8.bluff
えいくそ! こうやってグジグジ考えているだけで、この男に情報を盗み取られているんだぞ!
ダダ漏れもいいところだ。しっかりシャッターを閉めろ!
竹田 哲人は上目づかいで私を覗き込んだ。
「動揺されていますねー。チョイ、と背中を押しただけで、おもしろいほど総崩れだ。叩けば埃の出ない人はいないものです。それは堅物と称されるあなたとて例外ではなかった――」と、低い声で言い、愉快そうに笑った。「僕は覗いてしまいました。あなたの秘められた過去、恐るべき罪を。ときおり僕は、自分の才能にふるえあがることがあります」
「自己陶酔ですか。けっこうなことじゃありませんか。ときには自分を肯定することも必要です」
私は虚勢を張って言った。身体がバイブレーターのようにふるえている。
「そうじゃありません。僕が覗き見たことを脅しにかけて、商材シャーデンフロイデを購入していただくのもアリではないかと。僕はいけない人間でしょうか?」竹田はにじり寄った。マリアナ海溝のようなほうれい線が気になって仕方がない。「毎月のノルマが尋常ではないのです。ノルマ未達者は、去らねばならないほど過酷な職場なのです。自慢じゃありませんが、僕はこの道30年選手。他の空気を吸ったことがない。いまさら営業職から足を洗って、他で通用する自信もないのです。だったら、手に入れた情報をネタに、脅迫してでも売りつけたい」
「竹田さん、どうかしてるよ。まるでブラック企業の申し子みたいじゃないか。あなたほどの口の達者な人なら、なんだって通用するように思えるが」
「人生を一度リセットし、ふたたびゼロから始めるには、それはそれで途轍もないエネルギーが必要です。そう思いませんか、佐那さん? こんな僕ですが、さすがに勇気はない。僕だって所帯を持っていますから」と、竹田は寂しげに声を落とした。「佐那さん。僕はあなたの秘密を知っている。こんな恐ろしい悪事を、僕は握ってしまった。あまりのおぞましさに、顔を背けたくなる――」
竹田は片手で顔を覆った。
指のすき間から、大きな眼を見開いて、私を見つめる。
さっきのは私の演技だったが、それ以上に竹田は役者だった。いっそのこと劇団に入ればいいのに。
――もはや、進退窮まったか。この男にかかれば逃げきれないのか。
「このままずっと隠し通せると思ってた」と、苦々しげに私は、しゃがれ声を出した。後ずさりをし、力なくまたベンチに腰を落とした。悄然とうなだれる。「……墓場まで持っていこうと、あの人とは誓い合ったんだ。まさかあの人が秘密を漏らさないかぎり、あなたが私の罪を知っているはずがない。いや、そんなわけはないんだ。あの人はすでに10年前、故人となってしまったんだから」
「ほう! 墓場までね。あの人。もちろんあの人とは、あの人のことですよね?」
「観念するよ。私が世間知らずのころの――オペラ歌手を夢見てたときに、しでかした殺人をさしてるんでしょ? あなたにかかると、本当に丸裸にされるみたいだ」
竹田は、にんまりと口角を吊りあげた。
尻を突き出し、両腕を広げ、まさに捕食者が獲物を追いつめたポーズをする。
「そうです、オペラ歌手のレッスンを受けていたときに犯した殺人。あなたのような倫理から生まれてきたような人物が、魔が差してしまったとしか思えない」
私は頭を抱えた。
「そうとも、魔が差した! そうとしか言いようがない!」
「よかったら、そこに行き着いた経緯を教えていただけませんか、佐那さん。さすがに僕の力をもって、そこまでは覗けない」
竹田は私の肩に手をおいた。私は顔をあげて、ため息をついた。
「それもいいかもしれませんね。ずっと封印してきたが、そのくせ誰かに喋って、楽になりたい心理がありました。私一人で抱えきれなかった。もしかしたら、あなたなら受け止めてくれるかもしれない――」
◆◆◆◆◆
若さと苦さ。漢字が似ているのは皮肉な話である。
大学時代からはじまり、20代半ばにかけて、私はオペラ歌手になるべく猛特訓を積んだ。
知人のツテを使い、ウィーンで修業を積んだという触れ込みのオペラ歌手に弟子入りしたほどである。
それが西山先生だった。
音楽一家に生まれ、子供時代から英才教育を受けた生粋のサラブレッドで、歌にかけては、非の打ちどころがないほどのプロフェッショナルだった。頭の先から足先に至るまで、まさにオペラの人だった。
美声にも定評があり、本場仕込みのベルカント唱法は、誰もが羨むほどの技量だった。
声楽レッスンの指導も激烈に厳しいとはいえ、実践的な訓練法を使って受講者を育てあげ、多くのセミプロを輩出していた。
ただし彼の人間性には、かなり難があることで知られていた。
暇さえあれば、日本の演歌をこきおろす。――あのコブシってなんなの? あんな発声法、気味が悪いんですけど?と、顔をしかめた。
のみならず、日本のアーティスト界全体を軽蔑していた。
先進国なのに、ろくに英語の発音すらままならない日本人が、英語の歌詞を歌うなど滑稽だと。
とりわけラッパーまがいの若者たちなど、ちゃんちゃらおかしいと、口汚く、それこそクソミソに貶した。
オペラ歌手としてはすばらしかったが、スタジオを出ればとんでもなく鼻持ちならぬ人物だった。
この際、人となりは別として、歌の上達が見込めるだけに、多くの受講者は我慢した。
それにしても、月々のレッスン費用が異様に高かった。
個人レッスンが一回あたり60分が、25,000円もかかったのだ。西山先生もマンツーマンで集中的に教えられるとはいえ、いくらなんでもぼりすぎだ。
苦学生や、就職した直後のペエペエの会社員が継続していくには、いささか負担がきつすぎた。
おまけに西山には気分屋の一面があり、調子が悪いと指導もおざなりだった。芸術家気質の人はこんなものだと割り切っていたので、私は気にしなかったが――。
ある日、上機嫌な西山にレッスンを受けた。
一曲歌うなり、えらく褒めちぎってくれた。
まるいあごを突き出し、やけにニコニコしている。
「あー、いいねえ、佐那ちゃん、僕のハートに響くよ。正しい身体の使い方、正しい発声法、歌唱力、表現、演技。どれを取ってもバッチグーね。それにベルカント唱法もいい。すんごくイイ。おなかから迸っちゃってますぅ。僕ちゃんもウカウカしていらんない! この分だと佐那ちゃんに追い抜かれるかも!」
と、西山はホホホホホと、独特な笑い方をした。
「おかげさまです。これも西山先生の4年間のご指導があり、ようやく実を結んだのだと思います」
私はまんざらでもない口調で言った。
西山はそばにすり寄ってきて、私の肩を抱いた。
「ところでさー、佐那ちゃん。来週の土曜、僕ん家でパーティーを開くんだけどさ。よかったら来てくんないかな?」
「私を――招待してくれるんですか?」当時24だった私は心底驚いた。いままで西山とは、ビジネスライクな付き合いでしかなく、まさか自宅に招かれるとは思いもよらなかった。きっと受講者のなかでは私だけのはずだ。「どうしてまた……。私みたいな一般人がお邪魔してもよろしいのでしょうか。セレブの人たちが集まるんでしょ? なんだか気後れしちゃうなぁ」
「あー、いいってこと。妻の誕生日なの。僕ちゃんとおない年の47歳。ホホホ、眞子ちゃんの年、バラしちゃった。背骨折られちゃうかも」と、西山はやたらと笑い、なれなれしく私の腰に手をまわしてきた。「ほら、こないだ眞子ちゃんがスタジオに遊びに来たでしょ。そのときにね、佐那ちゃんの姿をひと目見るなり、気に入ったって言うの。よかったら眞子ちゃんのパーティーの余興で、ここで鍛えた歌声、聞かせてやってくんないかな? 僕ちゃんの歌はふだんから聞いてるからつまんないんだって。くう~~~ッ!」
「奥さんが、私のことを?」
私は西山 眞子のことをすぐに思い描いた。
47にしては若々しく、すらりとした身体つきと、細面のきれいな女性だった。いまでいう美魔女だろう。洗練された佇まいで、いかにも西山がゾッコンになるのは頷けた。結婚5年目だという。