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「そういえば、一回なのか? 一晩なのか?」
n時間に気を取られるあまり、大切なことを聞きそびれていた。
そのことを思い出したのはファミレスを出て十五分か三十分も歩いた頃だった。
「一回に決まってるだろ。一晩なんて、何発されるか分かったもんじゃない」
ふん、と鼻を鳴らす彼女は、どこかいつもの調子が戻ったようだ。
しかし、そうか、一回五万か。
「それでも安いな」
「何が?」
「十万……や、二十万でも払う奴はいる」
なにせ見た目だけは完璧な女だ。ついでに年齢は十七。非の打ち所がない。
「お前以外に売る気はないって」
「そりゃ光栄で」
我ながら乾ききった笑い声だった。
「ちなみに、一回ってことは、一回終わるまでは何時間でもいいのか?」
「どんな自信家だよ。溜まってるくせに」
男子高校生の一人暮らしの安寧を脅かす存在がいるせいなんだが、自覚はないのだろうか。あるんだろうな。
「ただまぁ仮にだ、仮にだが、このままホテル行って何もしなかったら一回もないわけだ」
「何が言いたい」
「一晩だと幾らになる?」
軽蔑の眼差しを向けられた。
おいおい、一回じゃ不満なのかよ、とでも言いたげ。
なんなら、マジでそういう気があるのかよ、という思いも内包していそう。そういう気というのは、まぁ、支配欲の究極である。俺が父親になるというそれ。
ただ、なんだ。
大人になった俺の隣に彼女がいる。
その光景は思い描けるが、二人の間にいてもおかしくないはずの小さな人影は、ついぞ思い描けなかった。
「じゃあ、十万」
「三回やったらお得だな」
「死ね」
「ところで、明日一日くれって言ったら?」
「は?」
「や、だから、一晩じゃなくて一日ならって」
お前は何を言っているんだと、言葉よりも力強く訴える眼差し。
「ほら、よくあるじゃん、朝日に向かって立ったまま、とか」
「よくあるのか」
素で引かれた。
「や、知らないけど」
「知ってる奴の言い方だったぞ」
「そんなよくなんか見ないし」
「時々は見るのか」
口は災いの元。
つまり口を閉ざすこと、それは世界平和の始まりである。
「まぁ、十万でいいよ」
「昼が夜の何倍あるか数えたことがないのか?」
「別に一日中やる体力なんかないだろ、お前」
「多分最初の一日ならいけると思うが」
「……マジで?」
「や、まぁ、うん、多分……?」
「え……ふぅん」
また引かれた。
いや、待ってくれ。そういうつもりじゃないんだ。話の内容は完全にそういう感じだが、俺なりに考えがあってこういう話の流れを作ったんだと急に言い訳したくなった。
しなかったけど。
言い訳するより、さっさと本題に入ってしまった方がいい。
「じゃあ、もし仮に三百万用意できたら、お前の一ヶ月を俺にくれるか?」
三百万。
そんな大金あるはずがない。
彼女は目を見張り、呆れたように息をつく。
「馬鹿げてる」
「年収なら三千と六百万だな。不可能じゃない」
「お前、自分の経歴分かってるのか」
「まだ現役高校生だが」
「留年すれすれの、な」
「だけど未来のことは誰にも分からない。不可能とは誰にも言えない」
一日で十万。
それが三十日。
そして十二ヶ月。
無理だと笑うなら、笑えばいいさ。
「信用しろってのか?」
「そんな馬鹿なことあるか。口で求める信用ほど、信用ならんものはない」
だけど、――だから。
「なぁ。ぶっちゃけると、俺は案外モテるんだ」
「案外ってか、普通にモテそうなんだけどな」
「そうなのか?」
それは初耳だ。
「お前みたいな中途半端にグレた奴は、若くて馬鹿な女に人気がありそうだ」
「じゃあ、お前は若くないのか」
「馬鹿じゃない方に決まってんだろ」
「でもさっき、自分で馬鹿だって言っただろ?」
笑ってやる。
彼女もすぐさま思い出したようで、顔をさっと赤くした。
「じゃあ馬鹿で若いんだよ」
「気付け、それ墓穴掘ってるぞ」
あと十年も過ぎたら、俺たちは互いの隣に立っているかもしれない。
でも今は無理だ。
今はどう足掻いても、互いの肩に寄り掛かるのが精一杯で。
「ま、だから好きでもない相手と寝るほど困っちゃいないわけだ」
「好きじゃなくても美人は美人だ」
「そうだな、お前は綺麗だよ。あと可愛い。胸もデカい」
「最後のは余計だ」
「でもデカすぎないし、てかどっちかっていうと太もも――」
「キメェ」
「急に変な鳴き方……いや、これはもういいか」
ふと息をつく。
疲れた。
なんていうか、慣れないことをしてきた気がする。
「代わりに飯、奢ってくれ。今は金あんだろ」
「何が食いたい」
「焼き肉」
「じゃあ、ジンギスカンでも食いに行くか」
「共食いでもする気かよ」
「なんていうか、北海道って気分だった」
なんだそれ。
本気で意味が分からん。――いや、まさか。
「食いに行くって、まさか北海道まで?」
「金ならある」
「足りねえよ。お前は五万をなんだと思ってるんだよ」
「……え、足りないの?」
「来月か再来月の格安便を予約すれば、足りる……かも」
少なくとも今から行って食って帰ってくるのは無理だろう。一人なら、どうか。いや、無理か。そもそも向こうで一泊する必要がありそうだ。絶対に足りない。
「じゃあ仕方ない。うどんで我慢してやる」
「急に安くなったな。でもさっきハンバーグ食ったし、まぁうん、あっさりめで――」
「だから香川行こう」
「飛んだなぁ。急に飛んだなぁ……」
北から西へ急角度の方向転換。
ていうかそれ、結局同じことにならないか。
「足りないぞ、多分」
「え、でも香川のうどんは安いって」
「香川までの交通費は安くねえよ……」
どうすりゃ香川で食ううどんが地元で食ううどんより安上がりになるんだよ。お前は香川県民か何かか。
「じゃあ、仕方ない」
「おう、今度はちゃんとまともなこと言ってくれ」
「自分の旅費は自分で出す。だから沖縄行こう」
「奢れって言ったの、完全に忘れてんだな……」
これじゃあ俺が馬鹿みたいだ。
いやまぁ、俺は馬鹿だったな、そういえば。
そして彼女も、俺を真似してきたせいで馬鹿になってしまった。
言葉が足りない。
大切な言葉を惜しんで、そうしてできた穴を要らない言葉で埋めようとする。
いつかの俺だ。
つい今しがたの俺だ。
「それで、どこに行きたいんだ?」
「どこでもいい」
どこか遠くへ。
誰もいない、彼女だけのどこかへ。
「そこには、俺も行っていいのか」
「お前が連れてけって言ったんだろ」
「俺は奢れっつったんだよ……」
ため息が零れる。
まぁ、これでいいか。
頭が良すぎたら、一人で遠くへ行ってしまう。
他人を見限り、あるいは諦め、望む答えを自ら見つけに。
「花火、見に行こう」
「どこでやるんだ?」
「知らん。いつかどこかの河川敷で、一発くらいは上がるだろ」
遠くを見る。
あそこはどこだろう、なんていう場所だろう。
別に、知らなくていい。
そこがどこで、なんだったとしても、きっと俺たちには関係ない。
「打ち上げ花火か」
「なんだ、嫌なのか?」
笑って見やれば、彼女はバツの悪そうな顔で苦笑していた。
「私、本当は線香花火の方が好きなんだ」
「それを先に言え。買って帰るぞ」
「廊下でやる気か? 今度こそ追い出されるぞ」
前に追い出されそうになったのは無断で女連れ込んで連泊させたからだよ。
彼女はすぐに自分のことを棚に上げ、まるで俺が悪いかのように言い始める。
まぁ、それでもいいけど。
俺が悪いなら、むしろ好都合だ。
だってそれなら、俺が頑張った分だけ未来は良くなる。
笑っていられる時間も、長くなる。
「シフト、減らしてもらおうかな」
「は? お前、マジで年収――」
「来年、お前に先輩って呼ばれるとこ想像したら、若干アレだ、うんアレだ」
「……実家帰ろうかな」
それがいい。
本音は飲み込んで、小さく笑う。
「一緒に謝ってやるから、今から反省してる感じの表情用意しとけよ?」
「お前が謝って何になるんだ」
「最悪、俺が責任取る」
「はぁ?」
「そう言やぁ、親同士でぎくしゃくしてくれるさ」
少なくとも結託して袋小路に追い立てる真似はしなくなるだろう。
俺と彼女、互いに子供だ。
親は自分たちが大人のつもりで、我が子に責任を持とうとする。
そして誰だって、可愛い我が子の一生をこんな男や女に委ねたいとは思うまい。
「で、線香花火って幾らするんだ?」
「千円ありゃ足りるだろ」
「じゃあ後で四万と九千円返せ」
「やだね。これはもう私のだ」
彼女は逃げるように駆け出して、それから、まるで映画のワンシーンをなぞるように振り返った。
「それとも、線香花火にオマケが欲しい?」
にんまり笑う彼女の笑顔に、やっぱり俺は、友情しか抱けなくて。
「じゃ、ねずみ花火が欲しいな」
「え、なんで?」
「なんかこう、せせこま動くやつが見たくなったんだよ」
きっと大人から見た俺たちは――。
ちょっと危なっかしくて、けれど取るに足らぬ、そんな存在なのだろう。