の思い出。
今の私の口には、彼が『あーん』してきたハンバーグの味が色濃く残っている。
不味かった。
こんなに不味いハンバーグが存在するのかと驚くほどに不味かった。でも我慢した。世界で一番、誰も経験したことがないくらいに不味いハンバーグ。その味を知っているのは、私と彼だけ。
その彼の口元が小さく動いた。
私にだけ聞こえるように、そっと囁く。
「おい、線香花火どころか花火自体売ってねえんだけど」
「おかしいね」
「そうだろ。今何月だと……そりゃ売ってねえわ、俺は馬鹿か」
「あはは、私も馬鹿だから安心して」
「なんの慰めにもなってねえよ……」
彼は愕然としていた。
本当に気付いていなかったのか。だとしたら馬鹿だ、大馬鹿者だ。てっきり私を慰めるとか、元気付けるとか、なんかそんな感じで言ったのだとばかり思っていた。まさか本当に買って帰るつもりだったとは……。
まぁ、迷いのない足取りでコンビニに入っていった時から妙だとは思ってたんだけど。
「どうする」
「どうしよっか」
「え、なに、何このテンションの差」
「私はさ、お前と一緒にいられればそれで」
「俺は良くねえ。ねずみ花火のテンションになってたんだよ」
嘘だろ。
こいつ冗談だろ。
人が恥ずかしいの我慢してちょっと恋人みたいな、なんか恥ずかしいけど後々良い思い出になるかもしれないこと言おうと思ったのに、それ遮ってねずみ花火とか言いやがった。しかもなんだよ、ねずみ花火のテンションって。
「えっと、ねずみ花火、そんなに好きなの?」
「いや嫌いだけど。むしろ大嫌いだけど。見ててムカつくじゃん」
「えぇ……」
意味が分からない。
なんだこれ、私のこと見てる時に考えてることなら一発で分かるのに、どうして花火と向き合っただけでこんなに意味不明になるのか。
それとも私を見て「こいつ馬鹿だな」「太もも」「胸」しか考えない彼に問題があるのか。それしか抱かせない私に問題があるのか。あとなんで太ももが胸より前に来るんだ。太ももくらい見たいなら見せてやるし、触りたいなら触らせてやるから、順序を入れ替えろ。不愉快だ、不可解だ。
「まぁ、仕方ない」
「お、ようやく諦め」
「他の店探そう」
おいおい。
「おいおいおい」
「なんだよ、どうした」
「私の台詞だよ」
お前の頭はどうなってやがる。
「そんなに花火したいの?」
「したいっつうか、見たい」
したいというより、見たい。うむ。そうだな、そこはいつもの彼だ。
「じゃあさ、一緒に行こうよ」
「当たり前だ。どこか知って――」
「来年」
「え、なんでねずみ花火ごときに半年以上も」
「そうじゃなくて。来年のさ、なんだっけ、カラオケ大会?」
「煙火大会な」
「分かってんじゃん」
彼は我に返ったような、バツの悪そうな顔でそっぽを向いた。
「ね、一緒に行こ。そんで奢れ」
「やだよ。お前もいい加減バイトくらいしたらどうなんだ」
「いいけど。バイトしてもいいけど、でも、そしたらご褒美に奢って」
何を意味の分からんことを、と彼の瞳が切に訴える。
いいじゃん、別に。こんな我儘くらい、聞いてくれたって。
「それでさ、今度はたこ焼きを半分こしよ」
「自分の金で買うのに半分しか食えねえのかよ、俺は」
「そうだよ。だって、そうじゃん」
ふと、久しぶりに思った。
みんな死んじゃえばいいのに。
店員も他の客も、部屋で待ち構えているはずのお父さんたちも、みんなみんな。
そうしたら私は、誰の目も気にしないで彼を抱き寄せられる。抱き締めて、もういいよ、ありがとうって囁やける。
そうしたら彼は、やだねって小さく笑う。意地悪そうに、やだねって。
今はできない。
みんないる。今は見ていなくても、何かをすれば誰かが見てくる。
「ねぇ、」
「急になん」
「好きだよ。君以外の誰一人、私にはいらない」
言ってみて、やっぱり思う。
この気持ちは、どう繕っても恋情にはなれないらしい。
友情ですらなくなってきたそれは、じゃあ、この先どうなっていくんだろう。
「それ、なんの台詞?」
彼が笑う。
小さく、けれど温かく。
「さぁ? いつかの、どこかの、誰かの台詞」