9.「倦怠期なの。退屈すぎるの。毎日が」
「今夜は楽しいひと時を過ごさせていただきました。久しぶりに笑ったって感じ。それに、史郎クンのオペラ、ホントすてきでしたわ。力強く、しなやかで、それでいて大らかで。古風に言えば、ますらおぶりってイメージかな」
なぜか赤いドレス姿の西山 眞子が、私の腕のなかにいた。
馨しい香りが私を刺激し、思考することを奪っていた。
立場としては食虫植物に捕らえられたような、あられもない痴態だったが、私の方こそ罠に嵌ったも同然だった。
どうしてこんなことになったのか――。
「奥さん、西山先生に見つかったら、大変なことに――」
気が動転した私は、なんとか眞子を押しのけようとした。
が、女は思いのほか力が強かった。背中に腕を巻きつけられ、ふりほどけない。私たちはかなり酒が入っていた。
いまだ階下のフロアでは乱痴気騒ぎが続いている。
西山とその弟子たちが、でたらめなベルカント唱法でわめき散らし、招待客の笑い声を誘っていた。食器と食器がぶつかる音と、グラスの割れる音が重なった。
私と眞子は、外の空気を吸うと称して席をはずしたつもりだった。
それがいきなり眞子に手を引かれ、彼女の部屋のまえまで来てしまった。
人が見ていないことをいいことに、ドアのまえで眞子は、ターンしながら私の腕のなかに潜り込んだ。
私は倒れ込みそうになる彼女を受けとめた。
「倦怠期なの。退屈すぎるの。毎日が」眞子は言い、私にしなだれかかった。私に抱かれて、人妻はひとりの雌に戻っていた。――おいおい、私は23も年下なんだぞ。実の母親と、どっこいどっこいの年じゃないか。「史郎クンをひと目見たときから気になってた。なんだか身体が疼いて仕方ないの。昔から母性本能をくすぐるって言われない?」
「はじめてですよ、そんなこと言われたのは」
「あそう。なら、こんなシチュエーションも? もしかして童貞?」
「よしてください」と、私は赤いドレスの女の肩を押した。童貞も童貞、花のチェリーボーイだった。女の肌の匂いが、まさかこんなにも頭を痺れさせるとは思いもよらなかった。「倦怠期かどうか知りませんが、生徒とこんな仲になったら、先生から破門されますって!」
「敏行ちゃんにバレなきゃいいの」眞子はワイン臭い息を吹きかけてきた。私の顔を覗き込み、唇を押しつけてこようとする。美魔女も間近で見ると、小じわは隠しきれない。ファンデーションを油絵みたいに厚塗りしているにすぎないのだ。女性も年をとれば立派な左官職人だ。「あの人だって、最近私に愛想尽かしているの。わかるわ。このパーティーだって、やっつけ仕事みたいに済まそうとしてるんだもん。まえは海外へ連れてってくれたのに」
「だからって、私と浮気していい口実にはなりません!」
そうは言いながら、私も男だった。
当時はウブすぎた。眞子に言い寄られ、圧倒的な雌のフェロモンにかかれば、意思に反して不随意筋が反応してしまう。
いや――ウブじゃなくても逆らえまい。
蜘蛛に捕らわれ、神経毒を注入されてみたい、堕落への願望が頭をよぎった。
「私だって驚き。自分って案外、年下好みだったなんて」
「ちょっ……奥さん!」
眞子のリップグロスを塗ったなまめかしいそれが、タコの吸盤みたいに私の頬に吸い付いた。
しばらく私は身を任せていたが、ふいに眞子は身を離した。
私の腕を取り、ドアノブに手をかけた。
そのまま昏い部屋へなだれ込んだ。
室内では、されるがまま弄ばれた。
◆◆◆◆◆
とても拒絶できなかった。若い肉体も、眞子の卓越した技巧にかかれば、のめり込むように溺れた。
私たちの関係はその後、半年にわたって続いた。
半年後、ピリオドを打った理由は――ありがちだった。
眞子の様子を訝しんだ西山が烈しく追及したからにちがいない。それこそナチスドイツの憲兵なみに、尋問を強いたのだろう。
いつもなら夫婦、仲睦まじく、どこへ行くにも一緒だった。
なのに、ついていくのを嫌がったり、やたらと上の空になった。
どんな鈍い男でも怪しまずにはいられまい。その点については、彼女は遊び慣れていなかった。
西山が問いただすと、眞子は呆気ないほど陥落した。
◆◆◆◆◆
レッスンでもない日、スタジオに来るよう呼びつけられた。
電話口の西山の狂ったような怒号からして、関係がバレたにちがいない。パーティーに招待してくれたときの、上機嫌な男とは別人のようだった。
私も面の皮が厚い。堂々とスタジオに乗り込んだ。
そのころになると、妙に男性としての自信がみなぎっていたものだ。
「おい、佐那! よくもやってくれたな、え? オレの妻と寝たらしいじゃないか。いつからだ? どうだ、眞子を抱いた日、その足でオレの指導を受けに来たことだってあったんだろ? よくもいけしゃあしゃあと!」
肥満体型とは思えぬ動きで、私に挑んできた。
柔道選手のように私の襟首をつかんだ。
グイと締めあげられた。
「私だけが悪いわけじゃない」と、臆面もなく言った。上から西山を見くだす。「眞子さんが先に誘った。彼女も寂しかったんだ。あんたがちゃんと女として扱うべきだったのに、ずっと放置してたからだ。ああいう煌びやかな人は、常に輝いていたいんです。それで私はダシに使われた」
西山は私を宙吊りにしたまま、まるい顔をしかめ、信号機みたいに紅潮させた。
「なにー? それでおまえが選ばれたってわけか。眼鏡面のモヤシ野郎の分際で! ろくに女ひとりも世話できないくせに!」
「私の若いエキスの方がよかったんだとさ。あんたみたいな、歌しか歌えないポンコツは、お払い箱なんだと!」
「言わせておけば!」
激昂した西山にスタジオ内へと引っ張られた。
眼のまえにグランドピアノがあった。
西山はためらいもなく、私の頭をピアノの側面に叩きつけた。
はでな音が鳴り、眼のまえに火花が散った。
「いいか、今日かぎりでレッスンは辞めてもらう。今月の支払いもけっこうだ。なんなら、念書を書いてやってもいい。――ただし!」と、西山は私の髪をつかんで言い聞かせた。いまの一撃で額が切れて出血していた。「今後はオペラからいっさい手を引け。永久追放だ! おまえみたいな泥棒猫が、神聖なオペラを汚すんじゃない。もしこの世界に未練があって、どこかでオレと出くわしてみろ。そんときゃ、おまえの口のなかに手を突っ込んで、声帯を毟り取ってやるからな!」
「……てっきり、あんたの名を通じて、業界から圧力かけられるのかと思った。そんなに重鎮でもなかったわけか」
「減らず口を!」
西山は、私の首根っこをつかんだまま立ちあがり、ピアノの屋根が開いた空間まで引きずった。
頭をピアノに押し当てられた。
西山は屋根を支える突上棒をはずし、勢いよく屋根を閉じた。
私の頭はピアノの屋根で齧られる形となった。両方の耳が潰れるくらいの衝撃。
ガーン!と鍵盤が鳴る音がし、私の意識は瞬時にブラックアウトした。




