表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/19

9.「倦怠期なの。退屈すぎるの。毎日が」

「今夜は楽しいひと時を過ごさせていただきました。久しぶりに笑ったって感じ。それに、史郎クンのオペラ、ホントすてきでしたわ。力強く、しなやかで、それでいて大らかで。古風に言えば、ますらおぶり(、、、、、、)ってイメージかな」


 なぜか赤いドレス姿の西山にしやま 眞子まこが、私の腕のなかにいた。

 かぐわしい香りが私を刺激し、思考することを奪っていた。

 立場としては食虫植物に捕らえられたような、あられもない痴態だったが、私の方こそ罠に嵌ったも同然だった。

 どうしてこんなことになったのか――。


「奥さん、西山先生に見つかったら、大変なことに――」


 気が動転した私は、なんとか眞子を押しのけようとした。

 が、女は思いのほか力が強かった。背中に腕を巻きつけられ、ふりほどけない。私たちはかなり酒が入っていた。


 いまだ階下のフロアでは乱痴気騒ぎが続いている。

 西山とその弟子たちが、でたらめなベルカント唱法でわめき散らし、招待客の笑い声を誘っていた。食器と食器がぶつかる音と、グラスの割れる音が重なった。


 私と眞子は、外の空気を吸うと称して席をはずしたつもりだった。

 それがいきなり眞子に手を引かれ、彼女の部屋のまえまで来てしまった。

 人が見ていないことをいいことに、ドアのまえで眞子は、ターンしながら私の腕のなかに潜り込んだ。

 私は倒れ込みそうになる彼女を受けとめた。



「倦怠期なの。退屈すぎるの。毎日が」眞子は言い、私にしなだれかかった。私に抱かれて、人妻はひとりの雌に戻っていた。――おいおい、私は23も年下なんだぞ。実の母親と、どっこいどっこいの年じゃないか。「史郎クンをひと目見たときから気になってた。なんだか身体がうずいて仕方ないの。昔から母性本能をくすぐるって言われない?」


「はじめてですよ、そんなこと言われたのは」


「あそう。なら、こんなシチュエーションも? もしかして童貞?」


「よしてください」と、私は赤いドレスの女の肩を押した。童貞も童貞、花のチェリーボーイだった。女の肌の匂いが、まさかこんなにも頭を痺れさせるとは思いもよらなかった。「倦怠期かどうか知りませんが、生徒とこんな仲になったら、先生から破門されますって!」


敏行としゆきちゃんにバレなきゃいいの」眞子はワイン臭い息を吹きかけてきた。私の顔を覗き込み、唇を押しつけてこようとする。美魔女も間近で見ると、小じわは隠しきれない。ファンデーションを油絵みたいに厚塗りしているにすぎないのだ。女性も年をとれば立派な左官職人だ。「あの人だって、最近私に愛想尽かしているの。わかるわ。このパーティーだって、やっつけ仕事みたいに済まそうとしてるんだもん。まえは海外へ連れてってくれたのに」


「だからって、私と浮気していい口実にはなりません!」


 そうは言いながら、私も男だった。

 当時はウブすぎた。眞子に言い寄られ、圧倒的な雌のフェロモンにかかれば、意思に反して不随意筋ふずいいきんが反応してしまう。

 いや――ウブじゃなくても逆らえまい。

 蜘蛛に捕らわれ、神経毒を注入されてみたい、堕落への願望が頭をよぎった。


「私だって驚き。自分って案外、年下好みだったなんて」


「ちょっ……奥さん!」


 眞子のリップグロスを塗ったなまめかしいそれが、タコの吸盤みたいに私の頬に吸い付いた。

 しばらく私は身を任せていたが、ふいに眞子は身を離した。

 私の腕を取り、ドアノブに手をかけた。


 そのまま昏い部屋へなだれ込んだ。

 室内では、されるがままもてあそばれた。


◆◆◆◆◆


 とても拒絶できなかった。若い肉体も、眞子の卓越した技巧にかかれば、のめり込むように溺れた。

 私たちの関係はその後、半年にわたって続いた。

 半年後、ピリオドを打った理由は――ありがちだった。

 眞子の様子を訝しんだ西山が烈しく追及したからにちがいない。それこそナチスドイツの憲兵なみに、尋問を強いたのだろう。


 いつもなら夫婦、仲睦まじく、どこへ行くにも一緒だった。

 なのに、ついていくのを嫌がったり、やたらと上の空になった。

 どんな鈍い男でも怪しまずにはいられまい。その点については、彼女は遊び慣れていなかった。

 西山が問いただすと、眞子は呆気ないほど陥落した。


◆◆◆◆◆


 レッスンでもない日、スタジオに来るよう呼びつけられた。

 電話口の西山の狂ったような怒号からして、関係がバレたにちがいない。パーティーに招待してくれたときの、上機嫌な男とは別人のようだった。

 私も面の皮が厚い。堂々とスタジオに乗り込んだ。

 そのころになると、妙に男性としての自信がみなぎっていたものだ。


「おい、佐那! よくもやってくれたな、え? オレの妻と寝たらしいじゃないか。いつからだ? どうだ、眞子を抱いた日、その足でオレの指導を受けに来たことだってあったんだろ? よくもいけしゃあしゃあと!」


 肥満体型とは思えぬ動きで、私に挑んできた。

 柔道選手のように私の襟首をつかんだ。

 グイと締めあげられた。


「私だけが悪いわけじゃない」と、臆面もなく言った。上から西山を見くだす。「眞子さんが先に誘った。彼女も寂しかったんだ。あんたがちゃんと女として扱うべきだったのに、ずっと放置してたからだ。ああいうきらびやかな人は、常に輝いていたいんです。それで私はダシに使われた」


 西山は私を宙吊りにしたまま、まるい顔をしかめ、信号機みたいに紅潮させた。


「なにー? それでおまえが選ばれたってわけか。眼鏡面のモヤシ野郎の分際で! ろくに女ひとりも世話できないくせに!」


「私の若いエキスの方がよかったんだとさ。あんたみたいな、歌しか歌えないポンコツは、お払い箱なんだと!」


「言わせておけば!」


 激昂した西山にスタジオ内へと引っ張られた。

 眼のまえにグランドピアノがあった。

 西山はためらいもなく、私の頭をピアノの側面に叩きつけた。

 はでな音が鳴り、眼のまえに火花が散った。


「いいか、今日かぎりでレッスンは辞めてもらう。今月の支払いもけっこうだ。なんなら、念書を書いてやってもいい。――ただし!」と、西山は私の髪をつかんで言い聞かせた。いまの一撃で額が切れて出血していた。「今後はオペラからいっさい手を引け。永久追放だ! おまえみたいな泥棒猫が、神聖なオペラを汚すんじゃない。もしこの世界に未練があって、どこかでオレと出くわしてみろ。そんときゃ、おまえの口のなかに手を突っ込んで、声帯をむしり取ってやるからな!」


「……てっきり、あんたの名を通じて、業界から圧力かけられるのかと思った。そんなに重鎮でもなかったわけか」


「減らず口を!」


 西山は、私の首根っこをつかんだまま立ちあがり、ピアノの屋根が開いた空間まで引きずった。

 頭をピアノに押し当てられた。

 西山は屋根を支える突上棒つきあげぼうをはずし、勢いよく屋根を閉じた。

 私の頭はピアノの屋根でかじられる形となった。両方の耳が潰れるくらいの衝撃。

 ガーン!と鍵盤が鳴る音がし、私の意識は瞬時にブラックアウトした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ